『日本書紀』の任那-官家滅亡

2007.04.22

  欽明天皇

○元年〔540〕(中略)八月、高麗・百濟・新羅・任那、並遣使獻、並脩貢職。召集秦人・漢人等、諸蕃投化者、安置國郡、編貫戸籍。秦人戸數、總七千五十三戸。以大藏掾、爲秦伴造。

  高麗・百済・新羅・任那がそろって遣使してきたという。高麗・百済・新羅が『三国史記』の高麗・百済・新羅だとすると、任那を加えた四国の使者がそろって遣使してくるということが果たしてありうるだろうか。

○(元年〔540〕)九月乙亥朔己卯、幸難波祝津宮。大伴大連金村・許勢臣稻持・物部大連尾輿等從焉。天皇問諸臣曰、幾許軍卒、伐得新羅。物部大連尾輿等奏曰、少許軍卒、不可易征。曩者、男大迹天皇六年、百濟遣使、表請任那上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁、四縣。大伴大連金村、輙依表請、許賜所求。由是、新羅怨曠積年。不可輕爾而伐。(中略)今諸臣等謂臣(大伴大連金村)滅任那。故恐怖不朝耳。乃以鞍馬贈使、厚相資敬。青海夫人、依實顯奏。詔曰、久竭忠誠。莫恤衆口。遂不爲罪、優寵彌深。

 継体天皇6年〔512〕冬12月条の四県割譲に絡んだ記事である。四県を百済に割譲したので新羅の怨みは積もりに積もっているという。任那が滅んだのは大伴大連金村のせいだと諸臣が言っていることを金村自身承知している。任那が滅んだという言い方は、ここからわかるように、任那全土を指しているのではなく、任那を構成している国を指しているのである(8月条で任那は高麗・百濟・新羅とともに遣使している)。
  滅んだ任那とは、話の流れからいうと、継体天皇21年〔527〕以前に新羅に破られた南加羅・[口彔]己呑を指しているものとみられる。

○二年〔541〕(中略)夏四月、安羅次旱岐夷呑奚・大不孫・久取柔利、加羅上首位古殿奚、卒麻旱岐、散半奚旱岐兒、多羅下旱岐夷他、斯二岐旱岐兒、子他旱岐等、與任那日本府吉備臣、【闕名字。】往赴百濟、倶聽詔書。百濟聖明王謂任那旱岐等言、日本天皇所詔者、全以復建任那。今用何策、起建任那。盍各盡忠、奉展聖懷。任那旱岐等對曰、前再三廻、與新羅議。而無答報。所圖之旨、更告新羅、尚無所報。今宜倶遣使、往奏天皇。夫建任那者、爰在大王之意。祗承敎旨。誰敢間言。然任那境接新羅。恐致卓淳等禍。【等謂[口彔]己呑・加羅。言卓淳等國、有敗亡之禍。】

 安羅・加羅・卒麻・散半奚・多羅・斯二岐・子他は、欽明天皇23年〔562〕春正月条の「一本云」の「別言加羅國・安羅國・斯二岐國・多羅國・卒麻國・古嵯國・子他國・散半下國・乞飡國・稔禮國、合十國」にすべて含まれている(散半奚は散半下)。これらは任那諸国であることが確認される。任那十国は正しく表現されていることになる。
  「等謂[口彔]己呑・加羅。言卓淳等國、有敗亡之禍」の「加羅」は、継体天皇21年〔527〕夏6月条の「新羅所破南加羅・[口彔]己呑」によれば「南加羅」のことで、「[口彔]己呑・加羅」は「[口彔]己呑・南加羅」となり、「言卓淳等國、有敗亡之禍」の「卓淳」は、神功皇后49年〔369?〕春3月条に「擊新羅而破之。因以、平定比自[火本]・南加羅・[口彔]國・安羅・多羅・卓淳・加羅、七國」の中の「卓淳」である。卓淳・南加羅・[口彔]己呑([口彔]国のことを指していると思われる)は任那の中の一国だったが新羅に奪われ、欽明天皇23年の時点で、任那は十国となっていたということになる。

○(二年〔541〕)聖明王曰、昔我先祖速古王・貴首王之世、安羅・加羅・卓淳旱岐等、初遣使相通、厚結親好。以爲子弟、冀可恆隆。而今被誑新羅、使天皇忿怒、而任那憤恨、寡人之過也。我深懲悔、而遣下部中佐平麻鹵・城方甲背昧奴等、赴加羅、會于任那日本府相盟。以後、繫念相續、圖建任那、旦夕無忘。今天皇詔稱、速建任那。由是、欲共爾曹謨計、樹立任那國。宜善圖之。又於任那境、徴召新羅、問聽與不。乃倶遣使、奏聞天皇、恭承示敎。儻如使人未還之際、新羅候隙、侵逼任那、我當往救。不足爲憂。然善守備、謹警無忘。別汝所噵、恐致卓淳等禍、非新羅自強故、所能爲也。其[口彔]己呑、居加羅與新羅境際、而被連年攻敗。任那無能救援。由是見亡。其南加羅、蕞爾狹小、不能卒備、不知所託。由是見亡、其卓淳、上下携貳。主欲自附、内應新羅。由是見亡。因斯而觀、三國之敗、良有以也。昔新羅請援於高麗、而攻擊任那與百濟、尚不剋之。新羅安獨滅任那乎。今寡人、與汝戮力并心、翳賴天皇、任那必起。因贈物各有差。忻々而還。

