『日本書紀』の任那-日羅事件

2007.04.27

 敏達天皇

○四年〔575〕(中略)二月(中略)乙丑、百濟遣使進調。多益恆歳。天皇、以新羅未建任那、詔皇子與大臣曰、莫懶懈於任那之事。

  新羅がまだ任那(日本府)を建てない、という。任那を滅ぼした新羅に任那を再建させようとしているのだろうか。

○(四年〔575〕)夏四月乙酉朔庚寅、遣吉士金子、使於新羅。吉士木蓮子使於任那。吉士譯語彦使於百濟。

  新羅・任那・百済に使者を遣っているが、任那とはどこを指しているのだろうか。日本府のあった安羅かもしれないが特定はできない。

○(四年〔575〕)六月、新羅遣使進調。多益常例。并進多々羅・須奈羅・和陀・發鬼、四邑之調。

  ここには任那は現われないが、多々羅・須奈羅・和陀・發鬼は継体天皇23年〔529〕夏4月是月条の「上臣抄掠四村、【金官・背伐・安多・委陀、是爲四村。一本云、多々羅・須那羅・和多・費智爲四村也。】」の「多々羅・須那羅・和多・費智」である。この四邑は近江毛野臣の失策により新羅に奪われた任那の邑である。新羅はその四邑の調も一緒に進上してきた。この元任那の四邑はどこにあったのかわからないが、新羅に近いところにあったということはいえるかもしれない。
  任那官家を滅ぼした新羅が遣使し、いつもより多い調と四邑の調まで進上している。4年〔575〕2月条の「新羅未建任那」とともに不思議な現象である。

○十二年〔583〕秋七月丁酉朔、詔曰、屬我先考天皇之世、新羅滅内官家之國。天國排開廣庭天皇廿三年、任那爲新羅所滅。故云新羅滅我内官家也。先考天皇、謀復任那。不果而崩、不成其志。是以、朕當奉助神謀、復興任那。今在百濟火葦北國造阿利斯登子達率日羅、賢而有勇。故朕欲與其人相計。乃遣紀國造押勝與吉備海部直羽嶋、喚於百濟。

  百済にいる、火葦北国造阿利斯登の子・達率日羅を呼び任那復興を計ろうとする。任那復興のために日羅を呼ぶのであるが、この後の『日本書紀』は焦点がずれていく。日羅は百済に謀略があり、その謀略を防ぐ方法を教え、このことにより日羅は百済人に殺されてしまうのである。
  任那復興とはかけ離れた展開のようにもみえるが、任那を狙っていたのは新羅だけではなく百済も同様だったのであり、百済は任那復興の陰で日本本土進出も考えていたということになるのかもしれない。

※日本府の裏切りで、任那官家は新羅によって消滅し、百済は任那からの撤退を余儀なくされた。百済は、筑紫が新羅を防ぐことができなかったことを怨みに思い、その矛先を筑紫に向けたのではないか(日羅は、百済は筑紫を請おうと言っている、と答えている)。2016.06.14

○十三年〔584〕春二月癸巳朔庚子、遣難波吉士木蓮子、使於新羅。遂之任那

  新羅に遣使し遂に任那に行ったという。新羅の許可によって目的の任那にやっとたどり着いた、という状況にもとれる。任那は安羅のことなのかどうかもわからないし、任那で何をしようとするのかも見えてこない。

※「遂之任那」はヤマトが新羅を通じてようやく任那に行くことができた、と解釈することができる。ヤマトにとって初めての任那で、これは日羅効果とも言える。四年〔575〕「吉士木蓮子使於任那」は成功しなかったのではないだろうか。2016.06.14

○十四年〔585〕(中略)三月(中略)丙戌、(中略)天皇思建任那、差坂田耳子王爲使。屬此之時、天皇與大連、卒患於瘡。故不果遣。詔橘豐日皇子曰、不可違背考天皇勅。可勤修乎任那之政也。

