『日本書紀』の任那-構成と地理

2007.05.15

 中国・朝鮮史料及び『日本書紀』における「任那」と、『日本書紀』においては任那以外の国・県・邑などについてもみてきた。これが「任那」のすべてであり、「任那」はそれ以上でもそれ以下でもない。ここから「任那」をとらえることが大切であり、従来言われてきた諸々のことは一切頭から切り離して考えなければならない。

  『日本書紀』の任那とそのほかの朝鮮諸国・地域

  『日本書紀』には百済・新羅・高麗・任那に関する記事が非常に多いので、ここでは任那国の構成と地理に的を絞って整理することにする。
  任那に関係する記事(『日本書紀』の任那1、2、3)からは次のことがいえる。

○任那は筑紫から2千里余りのところにあり、北は海でへだてられており、雞林の西南にある。

○任那と高麗は交通しやすい位置関係にあった(紀生磐宿禰が任那を拠りどころとして高麗と交通し三韓の王になろうとした)。

○任那には日本という県があった。日本府の前身かもしれない。

○任那の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県は百済に近かった(百済に近かったので百済に割譲した)。下哆唎県には久麻那利というところがあった。

○南加羅・[口彔]己呑は新羅に破られ、任那から新羅領となった。

○任那には金官・背伐・安多・委陀あるいは多々羅・須那羅・和多・費智という村があったが新羅に取られた。また久斯牟羅・己叱己利・多々羅原というところがあり、さらに久禮牟羅、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳という城があった。

○新羅領となった元任那の南加羅・[口彔]己呑・卓淳、加羅、安羅を任那と呼ぶこともある。

○目頰子は壱岐の海峡を渡って任那に行った(対馬の海峡ではない)。

○任那は加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞飡国・稔禮国の十国の総称である。

○任那日本府は加羅にあった(541年4月現在)。

○任那日本府は加羅から安羅に遷った(541年7月現在)。

○百済は下韓(=南韓)に郡令を置いていた。下韓は安羅にあったと思われる。

○安羅は任那(この任那は任那諸国のこと)の兄的存在であり、日本府は安羅にとって絶対的存在である。

○新羅と安羅の国境には大きな川がある。

○562年正月、新羅が任那官家を滅ぼした。滅んだのは任那の官家であり、任那が滅んだのではない。これ以後も任那に遣使したり、任那が朝貢していることがその証拠である。

○600年新羅は多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅・阿羅々の六城を割いて降服した。多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀は529年に任那が失った村である。南迦羅は南韓(下韓)であり、阿羅々は安羅の一地域であると思われる。

○623年新羅が任那を伐ったので日本は新羅を伐った。新羅は任那を領有することはなかった。

 任那は現われないが朝鮮諸国・県・村の名などが記録されている記事(『日本書紀』の任那4)からは、次のことがいえる。

○比自[火本]・南加羅・[口彔]国・安羅・多羅・卓淳・加羅の七国はもと新羅に属していた国である(新羅を撃ち七国を平定した)。したがって任那十国の安羅・多羅・加羅は任那の中で最も新羅に近い国であることになる。

○新羅は百済・加羅から日本への道を遮ることのできる地理環境にあった。

○己汶は百済と伴跛に挟まれた地域である。

○帯沙は百済に隣接していた(帯沙を百済に下賜した)。

○伴跛→小呑→帯沙→帯沙江→海→汶慕羅嶋という位置関係にある。

○加羅の多沙津は、百済から日本への最適な経由港である。加羅は海に面した国である。

○帯沙江と多沙津は別地名である。

○加羅は百済と新羅の両国に隣接していた。

○久斯牟羅・多々羅・須那羅・和多・費智は安羅にあった邑であり、己叱己利は安羅にあった城であると思われる。

○伊斯枳牟羅・久禮牟羅・騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳、背評も安羅にあったと思われる。

○下韓は、新羅を制し北の高麗を防ぐための重要拠点である。安羅は新羅に隣接し、北は高麗にも接していたと思われる。

○安羅は日本との往来の要である。

○推古天皇8年(600)、多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅・阿羅々は新羅から任那に回復した。

 これらのことから、『日本書紀』の任那とそのほかの朝鮮諸国・県・村などの関係を整理すると、次のようになる。

(1) 任那は筑紫から2千里余りのところにあり、北は海でへだてられており、雞林の西南にある。

(2) 任那は壱岐の海峡を渡ったところにある。

(3) 任那は加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞飡国・稔禮国の十国の総称である。

(4) 任那日本府は加羅にあったが、541年4月から同年7月の間に安羅に遷った。

(5) 安羅は任那(諸国)の兄的存在であり、日本府は安羅にとって絶対的存在である。

(6) 比自[火本]・南加羅・[口彔]国・安羅・多羅・卓淳・加羅は新羅と任那の国境に接している(これら七国はもともと新羅領だった)。

(7) 「任那」は任那の総称としてだけではなく、新羅に取られた元任那の諸国、加羅、安羅を指す場合がある。

(8) 上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県は百済と任那の国境に接している。

(9) 安羅には、金官・背伐・安多・委陀あるいは多々羅・須那羅・和多(委陀)・費智(弗知鬼)という邑、下韓(南韓)、久斯牟羅、己叱己利、背評、伊斯枳牟羅、久禮牟羅、騰利枳牟羅、布那牟羅、牟雌枳牟羅、阿夫羅、久知波多枳というところがある。