 「赴加羅、會于任那日本府相盟」を普通に解釈すれば、任那日本府は加羅にあったことになる。一方、次の2年〔541〕秋7月条のみにではあるが、安羅日本府というのが登場する。日本府は任那国内に二つあったようにも解釈できるが、その後の記事をみると、日本府あるいは任那日本府とは安羅日本府を指しているようである。このときは、日本府は安羅ではなく加羅にあったのかもしれない。
  また聖明王の言葉の中から、[口彔]己呑は加羅と新羅の国境近くにあったこと、南加羅は小さく狭かったこと、卓淳は主自身が新羅と内応していたことが原因で滅んだことがわかる。

○(二年〔541〕)秋七月、百濟聞安羅日本府與新羅通計、遣前部奈率鼻利莫古・奈率宣文・中部奈率木刕眯淳・紀臣奈率彌麻沙等、【紀臣奈率者、蓋是紀臣娶韓婦所生、因留百濟、爲奈率者也。未詳其父。他皆效此也。】使于安羅、召到新羅任那執事、謨建任那。別以安羅日本府河内直、通計新羅、深責罵之。【百濟本記云、加不至費直・阿賢移那斯・佐魯麻都等。未詳也。】乃謂任那曰、昔我先祖速古王・貴首王、與故旱岐等、始約和親、式爲兄弟。於是、我以汝爲子弟、汝以我爲父兄。共事天皇、倶距強敵。安國全家、至于今日。(中略)故今追崇先世和親之好、敬順天皇詔勅之詞、拔取新羅所折之國南加羅・[口彔]己呑等、還屬本貫、遷實任那、永作父兄、恆朝日本。此寡人之所食不甘味、寢不安席。悔往戒令之、所勞想也。夫新羅甘言希誑、天下之所知也。汝等妄信、既墮人權。方今任那境接新羅。宜常設備。豈能弛柝。爰恐、陷罹誣欺網穽、喪國亡家、爲人繫虜。寡人念玆、勞想而不能自安矣。竊聞、任那與新羅運策席際、現蜂蛇怪。亦衆所知。且夫妖祥、所以戒行。災異所以悟人。當是、明天告戒、先靈之徴表者也。禍至追悔、滅後思興、孰云及矣。今汝遵余、聽天皇勅、可立任那。何患不成。若欲長存本土、永御舊民、其謨在玆。可不慎也。

  安羅日本府が新羅と通じていたため、聖明王は安羅に使いを遣り、たしなめた。「到新羅任那執事」の「任那」は安羅のことであり、新羅と通じた安羅日本府の臣は河内直であることがわかる。「乃謂任那曰」の任那も安羅のことであり、「謨建任那」の任那は新羅に奪われた南加羅・[口彔]己呑・卓淳のことである。

○(二年〔541〕)聖明王更謂任那日本府曰、天皇詔稱、任那若滅、汝則無資。任那若興、汝則有援。今宜興建任那、使如舊曰、以爲汝助、撫養黎民。謹承詔勅、悚懼塡胸、誓効丹誠、冀隆任那。永事天皇、猶如往日。先慮未然、々後康樂。今日本府、復能依詔、救助任那、是爲天皇、所必褒讚、汝身所當賞祿。又日本卿等、久住任那之國、近接新羅之境。新羅情状、亦是所知。毒害任那、謨防日本、其來尚矣。匪唯今年。而不敢動者、近羞百濟、遠恐天皇。誘事朝庭、僞和任那。如斯感激任那日本府者、以未禽任那之間、僞示伏從之状。願今候其間隙、佔其不備、一擧兵而取之。天皇、以詔勅、勸立南加羅・[口彔]己呑、非但數十年。而新羅一不聽命、亦卿所知。且夫信敬天皇、爲立任那、豈若是乎。恐卿等輙信甘言、輕被謾語、滅任那國、奉辱天皇。卿其戒之、勿爲他欺。

 「聖明王更謂任那日本府曰」によれば、任那日本府とは安羅日本府のようである。「日本卿等、久住任那之國、近接新羅之境」と併せて考えると、安羅は新羅との国境近くにあったとみられる。

○(二年〔541〕)秋七月、百濟遣紀臣奈率彌麻沙・中部奈率己連、來奏下韓・任那之政、并上表之。

○四年〔543〕(中略)冬十一月丁亥朔甲牛、遣津守連、詔百濟曰、在任那之下韓、百濟郡令城主、宜附日本府。并持詔書、宣曰、爾屢抗表、稱當建任那、十餘年矣。表奏如此、尚未成之。且夫任那者、爲爾國之棟梁。如折棟梁、詎成屋宇。朕念在玆。爾須早建。汝若早建任那、河内直等、【河内直已見上文。】自當止退。豈足云乎。是日、聖明王、聞宣勅已、歴問三佐平内頭及諸臣曰、詔勅如是。當復何如。三佐平等答曰、在下韓之、我郡令城主、不可出之。建國之事、宜早聽聖勅。