 崇峻天皇

○四年〔591〕(中略)秋八月庚戌朔、天皇詔群臣曰、朕思欲建任那。卿等何如。群臣奏言、可建任那官家、皆同陛下所詔。

 このときまでは「復興任那」「復任那」「建任那」であるが、推古天皇からはこの言葉はみられなくなる。

○(四年〔591〕)冬十一月己卯朔壬午、差紀男麻呂宿禰・許勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣、爲大將軍。率氏々臣連、爲裨將部隊、領二萬餘軍、出居筑紫。遣吉士金於新羅、遣吉士木蓮子於任那、問任那事。

  任那に使者を遣るのだから任那は存在していた。二万余の軍はなぜ筑紫に留まったのだろうか。「問任那事」とは、新羅が滅ぼした任那と日本府を建てるということではなかったのか。

  推古天皇

○八年〔600〕春二月、新羅與任那相攻。天皇欲救任那

○(八年〔600〕)是歳、命境部臣爲大將軍。以穗積臣爲副将軍。【並闕名。】則將萬餘衆、爲任那擊新羅。於是、直指新羅、以泛海往之。乃到于新羅、攻五城而拔。於是、新羅王、惶之擧白旗、到于將軍之麾下而立。割多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅・阿羅々六城、以請服。時將軍共議曰、新羅知罪服之。強擊不可。則奏上。爰天皇更遣難波吉士神於新羅。復遣難波吉士木蓮子於任那。並檢校事状。爰新羅・任那、二國遣使貢調。仍奏表之曰、天上有神。地有天皇。除是二神、何亦有畏乎。自今以後、不有相攻。且不乾船柁。毎歳必朝。則遣使以召還將軍。將軍等至自新羅。即新羅亦侵任那

  新羅と任那が攻めあったので、任那を救うため新羅を撃った。新羅は多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅・阿羅々の六城を割いて降服した。弗知鬼は敏達天皇4年〔575〕)6月条の發鬼であり、委陀は和陀であろう。近江毛野臣の失策により失った多々羅・須奈羅・和陀・發鬼に加えて、継体天皇21年〔527〕夏6月までには失っていた南加羅もこのとき回復したのである。阿羅々は安羅とする見方もあるがよくわからない。多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅は常に新羅と任那の争奪戦の舞台になっていることからすると、二国の国境に接した地域のように見受けられる。
  日本府はともかくとして、任那は一部回復したのである。562年の任那の官家滅亡直後には回復できなかったものが、ここにきて一部達成できたということか。しかし任那を復興したとは書かれていない。

○九年〔601〕(中略)三月甲申朔戊子、遣大伴連囓于高麗、遣坂本臣糠手子于百濟、以詔之曰、急救任那

 高麗にも任那救援の使者を遣っている。

○十八年〔610〕(中略)秋七月、新羅使人沙[口彔]部奈末竹世士、與任那使人[口彔]部大舎首智買、到于筑紫。

○(十八年〔610〕)九月、遣使召新羅任那使人。

○(十八年〔610〕)(中略)冬十月己丑朔丙申、新羅任那使人臻於京。是日、命額田部連比羅夫、爲迎新羅客莊馬之長。以膳臣大伴爲迎任那客莊馬之長。即安置阿斗河邊館。丁酉、客等拜朝庭。於是、命秦造河勝・土部連菟、爲新羅導者。以間人連鹽蓋・阿閉臣大籠、爲任那導者。(中略)乙巳、饗使人等於朝。以河内漢直贄爲新羅共食者。錦織首久僧爲任那共食者。辛亥、客等禮畢、以歸焉。

 18年以後、新羅と任那の使者がともにやって来るようになった。日本も丁重にもてなしている。600、601年の攻防以後、情勢は大きく変わったようである。

※任那官家が滅亡した562年までは三韓・任那の使者が着いた場所は具体性に欠けていたが、十八年〔610〕の記事では、使者が筑紫に着くと、ヤマトから迎えが来て京に導き入れる、というように、経路・遣使場所が明記されるようになった。これは、舞台がヤマトに移ったことを示しているものである、と私は考えている。2016.06.14