(10)安羅の下韓(南韓)は、新羅を制し北の高麗を防ぐ拠点である。

(11)新羅と安羅の国境には大きな川がある。

(12)伴跛→小呑→帯沙→帯沙江→海→汶慕羅嶋という位置関係にある。

(13)加羅の多沙津は、百済から日本への経由地にある。加羅は海に面している。

(14)帯沙は百済に隣接している。

(15)加羅は百済と新羅の両国に隣接している。

(16)己汶は百済と伴跛に挟まれた地域である。

(17)562年に滅んだのは任那ではなく任那の官家であり、任那は最終的に新羅に領有されることなく、少なくとも646年まで存在した。

  『日本書紀』の任那像

 『日本書紀』の任那を一口で言うと、新羅と百済に挟まり、常に新羅の侵略の的となり、日本が勝手に百済に下賜できる地域があった国、である。日本(やまと)は新羅に滅ぼされた任那の一部諸国を建てるよう指示するが、日本の臣は勝手な行動をしたり、新羅に加担したりし、百済の聖明王だけが何とかしようと躍起となっている(『日本書紀』の記録としてであり、日本、聖明王の存在と行動が史実かどうかは別問題)。
  『日本書紀』はこの聖明王の膨大な政策記録を残しているが、具体的な行動はなく、結局任那官家が滅ぼされ、その後新羅に破られ新羅に付いた任那を救ったのは日本の軍だった。しかし日本は日本府を復興しなかった。その後の朝貢記事などをみると、任那は日本の干渉を受けることのない国になったようである。このあたりの状況が非常にあいまいであり、なぜそうなったのかがまったくわからない。
  623年以後、百済・新羅・高麗・任那には争いはなく、四国そろって朝貢することもあり、任那は新羅に取り込まれることなく、646年までは存在していたのである。その後任那は歴史から姿を消すが、なぜそうなったのかもまったく記録がなくわからない。
  任那の最期は霧の中であるが、任那とその周りの国・地域の位置関係については、少しではあるがわかる。

任那は筑紫から2千里ばかりの(壱岐の海峡を渡った)ところにあり、北は海で雞林の西南にある。

任那は百済と新羅に接し、新羅との国境に接したところに比自[火本]・南加羅・[口彔]国・安羅・多羅・卓淳・加羅があり、百済との国境に接して上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県がある。

加羅は百済と新羅に隣接し海に面する国で、加羅の多沙津は百済から日本への経由港である。

安羅には下韓(南韓)というところがあり、下韓のすぐ北には高麗があり、また新羅とも近い。

帯沙は百済に隣接し海に面し、帯沙の奥には小呑・伴跛がある。

己汶は百済と伴跛に挟まれている。

安羅と新羅の国境には大きな川がある。

  の「北阻海」の解釈に異説があるが、先入観を除き原文をそのまま読めば、任那はその北に海があり、新羅の雞林の西南にあったと解釈できる。
  ②③⑤⑥については、そういう位置関係にあるということだけで、それぞれを確定するにはまだ条件が不足している。は安羅と新羅に関しては決定的条件となっているが、これ以上のことはわからない。
  今回のこの作業を始める前は、『日本書紀』には任那が朝鮮半島にあったことを示す記録がふんだんに散りばめられているものと思っていた。しかし『日本書紀』から抽出した記事にはそれを明確に示すものは一つも発見されず、かえって任那は朝鮮半島にはなかったのではないかという記事がいくつかみつかった〔(1)(2)〕。だからといって、今、任那は朝鮮半島にはなかった、というつもりはない。それにはまだ史料が少なすぎる。しかし今回のこの作業によって、どんなにわかりきった史料でも自分で調べてみること、それがいかに大切なことであるか、改めて思い知らされることになった。このことは大きな収穫だった。

※『日本書紀』が(1)(2)のような内容の書き方をした理由は不明であるが、他の史料や歴史事実との整合性から、任那は朝鮮半島内に存在していたと、現在、私は考えている。2016.06.15

  中国・朝鮮史料の「任那」「加羅」

 中国・朝鮮史料の任那とともに共通して現われるのは加羅である。中国資料のうち正史の任那加羅は「任那≠加羅」の加羅であり、高句麗広開土王碑の任那加羅の加羅も同様である。しかし中国資料でも『翰苑』「地惣任那」の加羅、『通典』の加羅、そして朝鮮史料『三国史記』の「任那加良人」の加良がどうも気になるのである。そこでこの加羅について、第一回の説明と重複するところもあるが、ここでもう一度考えてみることにした。
  高句麗広開土王が活躍したのは400年前後である。また倭の王が除正を求めて、初めて六国諸軍事を認められたのは済のときで451年のことである。
  一方『翰苑』「地惣任那」の加羅は、ここには「今訊新羅耆老云、加羅任那昔爲新羅所滅」と書かれており、昔のこと、つまり『翰苑』が成立した660年より数十年前(600~630年頃?)の状況を記したものであることがわかる。また『通典』の内容も『翰苑』の耆老の話しと同じ時代の同じ状況を記したものと思わる。
  同じ加羅でも五世紀と七世紀のことを記したものであり、二つの時代の加羅を頭から同じものと決めつけてはいけない。史料に忠実に考える必要がある。念のため、次に『翰苑』と『通典』のこの部分を掲載する。