  2年秋7月条の「下韓・任那之政」の「下韓」は、4年〔543〕冬11月条の「在任那之下韓」で任那にあることがわかる。しかし下韓は任那十国の中に見えない。任那日本府は安羅日本府であった可能性が高く、そうするとこの任那は安羅を指し、下韓は安羅にあったのではないかという見方もできる。
  下韓には百済の郡令・城主がいて、任那における百済の拠点のようにみえる。下韓の郡令・城主は日本府に附属するようにとの詔勅があったことからするとその可能性が高く、また上記の推論をも助けている。百済には、任那を建てるという名目で自らの支配領域を拡大しようとする目論見があったのかもしれない。

○(四年〔543〕)十二月、百濟聖明王、復以前詔、普示群臣曰、天皇詔勅如是。當復何如。(中略)詔建任那。早須奉勅。今宜召任那執事・國々旱岐等、倶謀同計、抗表述志。又河内直・移那斯・麻都等、猶住安羅、任那恐難建之。故亦幷表、乞移本處也。聖明王曰、群臣所議、甚稱寡人之心。

 百済の群臣らは、河内直・移那斯・麻都らが安羅にいると任那を建てるのは難しいという。任那を復興せよ、と命令する日本(やまと)が送っている安羅日本府の臣が、新羅と通じているというのである。

○(四年〔543〕十二月)是月、乃遣施德高分、召任那執事與日本府執事。倶答言、過正旦而往聽焉。

  話の筋からいうと、任那執事とは安羅の執事であり、日本府執事とは安羅日本府の執事のことのようである。

○五年〔544〕春正月、百濟國遣使、召任那執事與日本府執事。倶答言、祭神時到。祭了而往。

○(五年〔544〕春正月)是月、百濟復遣使、召任那執事與日本府執事。日本府・任那、倶不遣執事、而遣微者。由是、百濟不得倶謀建任那國。

○(五年〔544〕)二月、百濟遣施德馬武・施德高分屋・施德斯那奴次酒等、使于任那、謂日本府與任那旱岐等曰、我遣紀臣奈率彌麻沙・奈率己連・物部連奈率用奇多、朝謁天皇。彌麻沙等、還自日本、以詔書宣曰、汝等、宜共在彼日本府、早建良圖、副朕所望。爾其戒之。勿被他誑。又津守連、從日本來、【百濟本記云、津守連己麻奴跪。而語訛不正。未詳。】宣詔勅、而問任那之政。故將欲共日本府・任那執事、議定任那之政、奉奏天皇、遣召三廻、尚不來到。由是、不得共論圖計任那之政、奉奏天皇矣。今欲請留津守連、別以疾使、具申情状、遣奏天皇。當以三月十日、發遣使於日本。此使便到、天皇必須問汝。々日本府卿・任那旱岐等、各宜發使、共我使人、往聽天皇所宣之詔。
別謂河内直(中略)乖背吾心、縱肆暴虐。由是見逐。職汝之由。汝等來住任那、恆行不善。任那日損、職汝之由。汝是雖微、譬猶小火燒焚山野、連延村邑。由汝行惡、當敗任那。遂使海西諸國官家、不得長奉天皇闕。今遣奏天皇、乞移汝等、還其本處。汝亦往聞。
又謂日本府卿・任那旱岐等曰、夫建任那之國、不假天皇之威、誰能建也。故我思欲就天皇、請將士、而助任那國。將士之粮、我當須運。將士之數、未限若干。運粮之處、亦難自決。願居一處、倶論可不、擇從其善、將奏天皇。故頻遣召、汝猶不來、不得議也。

  百済が任那に使いを遣って、日本府と任那の旱岐らを戒めるのであるが、これまでの経過と「別謂河内直」以下を見れば、任那は安羅であり、日本府は安羅日本府であることがわかる。

○(五年〔544〕二月)日本府答曰、任那執事、不赴召者、是由吾不遣、不得往之。吾遣奏天皇、還使宣曰、朕當以印奇臣、語訛未詳。遣於新羅、以津守連、遣於百濟。汝、待聞勅際。莫自勞往新羅百濟也。宣勅如是。會聞印奇臣使於新羅、乃追遣問天皇所宣。詔曰、日本臣與任那執事、應就新羅、聽天皇勅。而不宣就百濟聽命也。後津守連、遂來過此。謂之曰、今余被遣於百濟者、將出在下韓之、百濟郡令城主。唯聞此説。不聞任那與日本府、會於百濟、聽天皇勅。故不往焉、非任那意。於是、任那干岐等曰、由使來召、便欲往參、日本府卿、不肯發遣。故不往焉。大王、爲建任那、觸情曉示。覩玆忻喜、難可具申。

  日本府が答えていうには、聖明王が召したにもかかわらず任那の執事が行かなかったのは、日本府が命令したからであり、日本府が百済に行かなかったのは、日本府と任那は新羅に行って天皇の勅を聴けという詔によるものだという。日本府が百済に言い訳をしているという構図である。
  「下韓」が再度現われるが、日本が百済の郡令・城主を下韓から撤退させ日本府に直接支配をさせようとするもので、これから考えても、4年〔543〕冬11月条でも説明したように、下韓は安羅にあった可能性が高い。

