『日本書紀』の任那-そのほかの朝鮮諸国

2007.05.08

  そのほかの朝鮮諸国

 『日本書紀』の任那については前回までに説明したとおりであるが、任那記事の中には任那以外に朝鮮系の国名・県名・邑名などがいくつも現われる。これら国・県・邑は、任那が現われない記事においても数多く出現する。ここでは任那以外の国・県・邑を中心に考えてみたい。県名・邑名・山名などは国名記事に付随したものであり、すべてではないことをご了解いただきたい。
  前三回記事と重複する記事もいくつかあるが、今回は観点が少し異なるので新しい見方が生まれてくる可能性もあり、毎回、新しい知識を積み重ねながらのことであるので、前三回と見解が異なってくる部分もあるかもしれない。その場合には今回の内容を優先としたい。

(神功皇后)

○卌六〔366〕年春三月乙亥朔、遣斯麻宿禰于卓淳國。斯麻宿禰者、不知何姓人也。於是、卓淳王末錦旱岐、告斯摩宿禰曰、甲子年七月中、百濟人久氐・彌州流・莫古三人、到於我土曰、百濟王、聞東方有日本貴國、而遣臣等、令朝其貴國。故求道路、以至于斯土。若能敎臣等、令通道路、則我王必深德君王。時謂久氐等曰、本聞東有貴國。然未曾有通、不知其道。唯海遠浪嶮。則乘大船、僅可得通。若雖有路津、何以得達耶。於是、久氐等曰、然卽當今不得通也。不若、更還之備船舶、而後通矣。仍曰、若有貴國使人來、必應告吾國。如此乃還。爰斯摩宿禰即以傔人爾波移與卓淳人過古二人、遣于百濟國、慰勞其王。時百濟肖古王、深之歡喜、而厚遇焉。仍以五色綵絹各一匹、及角弓箭、幷鐵鋋卌枚、幣爾波移。便復開寶藏、以示諸珍異曰、吾國多有是珍寶。欲貢貴國、不知道路。有志無從。然猶今付使者、尋貢獻耳。於是、爾波移奉事而還、告志摩宿禰。便自卓淳還之也。

百済が日本に朝貢するようになったいきさつを述べたものである。百済が日本に朝貢しようと思ったが、日本への道を知らないので卓淳に訊ねてきたという。しかし卓淳も知らなかったので、百済はもし日本からの使人が来たら知らせるようにと言って帰っていった。日本の使者が卓淳でこの話しを聞き、さっそく使者を百済に派遣したというものである。卓淳も百済も日本を知らなかったことになる。
  卓淳は次の49年〔369〕春3月条では新羅に属していたようにみえるが、百済の使者が尋ねていくところをみると、新羅領といっても、緩やかな支配だったのかもしれない。
  百済肖古王(このときは近肖古王である)は疑問である。

○卌九年〔369〕春三月、以荒田別・鹿我別爲將軍。則與久氐等、共勒兵而度之、至卓淳國、將襲新羅。時或曰、兵衆少之、不可破新羅。更復、奉上沙白・蓋盧、請增軍士。即命木羅斤資・沙々奴跪、【是二人、不知其姓人也。但木羅斤資者、百濟將也。】領精兵、與沙白・蓋盧共遣之。倶集于卓淳、擊新羅而破之。因以、平定比自[火本]南加羅[口彔]安羅多羅卓淳加羅、七國。仍移兵、西廻至古奚津、屠南蠻忱彌多禮、以賜百濟。於是、其王肖古及王子貴須、亦領軍來會。時比利辟中布彌支半古、四邑、自然降服。是以、百濟王父子及荒田別・木羅斤資等、共會意流村。【今云州流須。】相見欣感。厚禮送遣之。唯千熊長彦與百濟王、至于百濟國、登辟支山盟之。復登古沙山、共居磐石上。

  卓淳国に行って新羅を襲おうとしている。卓淳国は新羅に近接していたものと思われる。
  平定した比自[火本]・南加羅・[口彔]国・安羅・多羅・卓淳・加羅の七国のうち、安羅・多羅・加羅の三国は欽明天皇23年〔562〕春正月条にいう任那十国に含まれている。南加羅・[口彔]国は、継体天皇21年〔527〕には新羅に取られていた国であり、卓淳も欽明天皇2年[541]には新羅領となっている。しかしこの記事では、新羅を破って七国を平定したとなっているから、これら七国はもともと新羅に属していたことになる。任那は新羅から独立した国々の集まりのようにみえる。
  比自[火本]は、『三国史記』「雑誌第三」地理一火王郡に「火王郡はもと比自火郡」であると書かれているが、この「比自火」のことなのかどうかはわからない。
  古奚津と忱彌多禮(済州島だとされる)は「西廻至」とあり、これに継続して書かれている比利・辟中・布彌支・半古なども朝鮮半島西南部にあったものと想像される。肖古王と王子貴須は時代的には近肖古王と近仇首王のことであり、時代を120年遡らせているが、これは近肖古王の時代ならばありうるかもしれない。(この記事は、倭が高句麗に任那加羅に追われる少し前の時代であり、倭と百済と新羅の間にはこのような攻防があった可能性は否定できない。2016.06.15