《地惣任那》齊書云、加羅國三韓種也。今訊新羅耆老云、加羅任那昔爲新羅所滅、其故今並在國南七八百里。此新羅有辰韓卞辰廿四國、及任那加羅慕韓之地也。(『翰苑』新羅

其先附屬於百濟、後因百濟征高麗人、不堪戎役、相率歸之、遂致強盛、因襲加羅任那諸國滅之。【並三韓之地】(『通典』北宋版 邊防第一東夷 新羅)

  『翰苑』の「加羅國三韓種也」は、加羅は三韓(馬韓・弁韓・弁辰)の一つであるという意味だと思う。並んで在るということから、加羅と任那はそれぞれ独立した別の国であることもわかる。
  『通典』の注にある「並三韓之地」は、「加羅任那とは別に三韓の地も」と解釈することができ、加羅任那は三韓とは別の存在だった、とみることができる。
  『翰苑』と『通典』で共通している部分に「加羅任那」がある(『翰苑』には「任那加羅」もある)。これは任那の中の加羅ではないことを決定づけている。『通典』は『翰苑』と同じ事件を記しているから、加羅と任那は独立した別の国である。
  『翰苑』『通典』と高句麗広開土王碑は記している時代は異なるが、やはり加羅と任那は別の国とみていたと結論できそうである。ただ『翰苑』によれば、二国は並んで在ったのであり、朝鮮半島南部と対馬のような位置関係はありえないのかもしれない。
  最後に『三国史記』の「任那加良人」について。

及太宗大王卽位〔654〕、唐使者至傳詔書。其中有難讀處。王召問之、在王前一見説釋無疑滯。王驚喜、恨相見之晩、問其姓名、對曰、臣本任那加良人、名字頭。(『三国史記』列伝第六 強首)

 任那加良が存在していたとき任那加良に生まれ育った、だから「私は任那加良人でした」と強首は言ったのである。これは654年のことであり、このときには任那加良はすでになかったことになる。「任那加良人」の時代は、前述した『翰苑』『通典』の時代と重なる。任那加良は『翰苑』『通典』の「加羅任那」「任那加羅」とみることができる。そうすると任那加良人は「任那・加羅の人」ということになる。この場合、一人の人間に対して任那国と加羅国の人では意味が通らない。任那と加羅は独立した別の国であったが、このときすでに新羅領となり任那と加羅の地域的区分がなくなり、任那加羅人という言い方をしたのかもしれない。真相はわからないが、この二国が一地域としてみられうる地理的条件下にあったとも考えられる。
  任那加良人は「任那の中の加羅の人」あるいは「任那=加羅」ではないか、そんなことが脳裏をかすめ気になったのであるが、同じ時代を記録した史料に、「加羅任那」という並び順、「並在國南七八百里」の「並」によってそれは否定された。ここにみる史料からは、任那と加羅は独立した別の国だった、と考えるしかない。この加羅は『日本書紀』がいう任那十国の中の加羅ではないということである。
  任那あるいは加羅を加耶だとする見方もあるが、加耶は562年にすべて滅んだ。強首が「臣本任那加良人」といった「任那加良」が「加耶」のことだったとすると、強首は少なくとも92歳になっていたことになる。それはありえなくはないが考えにくい。
  そこで『日本書紀』の任那をみると、任那は646年までは存在していた。「任那加良」の「任那」が『日本書紀』の任那のことであれば、強首の言葉に矛盾は起こらない。その後任那は滅亡したため、強首は「臣本任那加良人」と言ったのである。
  中国・朝鮮史料の任那・加羅を整理すると次のようになる。

任那は百済・新羅・秦韓・慕韓・加羅と並んで記される独立した一つの国である。「任那=加羅」ではない。

新羅の支配は辰韓・卞韓24国に加え、加羅・任那・慕韓に及んだ。加羅・任那は660年(『翰苑』成立)の時点で、ともに新羅の南7、8百里のところにあった。

「任那加良人」は、任那と加羅を一つの地域としてみたときの呼び方だったと思われる。  


※最後に加えた説明が、本文の主旨をわかりづらくしてしまったので削除した。2008.04.04
※任那官家を安羅日本府としたが、その可能性はあるものの、史料からは確定することができないので、その部分を削除した。2014.03.18
※任那加羅は朝鮮半島にはなかったのではないかとする見方による表現があったが、現在そのようには考えていないので、その部分の削除・訂正・修正を行った。2016.06.15


つづく


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