○(五年〔544〕)三月、百濟遣奈率阿乇得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非等、上表曰、
奈率彌麻沙・奈率己連等、至臣蕃、奉詔書曰、彌等宜共在彼日本府、同謀善計、早建任那。爾其戒之。勿被他誑。又津守連等、至臣蕃奉勅書、問建任那。恭承來勅、不敢停時、爲欲共謀。乃遣使召日本府【百濟本記云、遣召烏胡跛臣。蓋是的臣也。】與任那。倶對言、新年既至。願過而往。久而不就。復遣使召。倶對言、祭時既至。願過而往。久而不就。復遣使召。而由遣微者、不得同計。
任那之、不赴召者、非其意焉。是阿賢移那斯・佐魯麻都、【二人名也。見上文。】姧佞之所作也。夫任那者、以安羅爲兄。唯從其意。安羅人者、以日本府爲天。唯從其意。【百濟本記云、以安羅爲父。以日本府爲本也。】今的臣・吉備臣・河内直等、咸從移那斯・麻都指撝而己。移那斯・麻都、雖是小家微者、專擅日本府之政。又制任那、障而勿遣。由是、不得同計、奏答天皇。故留己麻奴跪、【蓋是津守連也。】別遣疾使迅如飛鳥、奉奏天皇。假使二人、【二人者、移那斯與麻都也。】在於安羅、多行姧佞、任那難建、海西諸國、必不獲事。伏請、移此二人、還其本處。勅喩日本府與任那、而圖建任那。故臣遣奈率彌麻沙・奈率己連等、副己麻奴跪、上表以聞。
於是、詔曰、的臣等、【等者、謂吉備弟君臣・河内直等也。】往來新羅、非朕心也。曩者、印支彌【未詳。】與阿鹵旱岐在時、爲新羅所逼、而不得耕種。百濟路迥、不能救急。由的臣等往來新羅、方得耕種、朕所曾聞。若已建任那、移那斯・麻都、自然却退。豈足云乎。伏承此詔、喜懼兼懷。而新羅誑朝、知匪天勅。
新羅春取[口彔]淳。(中略)臣嘗聞、新羅毎春秋、多聚兵甲、欲襲安羅與荷山。或聞、當襲加羅。頃得書信。便遣將士、擁守任那、無懈息也。頻發鋭兵、應時往救。是以、任那隨序耕種。新羅不敢侵逼。而奏百濟路迥、不能救急、由的臣等、往來新羅、方得耕種、是上欺天朝、轉成姧佞也。曉然若是、尚欺天朝。自餘虚妄、必多有之。的臣等、猶住安羅、任那國、恐難建立。宜早退却。
臣深懼之、佐魯麻都、雖是韓腹、位居大連。廁日本執事之間、入榮班貴盛之例。而今反着新羅奈麻禮冠。即身心歸附、於他易照。熟觀所作、都無怖畏。故前奏惡行、具録聞訖。今猶着他服、日赴新羅域、公私往還、都無所憚。
夫[口彔]國之滅、匪由他也。[口彔]國之函跛旱岐、貳心加羅國、而内應新羅、加羅自外合戰。由是滅焉。若使函跛旱岐、不爲内應、[口彔]國雖少、未必亡也。至於卓淳、亦復然之。假使卓淳國主、不爲内應新羅招寇、豈至滅乎。
歴觀諸國敗亡之禍、皆由内應貳心人者。今麻都等、腹心新羅、遂着其服、往還旦夕、陰構姧心。乃恐、任那由玆永滅。任那若滅、臣國孤危。思欲朝之、豈復得耶。伏願天皇、玄鑒遠察、速移本處、以安任那

  百済の使人、奈率阿乇得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非らが上表して、安羅と安羅日本府の行状(4年12月条から5年2月条)を述べ、的臣・吉備弟君臣・河内直が安羅にいたのでは任那を建立するのは難しいこと、[口彔]国が滅んだのも卓淳国が滅んだのも新羅に内応するものがいたからであり、今、心身ともに新羅に帰属し新羅の腹心となっている移那斯と麻都を本国に還すことが肝要であることを訴えている。
  任那(南加羅・[口彔]己呑・卓淳)はなぜ滅んだか、その理由を百済側の立場から述べるクライマックスである。非常に興味深い内容が詰まっている。
  「夫任那者、以安羅爲兄。唯從其意。安羅人者、以日本府爲天。唯從其意」は、的臣・吉備弟君臣・河内直はただ移那斯と麻都の指示に従っただけである、ということを言うために挿入したものであるとみてよい。任那は安羅を除くその他の任那の国々のことで、安羅は任那の国の中でも兄貴分であり、その安羅は日本府を絶対としている、という意味にとれる。移那斯・麻都は日本府の政治をほしいままにしているというから日本府であり、そうすると的臣・吉備弟君臣・河内直が安羅ということになる。しかし河内直は、2年秋7月条に「別以安羅日本府河内直、通計新羅、深責罵之」とあり、日本府の臣である。とすれば的臣・吉備弟君臣も日本府の臣であり、「以安羅爲兄・・・以日本府爲天」というのは、あまり意味のないものとなってしまう。この挿入句は、これまでの任那・安羅・日本府の関係を単に述べたものにすぎないものなのかもしれない。
  しかしながら、任那の首都国が安羅であり、その安羅に安羅を動かす日本府があった、という構図は浮かび上がってくる。