○六十二年〔382〕、新羅不朝。即年、遣襲津彦擊新羅。【百濟記云、壬午年、新羅不奉貴國。々々遣沙至比跪令討之。新羅人莊飾美女二人、迎誘於津。沙至比跪、受其美女、反伐加羅國、々々々王己本旱岐、及兒百久至・阿首至・國沙利・伊羅麻酒・爾汶至等、將其人民、來奔百濟。百濟厚遇之。加羅國王妹既殿至、向大倭啓云、天皇遣沙至比跪、以討新羅。而納新羅美女、捨而不討。反滅我國。兄弟人民、皆爲流沈。不任憂思。故、以來啓。天皇大怒、即遣木羅斤資、領兵衆來集加羅、復其社稷。】

  この加羅は任那十国の中の加羅である。新羅を撃つところを加羅を撃つのであるから、他の記事からもわかるが、加羅は新羅と近接していたのである。

(応神天皇)

○十四年〔403〕(中略)是歳、弓月君自百濟來歸。因以奏之曰、臣領己國之人夫百廿縣而歸化。然因新羅人之拒、皆留加羅國。爰遣葛城襲津彦、而召弓月之人夫於加羅。然經三年、而襲津彦不來焉。

  弓月君が百済から日本に来ることを新羅が拒み、加羅に留まっていたというから、新羅は百済・加羅から日本へのルートを遮ることができる位置にあったことがわかる。

○十六年〔405〕(中略)八月、遣平群木菟宿禰・的戸田宿禰於加羅。仍授精兵詔之曰、襲津彦久之不還。必由新羅之拒而滯之。汝等急往之擊新羅、披其道路。於是、木菟宿禰等進精兵、莅于新羅境。新羅王愕之服其罪。乃率弓月之人夫、與襲津彦共來焉。

 加羅と日本のルートを新羅が遮っていて襲津彦は帰れないのだという。やはり新羅は加羅と日本の間に入り込むことができる位置関係にあったことになる。

(継体天皇)

○(六年〔512〕)冬十二月、百濟遣使貢調。別表請任那國上哆唎下哆唎娑陀牟婁、四縣。哆唎國守穗積臣押山奏曰、此四縣、近連百濟、遠隔日本。旦暮易通、鷄犬難別。今賜百濟、合爲同國、固存之策、無以過此。然縱賜合國、後世猶危。況爲異場、幾年能守。大伴大連金村、具得是言、同謨而奏。(中略)其妻切諫云、稱疾莫宣。大連依諫。由是、改使而宣勅。付賜物并制旨、依表賜任那四縣。(中略)於是、或有流言曰、大伴大連、與哆唎國守穗積臣押山、受百濟之賂矣。

 哆唎国守穗積臣押山は上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県は百済に近いという。これら四件はそれまでは百済領ではなかったのであり、これらは、任那の中で新羅とは反対の位置関係にあった県ということになる。また、任那には日本が自由に百済に下賜できる地域があったことになる。後に出てくる任那十国には含まれない、任那の空白地域があったのだろうか。

○七年〔513〕夏六月、百濟遣姐彌文貴將軍・洲利即爾將軍、副穗積臣押山、【百濟本記云、委意斯移麻岐彌。】貢五經博士段楊爾。別奏云、伴跛國略奪臣國己汶之地。伏願、天恩判還本屬。

 伴跛は任那十国にはないので、どういう立場にある国なのかよくわからない。己汶は百済が「臣國」といっているから百済領である。伴跛が己汶之地を略奪するということは、己汶は伴跛に隣接していたものと思われる。伴跛は百済と敵対的である。

○(七年〔513〕)冬十一月辛亥朔乙卯、於朝庭、引列百濟姐彌文貴將軍、斯羅汶得至、安羅辛已奚及賁巴委佐、伴跛既殿奚及竹汶至等、奉宣恩勅。以己汶滯沙、賜百濟國。是月、伴跛國、遣戢支獻珍寶、乞己汶之地、而終不賜。

 己汶を百済に戻させ、滞沙も百済に与えた。滞沙は百済に近接していたのだろう。

○八年〔514〕(中略)三月、伴跛築城於小呑帶沙、而連滿奚、置烽候邸閣、以備日本。復築城於爾列比麻須比、而絙麻且奚・推封。聚士卒兵器、以逼新羅。駈略子女、剥掠村邑。凶勢所加、罕有遺類。夫暴虐奢侈、惱害侵凌、誅殺尤多。不可詳載。