○十九年〔611〕(中略)秋八月、新羅遣沙[口彔]部奈末北叱智、任那遣習部大舎親智周智、共朝貢。

 再び新羅と任那の使者がともに来た。

○卅一年〔623〕秋七月、新羅遣大使奈末智洗爾、任那遣達率奈末智、並來朝。仍貢佛像一具及金塔并舎利。且大觀頂幡一具・小幡十二條。即佛像居於葛野秦寺。以餘舎利金塔觀頂幡等、皆納于四天王寺。是時、大唐學問者僧惠齋・惠光・及醫惠日・福因等、並從智洗爾等來之。於是、惠日等共奏聞曰、留于唐國學者、皆學以成業。應喚、且其大唐學者、法式備定之珍國也。常須達。

  三度、新羅と任那の使者がともに来たのであるが、新羅の使者に従い、唐の僧も一緒に来たのである。「常須達」はそれまではそうしていなかったこと、つまり日本は唐と常には通交していなかったことを示しており、この国は中国史書に書かれてきた倭国とは少し様子が異なることを示唆している。
  『新唐書』には「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇〔581~600〕末、始與中國通」とある。唐との通交はまだ日も浅いのである。

○(卅一年〔623〕)是歳、新羅伐任那任那附新羅。於是、天皇將討新羅。謀及大臣、詢于群卿。田中臣對曰、不可急討。先察状、以知逆後擊之不晩也。請試遣使覩其消息。中臣連國曰、任那是元我内官家。今新羅人伐而有之。請戒戎旅、征伐新羅、以取任那、附百濟。寧非益有于新羅乎。田中臣曰、不然。百濟是多反覆之國。道路之間尚詐之。凡彼所請皆非之。故不可附百濟。則不果征焉。
爰遣吉士磐金於新羅、遣吉士倉下於任那、令問任那之事。時新羅國主、遣八大夫、啓新羅國事於磐金。且啓任那國事於倉下。因以約曰、任那小國、天皇附庸。何新羅輙有之。隨常定内官家、願無煩矣。則遣奈末智洗遲、副於吉士磐金。復以任那人達率奈末遲、副於吉士倉下。仍貢兩國之調。然磐金等、未及于還、卽年、以大德境部臣雄摩侶・小德中臣連國爲大將軍。以小德河邊臣禰受・小德物部依網連乙等・小德波多臣廣庭・小德近江脚身臣飯蓋・小德平群臣宇志・小德大伴連【闕名。】小德大宅臣軍爲副将軍。率數萬衆、以征討新羅。時磐金等、共會於津、將發船以候風波。於是、船師滿海多至。兩國使人、望瞻之愕然。乃還留焉。更代堪遲大舎、爲任那調使而貢上。於是、磐金等相謂之曰、是軍起之、既違前期。是以任那之事、今亦不成矣。則發船而度之。唯將軍等、始到任那而議之、欲襲新羅。於是、新羅國主、聞軍多至、而豫慴之請服。時將軍等、共議以上表之。天皇聽矣。

  新羅が任那を伐ち、任那は新羅に付いたという。新羅を伐って任那を百済につけるべきという意見と、百済は言行にそむくことが多い国だから任那を百済につけてはならないという意見があり、結局新羅を伐たなかった。この任那が任那全体なのか、その中の一部の国なのかわからないが、任那を早く建てようというのでもなく、日本は任那をどうしようとしているのかあいまいになってきている。
  「百済は言行にそむくことが多い国」という見方は、敏達天皇12年〔583〕秋7月条で日羅が言ったことが実は唐突なことではなかったことを示しているといえる。
  新羅は、任那は天皇の附庸国であるから領有することなどできないと日本の使者に答えるが、日本は新羅を襲撃し新羅は降服するのである。このことからもわかるように、任那が新羅に付いたというのは一時的なもので、新羅はその後任那を領有しなかったのである。任那は自領を維持していたのである。