○(五年〔544〕)十一月、百濟遣使、召日本府臣・任那執事曰、遣朝天皇、奈率得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非等、還自日本。今日本府臣及任那國執事、宜來聽勅、同議任那。日本吉備臣、安羅下旱岐大不孫・久取柔利、加羅上首位古殿奚・卒麻君・斯二岐君・散半奚君兒、多羅二首位訖乾智、子他旱岐、久嗟旱岐、仍赴百濟。於是、百濟王聖明、略以詔書示曰、吾遣奈率彌麻佐・奈率己連・奈率用奇多等、朝於日本。詔曰、早建任那。又津守連奉勅、問成任那。故遣召之。當復何如、能建任那。請各陳謀。吉備臣・任那旱岐等曰、夫建任那國、唯在大王。欲冀遵王、倶奏聽勅。
聖明王謂之曰、任那之國、與吾百濟、自古以來、約爲子弟。今日本府印岐彌、【謂在任那日本臣名也。】既討新羅、更將伐我。又樂聽新羅虚誕謾語也。夫遣印岐彌於任那者、本非侵害其國。【未詳。】往古來今、新羅無道。食言違信、而滅卓淳。股肱之國、欲快返悔。故遣召到、倶承恩詔、欲冀、興繼任那之國、猶如舊日、永爲兄弟。
竊聞、新羅安羅、兩國之境、有大江水。要害之地也。吾欲據此、脩繕六城。謹請天皇三千兵士、毎城充以五百、并我兵士、勿使作田、而逼惱者、久禮山之五城、庶自投兵降首。卓淳之國、亦復當興。所請兵士、吾給衣粮。欲奏天皇、其策一也。
猶於南韓、置郡令・城主者、豈欲違背天皇、遮斷貢調之路。唯庶、剋濟多難、殲撲強敵。凡厥凶黨、誰不謀附。北敵強大、我國微弱。若不置南韓、郡領・城主、脩理防護、不可以禦此強敵。亦不可以制新羅。故猶置之、攻逼新羅、撫存任那。若不爾者、恐見滅亡、不得朝聘。欲奏天皇、其策二也。
又吉備臣・河内直・移那斯・麻都、猶在任那國者、天皇雖詔建成任那、不可得也。請、移此四人、各遣還其本邑。奏於天皇、其策三也。宜與日本臣・任那旱岐等、倶奉遣使、同奏天皇、乞聽恩詔。於是、吉備臣・旱岐等曰、大王所述三策、亦協愚情而已。
今願、歸以敬諮日本大臣【謂在任那日本府之大臣也。】安羅王・加羅王、倶遣使同奏天皇。此誠千載一會之期、可不深思而熟計歟。

  2年〔541〕夏4月のときと同じように、日本・安羅・加羅・卒麻・斯二岐・散半奚・多羅・子他の臣が百済に行った。日本とは安羅にある任那日本府である。
  聖明王が任那再建(新羅から取り戻す)のための三つの策を披露する。その一の策の説明の中で、新羅と安羅の国境に大きな川があり、新羅側には久礼山というところがあるという。またその二の策の説明の中で、南韓に郡令・城主を置くのは北敵を防ぎ新羅を制するためであるという。ここからこれらの国の地理的関係が少し見えてくる。

新羅と安羅の間には大きな川がある。
新羅には久礼山というところがある。
南韓は北に敵(新羅を除くと高麗しかない)がおり、新羅を抑える(新羅に近いところ)ことができるところにある。百済が郡令・城主を置いている。

  で、南韓に百済が郡令・城主を置いているということからすると、南韓とは「下韓」のことのようである。下韓は高麗を防ぎ、新羅を制するほどの立地条件を備えたところにあるということになる。4年冬11月条、5年2月条の下韓の状況も考慮すれば、下韓は安羅にあって高麗・新羅に近いところにあったのではないかと推測される。下韓は安羅の郡か県なのかもしれない(郡・県と呼ばれていたかどうかはわからないが)。
  は重要な地理的条件であるが、こういった条件のところはいくつもあり、これだけではまだ新羅と安羅を特定することはできない。
  この会議には、日本府として吉備臣が出席しているが、吉備臣・河内直・移那斯・麻都が任那にいたのでは任那を建てるのは難しいと聖明王はいう。この会議に出席した吉備臣・旱岐たちは聖明王の策に賛同するが、吉備臣が同一人物だとするとこれはおかしな話である。会議に出席した吉備臣と新羅と通じている吉備臣とは別人かもしれないが、編纂者も混乱しているようである。

○六年〔545〕(中略)秋九月、百濟遣中部護德菩提等、使于任那。贈呉財於日本府臣及諸旱岐、各有差。

○九年〔548〕(中略)夏四月壬戌朔甲子、百濟遣中部杆率掠葉禮等奏曰、德率宣文等、奉勅至臣蕃曰、所乞救兵、應時遣送。祗承恩詔、嘉慶無限。然馬津城之役、【正月辛丑、高麗率衆、圍馬津城。】虜謂之曰、由安羅國與日本府、招來勸罰。以事准況、寔當相似。然三廻欲審其言、遣召而並不來。故深勞念。伏願、可畏天皇、【西蕃皆稱日本天皇、爲可畏天皇。】先爲勘當。暫停所乞救兵、待臣遣報。詔曰、式聞呈奏、爰覿所憂、日本府與安羅、不救隣難、亦朕所疾也。又復密于高麗者、不可信也。朕命即自遣之。不命何容可得。願王、開襟緩帶、恬然自安、勿深疑懼。宜共任那、依前勅、戮力倶防北敵、各守所封。朕當遣送若干人、充實安羅逃亡空地。