  伴跛は百済のものとなった帯沙に、日本からの攻撃を防ぐための城を築いた。小呑と帯沙は百済と伴跛に近く、しかも日本が伴跛に入るためには通らなければならない地点にあったものと考えられる。爾列比・麻須比は伴跛国内の地域か。ただ伴跛が新羅を侵す理由がわからない。

○九年〔515〕春二月甲戌朔丁丑、百濟使者文貴將軍等請罷。仍勅、副物部連、【闕名。】遣罷歸之。【百濟本記云、物部至々連。】是月、到于沙都嶋、傳聞伴跛人、懷恨銜毒、恃強縱虐。故物部連、率舟師五百、直詣帶沙江。文貴將軍、自新羅去。

 沙都嶋は巨済島だとされるが決めつけるのは危険である。百済の使者文貴将軍の「自新羅去」は唐突であり、意味がわからない。

○(九年〔515〕)夏四月、物部連於帶沙江停住六日。伴跛興師往伐。逼脱衣裳、劫掠所齎、盡燒帷幕。物部連等、怖畏逃遁。僅存身命、泊汶慕羅。【汶慕羅嶋名也。】

 物部連は帯沙江に入ったが伴跛の攻撃に遭い汶慕羅に逃げるのである。汶慕羅は島であり、伴跛は小呑と帯沙に日本の攻撃に備え城を築いたのだから、伴跛は帯沙の陸地側から帯沙江に向かって攻撃したことがわかる。伴跛は帯沙の奥地にあったことになる。

○十年〔516〕夏五月、百濟遣前部木刕不麻甲背、迎勞物部連等於己汶、而引導入國。群臣各出衣裳斧鐵帛布、助加國物、積置朝庭。慰問慇懃。賞祿優節。

  物部連は汶慕羅から己汶に逃れ、そこから百済に入った。己汶は伴跛が一時奪った地であるから、そこは伴跛と百済に挟まれた地域のようである。

○(十年〔516〕)秋九月、百濟遣州利即次將軍、副物部連來、謝賜己汶地。別貢五經博士漢高安茂、請代博士段楊爾。依請代之。戊寅、百濟遣灼莫古將軍・日本斯那奴阿比多、副高麗使安定等、來朝結好。

  百済は己汶の地を賜ったことに感謝の意を表したのであるが、9年〔515〕)夏4月の記事からすると、帯沙は伴跛に奪われたままのようである。

○廿一年〔527〕夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣、率衆六萬、欲住任那、爲復興建新羅所破南加羅[口彔]己呑、而合任那。於是、筑紫國造磐井、陰謨叛逆、猶預經年。恐事難成、恆伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所、而勸防遏毛野臣軍。

  神功皇后49年〔369〕条によれば、南加羅・[口彔]己呑は新羅に属していたが、この二国を含む七国は日本に平定され任那となった。しかし南加羅・[口彔]己呑は新羅に破られ再び新羅領となったのである。

○廿三年〔529〕春三月、百濟王謂下哆唎國守穗積押山臣曰、夫朝貢使者、恆避嶋曲、【謂海中嶋曲崎岸也。俗云美佐祁。】毎苦風波。因茲、濕所齎、全壊无色。請、以加羅多沙津、爲臣朝貢津路。是以、押山臣爲請聞奏。

  下哆唎は6年〔512〕、すでに百済に賜った県である。百済はさらに加羅の多沙津を要求してきた。多沙津を百済から日本への朝貢の経由地にしたいからだという。加羅の多沙津は百済から船で日本に行くのに最適な経由港だったのである。
  多沙津は加羅の多沙津とされている。伴跛が奪ったのは帯沙・帯沙江でありどこの国のものともされていない。多沙津と帯沙江は別の地と考えられる。

○(廿三年〔529〕春三月)是月、遣物部伊勢連父根・吉士老等、以賜百濟王。於是、加羅王謂勅使云、此津、從置官家以來、爲臣朝貢津渉。安得輙改賜隣國。違元所封限地。勅使父根等、因斯、難以面賜、却還大嶋。別遣録史、果賜扶餘。由是、加羅結儻新羅、生怨日本。加羅王娶新羅王女、遂有兒息。新羅初送女時、并遣百人、爲女從。受而散置諸縣、令着新羅衣冠。阿利斯等、嗔其變服、遣使徴還。新羅大羞、飜欲還女曰、前承汝聘、吾便許婚。今既若斯、請、還王女。加羅己富利知伽【未詳。】報云、配合夫婦、安得更離。亦有息兒、棄之何往。遂於所經、拔刀伽古跛布那牟羅、三城。亦拔北境五城。

