中国・朝鮮史書の倭と日本

2007.03.30

倭と日本を記録する史料

 中国史書には倭国と日本国を共に記録している史書がある。邪馬台国畿内説と邪馬台国東遷説はこの倭国と日本国を同じ国とみる説である。しかし、果たしてこれらの史書はそれを示しているのだろうか。
  同一史書内で倭国と日本国を記録している史書には、オリジナリティを持つものとして、中国の史書『旧唐書』『新唐書』『通典』『唐会要』があり、また朝鮮の史書『三国史記』『三国遺事』も倭国と日本国を記す。倭国から日本国に変わっていく時期、またその時期とはかけ離れた時代に現われる倭と日本について、少し考えてみたい。
  上記の史書から、上述した部分に関係する記事を抽出すると次のようになる。同一内容の記事はより古い史書のものを採用した。

●旧唐書

《本紀第六 則天皇后》(長安二年〔702〕)冬十月、日本國遣使貢方物。

《列傳第三十四 劉仁軌》麟德二年〔665〕、封泰山、仁軌領新羅及百濟、耽羅、四國酋長赴會、高宗甚悦、拜大司憲。

《列傳第九十九 張薦》天后朝〔690~705〕、中使馬仙童陷默啜、默啜謂仙童曰、張文成在否、曰、近自御史貶官。默啜曰、國有此人而不用、漢無能爲也。新羅、日本東夷諸蕃、尤重其文、毎遣使入朝、必重出金貝以購其文、其才名遠藩如此。

《列傳一百四十九上 東夷 倭國》貞觀五年〔631〕、遣使獻方物。太宗矜其道遠、勑所司無令歳貢、又遣新州刺史髙表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子争禮、不宣朝命而還。至二十二年〔648〕、又附新羅奉表、以通起居。

《列傳一百四十九上 東夷 日本国》長安三年〔703〕、其大臣朝臣眞人來貢方物。

●唐会要

《倭國》永徽五年〔654〕十二月、遣使獻琥珀瑪瑙。(中略)北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接。

咸享元年〔670〕三月、遣使賀平高麗。爾後継來朝貢。則天時[690~705]、自言。其國近日所出、故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。

●新唐書

《列傳第一百二十七 文藝 中 蕭穎士》史官韋述薦穎士自代、召詣史館待制、穎士乘傳詣京師。而林甫方威福自擅、穎士遂不屈、愈見疾、俄免官、往來□、杜間。林甫死、更調河南府參軍事。倭國遣使入朝、自陳國人願得蕭夫子爲師者、中書舎人張漸等諫不可而止。

《列傳第一百四十五 東夷 日夲》太宗貞觀五年〔631〕、遣使者入朝、帝矜其遠、詔有司毋拘歳貢。遣新州刺史髙仁表往諭、與王爭禮不平、不肯宣天子命而還。久之、更附新羅使者上書。

《列傳第一百四十五 東夷 日夲》咸亨元年〔670〕、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日夲。

長安元年〔701〕、其王文武立、改元曰太寳、遣朝臣眞人粟田貢方物。

●通典

(北宋版 巻一百八十五 邊防第一 東夷上 倭)一名日夲、自云國在日邊、故以爲稱。武太后長安二年〔702〕、遣其大臣朝臣眞人貢方物。

●三国史記

《新羅 文武王》十年〔670〕(中略)十二月。(中略)倭國更號日本。自言近日所出。以爲名。

《新羅 孝昭王》七年〔698〕(中略)三月。日本國使至。王引見於崇禮殿。

●三国遺事

  ○紀異 第一

《馬韓》淮南子注云。東方之夷九種。論語正義云。九夷者。一玄莵 二樂浪 三高麗四滿飾 五鳧臾 六素家 七東屠 八人 九天鄙。海東安弘記云。九韓者。一日本 二中華 三呉越 四乇羅 五鷹遊 六靺鞨 七丹國 八女眞 九穢貊。

《延烏老 細烏女》第八阿達羅王即位四年〔157〕丁酉。東海濱有延烏老・細烏女・夫婦而居。一日延烏歸海採藻。忽有一巖(一云一魚)。負歸日本。國人見之曰。此非常人也。乃立爲王(按日本帝記。前後無新羅人爲王者。此乃邊邑小王而非眞王也)。(中略)是時新羅日月無光。日者奏云。日月之精・降在我國。今去日本。故致斯恠。

  ○塔像 第四

《皇龍寺九層塔》新羅第二十七善德王即位五年。貞觀十年〔636〕丙申。慈藏法師西學。(中略)經由中國太和池邊。忽有神人出問。胡爲至此。藏答曰。求菩提故。神人禮拜。又問。汝國有何留難。藏曰。我國北連靺鞨。南接人。麗濟二國。迭犯封陲。隣冦縱横。是爲民梗。神人云。今汝國以女爲王。有德而無威。故隣國謀之。宜速歸本國。