  安羅と日本府が高麗に馬津城を襲わせたという。百済の訴えであることからすると、馬津城は百済にあった城と考えられる。安羅と日本府はどのようにして高麗と密通したのだろうか。安羅・日本府と高麗は地理的にかなり近かったものと考えざるを得ない。5年11月条で、南韓は高麗を防ぐ要衝であり、安羅にあったと考えると、地理的側面からみて、安羅と日本府が高麗に密通したというのは理解できる。
  ここでは「充實安羅逃亡空地」も気になる。安羅は逃亡したとある。安羅は一体どうしたのだろう。

○(九年〔548〕)六月辛酉朔壬戌、遣使詔于百濟曰、德率宣文、取歸以後、當復何如。消息何如。朕聞、汝國爲狛賊所害。宜共任那、策勵同謀、如前防距。

 9年夏4月条の、高麗が百済の馬津城を襲ったことをいっているのであるが、10年夏6月条により、高麗と密通していたのは移那斯と麻都だったことがわかる。

○十一年〔550〕(中略)夏四月庚辰朔、在百濟日本王人、方欲還之。【百濟本記云、四月一日庚辰、日本阿比多還之。】百濟王聖明、謂王人曰、任那之事、奉勅堅守。延那斯・麻都之事、問與不問、唯從勅之。因獻高麗奴六口。別贈王人奴一口。【皆攻爾林、所禽奴也。】

○十二年〔551〕(中略)是歳、百濟聖明王、親率衆及二國兵、【二國謂新羅・任那也。】往伐高麗、獲漢城之地。又進軍討平壤。凡六郡之地、遂復故地。

 聖明王が新羅と任那を率いて高麗を討ったという。漢城・平壤もでてくる。『三国史記』「新羅本紀」眞興王12年(551〕に「王命居柒夫等侵高句麗、乘勝取十郡」とあり、同「高句麗本紀」陽原王7年〔551〕に「新羅來攻取十城」とあるが、百済が新羅と任那とともに高句麗を討ったとする記録はない。百済聖王28年〔550〕に「王遣將軍達巳、領兵一萬、攻取高句麗道薩城。三月、高句麗兵圍金峴城」とあるが、ここには新羅・任那は出てこない。しかし『日本書紀』の流れからいって、百済が新羅とともに高麗を討つことはあり得ない。『三国史記』に該当記事は無いが、漢城・平壤もでてくることからすると、これは『日本書紀』の三韓の事件ではなく、朝鮮の三国に関するものと思われる。

○十三年〔552〕(中略)五月戊辰朔乙亥、百濟・加羅・安羅、遣中部德率木刕今敦・河内部阿斯比多等奏曰、高麗與新羅、通和并勢、謀滅臣國與任那。故謹求請救兵、先攻不意。軍之多少、隨天皇勅。詔曰、今百濟王・安羅王・加羅王、與日本府臣等、倶遣使奏状聞訖。亦宜共任那、幷心一力。猶尚若玆、必蒙上天擁護之福、亦賴可畏天皇之靈也。

  安羅・加羅は任那の中の一国であり、「亦宜共任那、幷心一力」は「他の任那の国々とも心を合わせ力を一つにする」という意味で、安羅・加羅は任那ではないということではない。任那の中心国が安羅と加羅なのである。
  ※「亦宜共任那、幷心一力」の「任那」は、「今百濟王・安羅王・加羅王、與日本府臣等、倶遣使奏状聞訖」からすると、「他の任那の国々」のことではなく日本府のことを指しているようである。高麗と新羅が百済・加羅・安羅・任那(日本府)を滅ぼそうとしているということ、百済・加羅・安羅・日本府がともに遣使していることなどからすると、百済・加羅・安羅は非常に近い位置関係にあったものと思われる。2007.04.30

○十四年〔553〕(中略)八月辛卯朔丁酉、百濟遣上部奈率科野新羅・下部固德汶休帶山等、上表曰、去年臣等同議、遣内臣德率次酒・任那大夫等、奏海表諸彌移居之事。伏待恩詔、如春草之仰甘雨也。今年忽聞、新羅與狛國通謀云、百濟與任那、頻詣日本。意謂是乞軍兵、伐我國歟。事若實者、國之敗亡、可企踵而待。庶先日本軍兵、未發之間、伐取安羅、絶日本路。其謀若是。(中略)所遣軍衆、來到臣國、衣粮之費、臣當充給。來到任那、亦復如是。若不堪給、臣必助充、令無乏少。別的臣敬受天勅、來撫臣蕃。夙夜乾々、勤修庶務。由是、海表諸蕃、皆稱其善。謂當萬歳、肅清海表。不幸云亡。深用追痛。今任那之事、誰可修治。伏願、天慈速遣其代、以鎭任那。又復海表諸國、甚乏弓馬。自古迄今、受之天皇、以禦強敵。伏願、天慈多貺弓馬。

 百済が遣使して、新羅と高麗が安羅を取ろうと謀っているので日本軍を早急に派遣してくれるよう、また的臣の後任も速やかに派遣してくれるよう求めている。任那侵略は新羅だけではなく高麗も加わってきたのである。百済と新羅は任那の地域をめぐって日本府をまじえて争ってきた。新羅はついに高麗を引き入れ任那の中心部を取ろうとしてきたのである。このことからみても、12年〔551〕の聖明王が新羅とともに高麗を討ったとするのは、つじつまが合わない。
  朝鮮半島では加耶地域をめぐっての争いは百済と新羅だけである。