  欽明天皇2年〔541〕には聖明王の言葉の中に「赴加羅會于任那日本府相盟」とあり、加羅に赴き任那日本府に会してちかいあった、とある。これは4月のことであり、7月には安羅日本府とあり、日本府はこの間に加羅から安羅に遷ったものと考えられる。欽明天皇2年〔541〕4月までは日本府は加羅にあったことになる。
  日本が加羅の多沙津を百済に賜ったことで加羅は新羅と接近するが、また仲違いする。日本府が安羅に遷ったのはこの事件がきっかけとなったのかもしれない。刀伽・古跛・布那牟羅は加羅の城の名であり、地域名であろう。新羅が入り込むことができる加羅は、やはり新羅に近接した国である。また「安得輙改賜隣國」から、加羅は百済と隣接していることがわかる。

○(廿三年〔529〕春三月)是月、遣近江毛野臣、使于安羅。勅勸新羅、更建南加羅[口彔]己呑。百濟遣將軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵等、往赴安羅、式聽詔勅。新羅、恐破蕃國官家、不遣大人、而遣夫智奈麻禮・奚奈麻禮等、往赴安羅、式聽詔勅。於是、安羅新起高堂、引昇勅使。國主隨後昇階。

 百済・新羅も安羅に赴いている。「安羅新起高堂」は日本府を安羅に遷す準備だったのかもしれない。

○(廿三年〔529〕夏四月)是月、遣使送己能末多干岐。并詔在任那近江毛野臣、推問所奏、和解相疑。於是、毛野臣、次于熊川、【一本云、次于任那久斯牟羅。】召集新羅・百濟、二國之王。新羅王佐利遲遣久遲布禮、【一本云、久禮爾師知于奈師磨里。】百濟遣恩率彌騰利、赴集毛野臣所、而二王不自來參。(中略)毛野臣、遙見兵仗圍繞、衆數千人、自熊川、入任那己叱己利城。伊叱夫禮智干岐、次于多々羅原、不敬歸待三月。頻請聞勅。終不肯宣。伊叱夫禮智所將士卒等、於聚落乞食。相過毛野臣傔人河内馬飼首御狩。御狩人隱他門、待乞者過、捲手遙擊。乞者見云、謹待三月、佇聞勅旨、尚不肯宣。惱聽勅使。乃知欺誑、誅戮上臣矣。乃以所見、具述上臣。上臣抄掠四村、【金官背伐安多委陀、是爲四村。一本云、多々羅須那羅和多費智爲四村也。】盡將人物、入其本國。或曰、多々羅等四村之所掠者、毛野臣之過也。

 近江毛野臣は安羅に居たのだから、任那久斯牟羅は安羅にあった邑である。己叱己利も同様安羅にあった村であろう。新羅はすでに任那(安羅)に来ており、「多々羅等四村之所掠者、毛野臣之過也」とあるところをみると、四村は毛野臣が居た安羅の村ということになる。
  熊川、金官・背伐・安多・委陀には「一本云」とあるが、敏達4年〔575〕6月条に「多々羅・須奈羅・和陀・發鬼」とあるところをみると、金官・背伐・安多・委陀については「一本」が正しいのかもしれない。熊川についてはわからない。
  金官・背伐・安多・委陀の金官は村であり、『三国史記』「新羅本紀」が記す「金官国」とは別のものと考えるべきだろう。

○廿四年〔530〕(中略)秋九月、任那使奏云、毛野臣、遂於久斯牟羅、起造舎宅、淹留二歳、【一本云、三歳者、連去來歳數也。】懶聽政焉。(中略)乃遣調吉士、率衆守伊斯枳牟羅城。於是、阿利斯等、知其細碎爲事、不務所期、頻勸歸朝、尚不聽還。由是、悉知行迹、心生飜背。乃遣久禮斯己母、使于新羅請兵。奴須久利、使于百濟請兵。毛野臣聞百濟兵來、迎討背評。【背評地名。亦名能備己富里也。】傷死者半。(中略)於是、二國圖度便地、淹留弦晦。築城而還。號曰久禮牟羅城。還時觸路、拔騰利枳牟羅布那牟羅牟雌枳牟羅阿夫羅久知波多枳、五城。

  伊斯枳牟羅・騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳は任那の城であり、話しの流れから言って、これらの城と久斯牟羅・背評などともに安羅にあったものと思われる。

○廿四年〔530〕(中略)冬十月、調吉士至自任那、奏言、毛野臣爲人傲佷、不閑治體。竟無和解、擾亂加羅。倜儻任意、而思不防患。故遣目頰子、徴召。【目頰子未詳也。】

  調吉士は「任那=加羅」としているが、近江毛野臣が居たのは安羅である。毛野臣が加羅の地に争乱を起こしたというのは、このときにはまだ、加羅に日本府があったので、任那を代表して加羅といったものと思われる。したがってここでいう加羅とは任那を指していることになる。しかし加羅はあくまでも任那の中の一国であり、中国・朝鮮史料にみる「任那加羅」というような、任那と並列して書かれるものではない。