○(卅一年〔623〕)冬十一月、磐金・倉下等、至自新羅。時大臣問其状。對曰、新羅奉命、以驚懼之。則並差專使、因以貢兩國之調。然見船師至、而朝貢使人更還耳。但調猶貢上。爰大臣曰、悔乎、早遣師矣。時人曰、是軍事者、境部臣・阿曇連、先多得新羅幣物之故、又勸大臣。是以、未待使旨、而早征伐耳。初磐金等、度新羅之日、比及津、莊船一艘、迎於海浦。磐金問之曰、是船者何國迎船。對曰、新羅船也。磐金亦曰、曷無任那之迎船。即時、更爲任那加一船。其新羅以迎船二艘、始于是時歟。自春至秋、霖雨大水。五穀不登焉。

  新羅を襲撃したのははやまった行為であったと日本側は反省する。日本のこの行為にもかかわらず、新羅は任那とともに調を貢上する。
  18年〔610〕から新羅と任那揃っての来朝が始まり、その後一度(623年)、二国の間で争いはあったものの、また揃って調を貢上してきたのである。任那日本府を滅ぼした新羅、任那を常に脅かしていた新羅が、任那とともに日本に調を貢上するという奇妙な現象が起きているのである。これ以後新羅と任那の抗争は起きていない。

  舒明天皇

○十年〔638〕(中略)是歳、百濟新羅任那、並朝貢。

 新羅・任那に加え百済もともに朝貢してきた。

  皇極天皇

○元年〔642〕(中略)二月(中略)戊申、饗高麗・百濟客於難波郡。詔大臣曰、以津守連大海可使於高麗。以國勝吉士水鷄可使於百濟。【水鷄、此云倶毘那。】以草壁吉士眞跡可使於新羅。以坂本吉士長兄可使於任那。(中略)辛亥、饗高麗・百濟客。癸丑、高麗使人・百濟使人、並罷歸。

  高麗・新羅・百済・任那にそれぞれ使者が遣わされていることからすると、任那も他の三国と同様、一つの独立した国として扱われているということなのだろうか。

 孝徳天皇

○大化元年〔645〕秋七月(中略)丙子、高麗・百濟・新羅、並遣使進調。百濟調使、兼領任那使、進任那調。唯百濟大使佐平縁福、遇病留津館、而不入於京。巨勢德太臣、詔於高麗使曰、明神御宇日本天皇詔旨、天皇所遣之使、與高麗神子奉遣之使、既往短而將來長。是故、可以温和之心、相繼往來而已。又詔於百濟使曰、明神御宇日本天皇詔旨、始我遠祖之世、以百濟國、爲内官家、譬如三絞之綱。中間以任那國、屬賜百濟。後遣三輪栗隈君東人、觀察任那國堺。是故、百濟王隨勅、悉示其堺。而調有闕。由是、却還其調。任那所出物者、天皇之所明覽。夫自今以後、可具題國與所出調。

 百済の調使が任那使を兼ね、任那の調を進上した。百済が任那使を兼ねるということは、任那が百済の配下になったからではないかと考えられなくもないが、次の大化2年2月条には再び任那は遣使貢調しており、そのいきさつはわからない。
  「中間以任那國、屬賜百濟」は、継体天皇6年〔512〕(中略)冬12月条の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県割譲のことを指しているものと思われる。

○(大化)二年〔646〕(中略)二月(中略)高麗・百濟・任那・新羅、並遣使、貢獻調賦。

○(大化二年〔646〕)九月、遣小德高向博士黑麻呂於新羅、而使貢質。遂罷任那之調。【黑麻呂、更名玄理。】

  同年の2月まで任那は高麗・百済・新羅とともに調を納めていたが、九月になると任那の調は廃止される。「罷任那之調」の「罷」には、役目を終わらせるという意味があるが、『日本書紀』はこのいきさつを記録していない。
  623年以後、任那を巡っての抗争はなくなり、高麗・新羅・百済・任那に平和な時代がやって来たようにみえる。しかしそんな折、どういうわけか、任那は「罷任那之調」とともに歴史から姿を消すのである。


※日羅事件、任那官家滅亡以降の三韓・任那の遣使先について、私の見解を追加した。2016.06.14


つづく


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