○十五年〔554〕(中略)冬十二月、百濟遣下部杆率汶斯干奴、上表曰、百濟王臣明、及在安羅諸倭臣等、任那諸國旱岐等奏、以斯羅無道、不畏天皇、與狛同心、欲殘滅海北彌移居。臣等共議、遣有至臣等、仰乞軍士、征伐新羅。而天皇遣有至臣、帥軍以六月至來。臣等深用歡喜。以十二月九日、遣攻新羅。臣先遣東方領物部莫奇武連、領其方軍士、攻函山城。有至臣所將來民竹斯物部莫奇委沙奇、能射火箭。蒙天皇威靈、以月九日酉時、焚城拔之。故遣單使馳船奏聞。別奏、若但新羅者、有至臣所將軍士亦可足矣。今狛與新羅、同心戮力。難可成功。伏願、速遣竹斯嶋上諸軍士、來助臣國。又助任那、則事可成。又奏、臣別遣軍士萬人、助任那。幷以奏聞。今事方急。單船遣奏。但奉好錦二匹・[偏上:日 下:羽 旁:毛][偏:登 旁:毛]一領・斧三百口、及所獲城民、男二女五。輕薄追用悚懼。

  新羅が高麗と組んだことにより、安羅諸倭臣も任那の他の国の旱岐とともに新羅に対抗しようという気になってきたものとみられる。
  ところで「安羅諸倭臣」とは何だろうか。日本府の臣であれば日本府と書くはずである。日本府の臣としてではなく安羅に送られてきた人たちであろうか。またここでは「日本」ではなく「倭」が使ってある。13年〔552〕5月条を最後に日本府は登場しなくなる。
  新羅には函山というところがある。兵に竹斯物部莫奇委沙奇という弓の名手がいて、さらに百済は筑紫の兵の救援を求めている(磐井を討った物部大連麁鹿火も筑紫物部だった可能性を示唆していないだろうか。2016.06.14。ここで急に「倭」という字が使われ、任那に行く兵は筑紫の兵である。物部も筑紫の物部である。

○(十五年〔554〕冬十二月)餘昌謀伐新羅。耆老諫曰、天未與。懼禍及。餘昌曰、老矣、何怯也。我事大國、有何懼也。遂入新羅國、築久陀牟羅塞。(中略)餘昌遂見圍繞、欲出不得。士卒遑駭、不知所圖。有能射人、筑紫國造。進而彎弓、占擬射落新羅騎卒最勇壯者。發箭之利、通所乘鞍前後橋、及其被甲領會也。復續發箭如雨、彌厲不懈。射却圍軍。由是、餘昌及諸將等、得從間道逃歸。餘昌讚國造射却圍軍、尊而名曰鞍橋君。鞍橋、此云矩羅膩。於是、新羅將等、具知百濟疲盡、遂欲謀滅無餘。有一將云、不可。日本天皇、以任那事、廔責吾國。況復謀滅百濟官家、必招後患。故止之。

 新羅討伐に向かった余昌を心配し出かけていった聖王が新羅の奴に首をとられてしまう。余昌自身も敵に包囲されてしまうが、弓の名手筑紫国造に助けられる。
  余昌を心配して出かけた聖王が新羅の奴に首をとられたのは、朝鮮半島で起きた史実であるが、これと筑紫国造が余昌を助けたというのとがつながるかどうかはわからない。「日本天皇」以下をみると造文の可能性が高い。しかし、ここでも筑紫武将である。(2016.06.14
  ※『三国史記』「百済本紀」聖王32年〔554〕7月条、「新羅本紀」真興王15年〔554〕7月条によれば、聖王が戦死したのは554年7月のことで、『日本書紀』と5か月のずれがある。2007.04.30

○(廿二年〔561〕)是歳、復遣奴氐大舎、獻前調賦。於難波大郡、次序諸蕃、掌客額田部連・葛城直等、使列于百濟之下而引導。大舎怒還。不入館舎、乘船歸至穴門。於是、脩治穴門館。大舎問曰、爲誰客造。工匠河内馬飼首押勝欺紿曰、遣問西方無禮使者之所停宿處也。大舎還國、告其所言。故新羅築城於阿羅波斯山、以備日本。

この記事には任那は出てこないが、新羅は日本に備え阿羅波斯山に城を築いたという。阿羅を安羅だとすると、新羅は日本に備えて日本府のある任那の安羅に城を築いたことになる。安羅はすでに新羅の手に落ちていたか、阿羅は安羅ではないかである。

○廿三年〔562〕春正月、新羅打滅任那官家。【一本云、廿一年、任那滅焉。總言任那、別言加羅國・安羅國・斯二岐國・多羅國・卒麻國・古嵯國・子他國・散半下國・乞飡國・稔禮國、合十國。】