○廿五年〔531〕(中略)冬十二月丙申朔庚子、葬于藍野陵。【或本云、天皇、廿八年歳次甲寅崩。而此云廿五年歳次辛亥崩者、取百濟本記爲文。其文云、大歳辛亥三月、軍進至于安羅、營乞乇城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。由此而言、辛亥之歳、當廿五年矣。後勘校者、知之也。】

  軍が安羅に至ったのは、毛野臣が任那に争乱をもたらしたからで、ここからみても毛野臣と新羅とがもみ合ったのは加羅ではなく安羅であったことがわかる。

(欽明天皇)

○元年〔540〕(中略)九月乙亥朔己卯、幸難波祝津宮。大伴大連金村・許勢臣稻持・物部大連尾輿等從焉。天皇問諸臣曰、幾許軍卒、伐得新羅。物部大連尾輿等奏曰、少許軍卒、不可易征。曩者、男大迹天皇六年、百濟遣使、表請任那上哆唎下哆唎娑陀牟婁、四縣。大伴大連金村、輙依表請、許賜所求。由是、新羅怨曠積年。不可輕爾而伐。

 『日本書紀』の任那2を参照のこと。

○二年〔541〕(中略)夏四月、安羅次旱岐夷呑奚・大不孫・久取柔利、加羅上首位古殿奚、卒麻旱岐、散半奚旱岐兒、多羅下旱岐夷他、斯二岐旱岐兒、子他旱岐等、與任那日本府吉備臣、【闕名字。】往赴百濟、倶聽詔書。百濟聖明王謂任那旱岐等言、日本天皇所詔者、全以復建任那。今用何策、起建任那。盍各盡忠、奉展聖懷。任那旱岐等對曰、前再三廻、與新羅議。而無答報。所圖之旨、更告新羅、尚無所報。今宜倶遣使、往奏天皇。夫建任那者、爰在大王之意。祗承敎旨。誰敢間言。然任那境接新羅。恐致卓淳等禍。【等謂[口彔]己呑加羅。言卓淳等國、有敗亡之禍。】

 継体天皇21年〔527〕夏6月条及び『日本書紀』の任那2を参照のこと。
  [口彔]己呑・南加羅のほかに卓淳も新羅に取り返されていたのである。

○(二年〔541〕)聖明王曰、昔我先祖速古王・貴首王之世、安羅加羅卓淳旱岐等、初遣使相通、厚結親好。以爲子弟、冀可恆隆。而今被誑新羅、使天皇忿怒、而任那憤恨、寡人之過也。我深懲悔、而遣下部中佐平麻鹵・城方甲背昧奴等、赴加羅、會于任那日本府相盟。以後、繫念相續、圖建任那、旦夕無忘。(中略)別汝所噵、恐致卓淳等禍、非新羅自強故、所能爲也。其[口彔]己呑、居加羅與新羅境際、而被連年攻敗。任那無能救援。由是見亡。其南加羅、蕞爾狹小、不能卒備、不知所託。由是見亡、其卓淳、上下携貳。主欲自附、内應新羅。由是見亡。因斯而觀、三國之敗、良有以也。

  安羅・加羅・卓淳は百済速古王・貴首王(近肖古王・近仇首王)の時代にはじめて遣使し相通じ、厚く親好を結んだという。これは神功皇后49年〔369〕の七国平定により、安羅・加羅・卓淳が任那となったことがきっかけと思われる。
  この時点では任那日本府はまだ加羅にあったとみてよい(継体天皇23年〔529〕春三月是月条説明参照)。

○(二年〔541〕)秋七月、百濟聞安羅日本府與新羅通計、遣前部奈率鼻利莫古・奈率宣文・中部奈率木刕眯淳・紀臣奈率彌麻沙等、【紀臣奈率者、蓋是紀臣娶韓婦所生、因留百濟、爲奈率者也。未詳其父。他皆效此也。】使于安羅、召到新羅任那執事、謨建任那。別以安羅日本府河内直、通計新羅、深責罵之。【百濟本記云、加不至費直・阿賢移那斯・佐魯麻都等。未詳也。】乃謂任那曰、昔我先祖速古王・貴首王、與故旱岐等、始約和親、式爲兄弟。於是、我以汝爲子弟、汝以我爲父兄。共事天皇、倶距強敵。安國全家、至于今日。(中略)故今追崇先世和親之好、敬順天皇詔勅之詞、拔取新羅所折之國南加羅[口彔]己呑等、還屬本貫、遷實任那、永作父兄、恆朝日本。此寡人之所食不甘味、寢不安席。悔往戒令之、所勞想也。

 『日本書紀』の任那2を参照のこと。
  日本府は安羅に遷っている。

○(二年〔541〕)聖明王更謂任那日本府曰、(中略)天皇、以詔勅、勸立南加羅[口彔]己呑、非但數十年。而新羅一不聽命、亦卿所知。且夫信敬天皇、爲立任那、豈若是乎。恐卿等輙信甘言、輕被謾語、滅任那國、奉辱天皇。卿其戒之、勿爲他欺。

  前の秋七月条とこの聖明王の言葉によれば、天皇は加羅・[口彔]己呑等を建てるように言っているのは数十年だけのことではないという。そしてこのことがこれまでの「建任那」であり、それは南加羅・[口彔]己呑・卓淳(2年〔541〕夏四月条参照)を再び任那に取り戻すことを意味している。

○(二年〔541〕)秋七月、百濟遣紀臣奈率彌麻沙・中部奈率己連、來奏下韓・任那之政、幷上表之。

○四年〔543〕(中略)冬十一月丁亥朔甲牛、遣津守連、詔百濟曰、在任那之下韓、百濟郡令城主、宜附日本府。幷持詔書、宣曰、爾屢抗表、稱當建任那、十餘年矣。表奏如此、尚未成之。且夫任那者、爲爾國之棟梁。如折棟梁、詎成屋宇。朕念在玆。爾須早建。汝若早建任那、河内直等、【河内直已見上文。】自當止退。豈足云乎。是日、聖明王、聞宣勅已、歴問三佐平内頭及諸臣曰、詔勅如是。當復何如。三佐平等答曰、在下韓之、我郡令城主、不可出之。建國之事、宜早聽聖勅。

 『日本書紀』の任那2を参照のこと。

○(四年〔543〕)十二月、百濟聖明王、復以前詔、普示群臣曰、天皇詔勅如是。當復何如。(中略)詔建任那。早須奉勅。今宜召任那執事・國々旱岐等、倶謀同計、抗表述志。又河内直・移那斯・麻都等、猶住安羅、任那恐難建之。故亦幷表、乞移本處也。聖明王曰、群臣所議、甚稱寡人之心。

 『日本書紀』の任那2を参照のこと。
  安羅には任那を牛耳っている日本の臣がいる。安羅が任那の中心である。

○五年〔544〕(中略)二月(中略)日本府答曰、任那執事、不赴召者、是由吾不遣、不得往之。(中略)後津守連、遂來過此。謂之曰、今余被遣於百濟者、將出在下韓之、百濟郡令城主。唯聞此説。不聞任那與日本府、會於百濟、聽天皇勅。故不往焉、非任那意。於是、任那干岐等曰、由使來召、便欲往參、日本府卿、不肯發遣。故不往焉。大王、爲建任那、觸情曉示。覩玆忻喜、難可具申。

  『日本書紀』の任那2を参照のこと。
  2年〔541〕秋7月条、4年〔543〕冬十一月条、そして本条の下韓をみると、この地は百済にとって新羅に対抗するための、また任那を手中に収めるための重要拠点であったと思われる。

○(五年〔544〕)三月(中略)夫任那之、不赴召者、非其意焉。是阿賢移那斯・佐魯麻都、【二人名也。見上文。】姧佞之所作也。夫任那者、以安羅爲兄。唯從其意。安羅人者、以日本府爲天。唯從其意。【百濟本記云、以安羅爲父。以日本府爲本也。】今的臣・吉備臣・河内直等、咸從移那斯・麻都指撝而己。移那斯・麻都、雖是小家微者、專擅日本府之政。又制任那、障而勿遣。由是、不得同計、奏答天皇。故留己麻奴跪、【蓋是津守連也。】別遣疾使迅如飛鳥、奉奏天皇。假使二人、【二人者、移那斯與麻都也。】在於安羅、多行姧佞、任那難建、海西諸國、必不獲事。伏請、移此二人、還其本處。勅喩日本府與任那、而圖建任那。故臣遣奈率彌麻沙・奈率己連等、副己麻奴跪、上表以聞。
(中略)新羅春取[口彔]。仍擯出我久禮山戌、而遂有之。近安羅處、安羅耕種。近久禮山處、斯羅耕種。各自耕之、不相侵奪。而移那斯・麻都、過耕他界、六月逃去。於印支彌後來、許勢臣時、【百濟本記云、我留印支彌之後、至既洒臣時。皆未詳。】新羅無復侵逼他境。安羅不言爲新羅逼不得耕種。臣嘗聞、新羅毎春秋、多聚兵甲、欲襲安羅荷山。或聞、當襲加羅。頃得書信。便遣將士、擁守任那、無懈息也。頻發鋭兵、應時往救。是以、任那隨序耕種。新羅不敢侵逼。而奏百濟路迥、不能救急、由的臣等、往來新羅、方得耕種、是上欺天朝、轉成姧佞也。曉然若是、尚欺天朝。自餘虚妄、必多有之。的臣等、猶住安羅、任那國、恐難建立。宜早退却。
(中略)夫[口彔]之滅、匪由他也。[口彔]之函跛旱岐、貳心加羅國、而内應新羅、加羅自外合戰。由是滅焉。若使函跛旱岐、不爲内應、[口彔]雖少、未必亡也。至於卓淳、亦復然之。假使卓淳國主、不爲内應新羅招寇、豈至滅乎。歴觀諸國敗亡之禍、皆由内應貳心人者。今麻都等、腹心新羅、遂着其服、往還旦夕、陰構姧心。乃恐、任那由玆永滅。任那若滅、臣國孤危。思欲朝之、豈復得耶。伏願天皇、玄鑒遠察、速移本處、以安任那。