  『三国史記』「新羅本紀」眞興王23年〔562〕条「九月、加耶叛。王命異斯夫討之、斯多含副之。斯多含領五千騎先馳、入栴檀門立白旗。城中恐懼、不知所爲。異斯夫引兵臨之、一時盡降」が、「新羅打滅任那官家」に当たるとされる。しかし、『日本書紀』では正月、「新羅本紀」では9月であり、時期が一致しない。
  『三国史記』では「任那」という表現は一箇所ではあるが存在し、また高句麗広開土王碑にも存在する。二つの記事が同じ事件を記録したものであるなら、『日本書紀』に「任那」とあるものを『三国史記』はなぜわざわざ「加耶」としたのか。疑問は残る。
  加耶は任那を構成する一国という見方もあるが、もしそうであったなら、「總言任那」の十国の中にあってもよいはずであるが、加羅はあっても加耶はない。高句麗広開土王碑には「任那加羅」、『三国史記』列伝第六強首には「任那加良人」とあることからすると、任那と加羅には単純に「任那」だけ、「加羅」だけでは済まない何かがある。
  このとき滅んだのは任那の官家であり、任那ではない(任那は646年まで存在する)、ということだけ考えても、「新羅本紀」の加耶は『日本書紀』の任那でないことは容易にわかることである。

○(廿三年〔562〕)夏六月、詔曰、新羅西羌小醜。逆天無状。違我恩義、破我官家。毒害我黎民、誅殘我郡縣。我氣長足姫尊、靈聖聰明、周行天下。劬勞群庶、饗育萬民。哀新羅所窮見歸、全新羅王將戮之首、授新羅要害之地、崇新羅非次之榮。我氣長足姫尊、於新羅何薄。我百姓、於新羅何怨。而新羅、長戟強弩、凌蹙任那、鉅牙鉤爪、殘虐含靈。刳肝斮趾、不厭其快。曝骨焚屍、不謂其酷。任那族姓、百姓以還、窮刀極俎、既屠且膾。豈有率土之賓、謂爲王臣、乍食人之禾、飮人之水、孰忍聞此、而不悼心。況乎太子大臣、處趺蕚之親、泣血銜怨之寄。當蕃屏之任、摩頂至踵之恩。世受前朝之德、身當後代之位。而不能瀝膽抽腸、共誅姧逆、雪天地之痛酷、報君父之仇讎、則死有恨臣子之道不成。

  新羅が任那の官家を滅ぼしたことへの非難である。

○(廿三年〔562〕)秋七月己巳朔、新羅遣使獻調賦。其使人知新羅滅任那、恥背國恩、不敢請罷。遂留不歸本土。例同國家百姓。今河内國更荒郡鸕[茲鳥]野邑新羅人之先也。

○(廿三年〔562〕)是月、遣大將軍紀男麻呂宿禰、將兵出哆唎。副將河邊臣瓊缶、出居曾山。而欲問新羅攻任那之状。遂到任那、以薦集部首登弭、遣於百濟、約束軍計。登弭仍宿妻家。落印書弓箭於路。新羅具知軍計。卒起大兵、尋屬敗亡。乞降歸附。紀男麻呂宿禰、取勝旋師、入百濟營。

  哆唎は512年に百済に割譲した四県のうちの上哆唎・下哆唎をまとめた言い方である。したがって哆唎は百済であり、紀男麻呂は百済側から任那に入ったのである。官家が滅びた以上、それは当然のことといえるだろう。任那にはすでに新羅軍がいたるところにいたようである。
  紀男麻呂は勝利し新羅は敗れるが、どういうわけか官家は回復されていない。他の武将は新羅軍に敗れ、戦死したものもいた。

○(廿三年〔562〕)八月、天皇遣大將軍大伴連狹手彦、領兵數萬、伐于高麗。狹手彦乃用百濟計、打破高麗。其王踰墻而逃。狹手彦遂乘勝以入宮、盡得珍寶[貝化]賂・七織帳・鐵屋還來。【舊本云、鐵屋在高麗西高樓上。織帳張於高麗王内寢。】(中略)【鐵屋在長安寺、是寺、不知在何國。一本云、十一年大伴狹手彦連、共百濟國、驅却高麗王陽香於比津留都。】

任那は登場しないが、百済の計をもって、新羅と手を結んでいた高麗を伐った記事である。「一本云」の「十一年」は550年にあたり、『三国史記』「百済本紀」の百済が高句麗を攻めた事件を指しているようである。しかしこのときの高麗王は陽香ではなく陽原であり、時代も12年ずれている。

○(廿三年〔562〕)冬十一月、新羅遣使獻、幷貢調賦。使人悉知國家、憤新羅滅任那、不敢請罷。恐致刑戮、不歸本土。例同百姓。今攝津國三嶋郡埴盧新羅人之先祖也。

○卅二年〔571〕春三月戊申朔壬子、遣坂田耳子郎君、使於新羅、問任那滅由。

○卅二年〔571〕(中略)夏四月戊寅朔壬辰、天皇寢疾不豫。皇太子向外不在。驛馬召到、引入臥内、執其手詔曰、朕疾甚。以後事屬汝。々須打新羅、封建任那。更造夫婦、惟如舊日、死無恨之。

  任那での日本の拠点はなくなってしまったが、「封建任那」という建前は、これ以後続いていくのである。


※22年是歳条、23年8月条を追加した。2007.04.25
※13年5月条、15年12月余昌の段の説明を追加訂正した。2007.04.30
※23年〔562〕春正月条の説明で、当初、「任那加羅」の加羅は別の名で加耶ともいわれた加羅だと考えられると書いたが、これは史料により確認されたものではなかったので、対象部分を削除した。
2007.05.18 2016.06.14
22年〔561〕是歳条の説明を訂正した。
2007.06.03
※23年〔562〕春3月条の説明で、「任那の官家(安羅日本府)」というのは、その可能性はあるものの、史料からは確定できないので「(安羅日本府)」の部分を削除した。
2014.03.18


つづく


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