 『日本書紀』の任那2を参照のこと。
  この時点までに新羅に奪われた国は[口彔]己呑・南加羅・卓淳であり、そのことからすれば、[口彔]淳とは[口彔]己呑と卓淳を指しているものと思われる。久禮山は[口彔]己呑か卓淳にあった地であり、百済軍がいたが守りきれず新羅に取られたのである。そしてその近くに安羅があったのである。下韓は安羅にあったように思われるし、百済は任那の主要地に軍を置いていたようである。
  日本府の要人が新羅の服を着て朝な夕なに往来する状況は、日本府が日本から離脱していることを示し、日本が朝鮮半島の日本府を通して朝鮮を支配したとする見方は、どこにも存在しない。この状況は筑紫国造磐井が新羅と通じたことと似ており、また『旧唐書』倭国に「衣服之制頗類新羅」、「至二十二年又附新羅奉表以通起居」とあることにどこか通じるものがある。

○(五年〔544〕)十一月、百濟遣使、召日本府臣・任那執事曰、遣朝天皇、奈率得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非等、還自日本。今日本府臣及任那國執事、宜來聽勅、同議任那。日本吉備臣、安羅下旱岐大不孫・久取柔利、加羅上首位古殿奚・卒麻君・斯二岐君・散半奚君兒、多羅二首位訖乾智、子他旱岐、久嗟旱岐、仍赴百濟。於是、百濟王聖明、略以詔書示曰、吾遣奈率彌麻佐・奈率己連・奈率用奇多等、朝於日本。詔曰、早建任那。又津守連奉勅、問成任那。
(中略)聖明王謂之曰、任那之國、與吾百濟、自古以來、約爲子弟。(中略)往古來今、新羅無道。食言違信、而滅卓淳。股肱之國、欲快返悔。故遣召到、倶承恩詔、欲冀、興繼任那之國、猶如舊日、永爲兄弟。
竊聞、新羅安羅、兩國之境、有大江水。要害之地也。吾欲據此、脩繕六城。謹請天皇三千兵士、毎城充以五百、并我兵士、勿使作田、而逼惱者、久禮山之五城、庶自投兵降首。卓淳之國、亦復當興。所請兵士、吾給衣粮。欲奏天皇、其策一也。
猶於南韓、置郡令・城主者、豈欲違背天皇、遮斷貢調之路。唯庶、剋濟多難、殲撲強敵。凡厥凶黨、誰不謀附。北敵強大、我國微弱。若不置南韓、郡領・城主、脩理防護、不可以禦此強敵。亦不可以制新羅。故猶置之、攻逼新羅、撫存任那。若不爾者、恐見滅亡、不得朝聘。欲奏天皇、其策二也。
又吉備臣・河内直・移那斯・麻都、猶在任那國者、天皇雖詔建成任那、不可得也。請、移此四人、各遣還其本邑。奏於天皇、其策三也。宜與日本臣・任那旱岐等、倶奉遣使、同奏天皇、乞聽恩詔。於是、吉備臣・旱岐等曰、大王所述三策、亦協愚情而已。今願、歸以敬諮日本大臣【謂在任那日本府之大臣也。】安羅王・加羅王、倶遣使同奏天皇。此誠千載一會之期、可不深思而熟計歟。

 『日本書紀』の任那2を参照のこと。
  「歸以敬諮日本大臣【謂在任那日本府之大臣也。】安羅王・加羅王」から、安羅・加羅は任那の中心国であることが分かる。

○九年〔548〕(中略)夏四月壬戌朔甲子、百濟遣中部杆率掠葉禮等奏曰、德率宣文等、奉勅至臣蕃曰、所乞救兵、應時遣送。祗承恩詔、嘉慶無限。然馬津城之役、【正月辛丑、高麗率衆、圍馬津城。】虜謂之曰、由安羅國與日本府、招來勸罰。(中略)詔曰、式聞呈奏、爰覿所憂、日本府與安羅、不救隣難、亦朕所疾也。又復密于高麗者、不可信也。朕命即自遣之。不命何容可得。願王、開襟緩帶、恬然自安、勿深疑懼。宜共任那、依前勅、戮力倶防北敵、各守所封。朕當遣送若干人、充實安羅逃亡空地。

 『日本書紀』の任那2を参照のこと。
  任那の中心国である安羅とその安羅を動かす日本府とが、高麗に百済を襲わせた。これは安羅と日本府が新羅に組することを意味する。筑紫国造磐井の方針の延長線上にあるようにみえる。

○十三年〔552〕(中略)五月戊辰朔乙亥、百濟・加羅安羅、遣中部德率木刕今敦・河内部阿斯比多等奏曰、高麗與新羅、通和并勢、謀滅臣國與任那。故謹求請救兵、先攻不意。軍之多少、隨天皇勅。詔曰、今百濟王・安羅王・加羅王、與日本府臣等、倶遣使奏状聞訖。亦宜共任那、幷心一力。猶尚若玆、必蒙上天擁護之福、亦賴可畏天皇之靈也。

 『日本書紀』の任那2を参照のこと。

○十四年〔553〕(中略)八月辛卯朔丁酉、百濟遣上部奈率科野新羅・下部固德汶休帶山等、上表曰、(中略)今年忽聞、新羅與狛國通謀云、(中略)庶先日本軍兵、未發之間、伐取安羅、絶日本路。其謀若是。

  『日本書紀』の任那2を参照のこと。
  「伐取安羅絶日本路」は、安羅が日本との往来の要であることを示している。

○十五年〔554〕(中略)冬十二月、百濟遣下部杆率汶斯干奴、上表曰、百濟王臣明、及在安羅諸倭臣等、任那諸國旱岐等奏、以斯羅無道、不畏天皇、與狛同心、欲殘滅海北彌移居。臣等共議、遣有至臣等、仰乞軍士、征伐新羅。而天皇遣有至臣、帥軍以六月至來。臣等深用歡喜。以十二月九日、遣攻新羅。臣先遣東方領物部莫奇武連、領其方軍士、攻函山城。有至臣所將來民竹斯物部莫奇委沙奇、能射火箭。蒙天皇威靈、以月九日酉時、焚城拔之。故遣單使馳船奏聞。

  『日本書紀』の任那2を参照のこと。
  函山は新羅にある、任那との境に近い地であろう。

○廿三年〔562〕春正月、新羅打滅任那官家。【一本云、廿一年、任那滅焉。總言任那、別言加羅國・安羅國・斯二岐國・多羅國・卒麻國・古嵯國・子他國・散半下國・乞飡國・稔禮國、合十國。】

  『日本書紀』の任那2を参照のこと。
  このとき滅びたのは任那官家であり、任那の官家の部分(任那は官家ではなくなったということ)である。任那十国がすべて滅びたわけではない。これ以後も任那が登場することが、何よりの証拠である。

○(廿三年〔562〕秋7月)是月、遣大將軍紀男麻呂宿禰、將兵出哆唎。副將河邊臣瓊缶、出居曾山。而欲問新羅攻任那之状。遂到任那、以薦集部首登弭、遣於百濟、約束軍計。

  『日本書紀』の任那2を参照のこと。

(敏達天皇)

○四年〔575〕(中略)六月、新羅遣使進調。多益常例。并進多々羅須奈羅和陀發鬼、四邑之調。

  継体天皇23年〔529〕夏4月是月条の説明及び『日本書紀』の任那3を参照のこと。

(推古天皇)

○八年〔600〕春二月、新羅與任那相攻。天皇欲救任那。是歳、命境部臣爲大將軍。以穗積臣爲副将軍。【並闕名。】則將萬餘衆、爲任那擊新羅。於是、直指新羅、以泛海往之。乃到于新羅、攻五城而拔。於是、新羅王、惶之擧白旗、到于將軍之麾下而立。割多々羅素奈羅弗知鬼委陀南迦羅阿羅々六城、以請服。時將軍共議曰、新羅知罪服之。強擊不可。則奏上。爰天皇更遣難波吉士神於新羅。復遣難波吉士木蓮子於任那。並檢校事状。爰新羅・任那、二國遣使貢調。(中略)將軍等至自新羅。即新羅亦侵任那。

 継体天皇23年〔529〕夏4月是月条及び『日本書紀』の任那3を参照のこと。
  多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀は継体天皇23年〔529〕4月是月条「一本云」の多々羅・須那羅・和多・費智であり、敏達天皇4年〔575〕6月条の多々羅・須奈羅・和陀・發鬼である。継体天皇23年〔529〕に失った四村をこのとき回復した。
  南迦羅は前回南加羅のこととしたが、これは城であり、下韓あるいは南韓と見た方がよいかもしれない。南迦羅・阿羅々は安羅にあったと思われる四村の城とともに六城に挙げられているところをみると、同じく安羅にあったものと思われ、欽明天皇23年〔562〕任那の官家が滅んだとき新羅の手に落ちたものと思われる。


※神功皇后46年春3月条を追加した。2007.05.10
※「加羅の多沙津には官家が置かれていた」としたは私の誤読だったので、関連部分を削除・訂正した。2014.03.18
※任那は朝鮮半島にはなかったのではないか、という見方を現在していないので、関係する部分を削除・訂正・修正した。2016.06.15


つづく


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