又海東名賢安弘撰東都成立記云。新羅第二十七代。女王〔善德王632~647〕爲王。雖有道無威。九韓侵勞。若龍宮南皇龍寺建九層塔。則隣國之災可鎭。第一層日本。第二層中華。第三層呉越。第四層托羅。第五層鷹遊。第六層靺鞨。第七層丹國。第八層女狄。第九層穢貊。

  ○感通 第七

《融天師彗星歌 眞平王代》第五居烈郎・第六實處郎(一作突處郎)・第七寶同郎等三花之徒。欲遊楓岳。有彗星犯心大星。郎徒疑之。欲罷其行。時天師作歌歌之。星恠即滅。日本兵還國。反成福慶。大王〔眞平王579~632〕歡喜。遣郎遊岳焉。

倭国と日本国の書き分け

 以上の記事は次のことを示している。

1.によれば倭国が日本国と改名したのは670年である。
2.によれば倭国は665年までは存在し、③⑦によれば690年~705年の間に日本国は誕生した。
3.は日本国の記事であるが、もとはの倭国記事である。
4.は日本国誕生後に倭国の行動を記録している。
5.⑯⑱⑲は日本が誕生していない時代に「日本」を記録している。

 1と2は倭国が日本国と改名する時期が一致していない。その時期を670年だとするの記事はあまり信用がないようであるが、確かに⑦⑩によれば670年ではなくそれより以後のこと、と読める。こちらの方が信用性は高いかもしれない。ここではその結論は保留し、4と5の問題について考えてみたい。まず4についてであるが、の蕭穎士伝は『旧唐書』にもあり、そこには次のようにある。

《列傳第一百四十下 文苑下 蕭穎士》當開元中。(中略)然而聰警絶倫、嘗與李華、陸據同遊洛南龍門、三人共讀路側古碑、穎士一閲、即能誦之、華再閲、據三閲、方能記之。議者以三人才格高下亦如此。是時外夷亦知穎士之名、新羅使入朝、言國人願得蕭夫子爲師、其名動華夷若此。終以誕傲褊忿、困躓而卒。

  開元中は713年~741年のことであり、この時期すでに日本国は誕生していたが、私の歴史観からいえば、『新唐書』の倭国もありえないことではない。しかし『旧唐書』の蕭穎士伝をみると、『新唐書』では「倭国」とあったところが「新羅」となっている。

(旧唐書)新羅使入朝、言國人願得蕭夫子爲師、其名動華夷若此。

(新唐書)倭國遣使入朝、自陳國人願得蕭夫子爲師者、中書舎人張漸等諫不可而止。

  二つの文章を比較すると、『新唐書』は『旧唐書』をもとにし、「新羅」が単純に「倭国」になっていることがわかる。どうしてこうなったのかはわからないが、明らかにこの文章のオリジナルは「新羅」である。したがっての「倭国」は「新羅」の誤りだった可能性が高くなる。そうすると「開元中」の倭国は消え、4の見方もなくなることになる。
  次に5について考えてみる。は157年のこととされるが、史実というより伝承・説話であり、③⑦⑬をみればこの時代の「日本」はありえない。⑱⑲は579年~647年のことで、これは微妙である。しかし中国史書をみる限りこの時期にはまだ日本は存在していなかったのであり、たとえこの国が後に「日本」と名乗ったとしても、日本と書くことは正しいとはいえない。『三国遺事』は『三国史記』とは異なり、仏教的視点からみたものであり、歴史書ではないと理解した方がよいのかもしれない。
  『三国史記』は新羅本紀に「(文武王十年〔670〕十二月)倭國更號日本」とあり、この時を境に倭国と日本を書き分けている。中国史書も、4については前述した見方ができ、書き分けは正確だったといえる。しかし『三国遺事』はそうなっていない。『三国遺事』という書の性格上、それは止むを得ないのかもしれない。『三国遺事』のこの点を除けば、中国史書、朝鮮史書は全体的にみれば、倭国と日本国の書き分けはかなり厳格におこなわれているように感じられる。
  こうしてみると、7世紀末には倭国という存在はほとんどなくなっていたと考えなければならない。これを、倭国が日本国と名を変えたのだから当然のこととみるか、日本列島の覇権が倭国から日本国に完全に遷ったためとみるか、最大の問題はここにある。

倭国が日本国と名を変えたのか

  「倭国が日本国と名を変えたのだからそれは当然のこと」とする見方を手助けするのは、何といっても『新唐書』であるが、の中ではにも現われている。

 『旧唐書』では倭国条にあったものが『新唐書』では日本国条にある。
 『唐会要』では倭国条にあったものが『新唐書』では日本国条にある。
 『唐会要』倭国条に、倭国が日本国と国名を変えた理由が書かれている。
 『通典』倭条に「倭一名日夲」と、倭は日本のことであることが書かれている。
 『三国史記』新羅本紀に、倭国が日本と改号したとある。

  これらはすべて、倭がその国名を日本と改めたことを、直接間接に表現している。倭がその国名を日本と改めたこと、それは正しい。しかしそれはこれらの史書の上だけのことにすぎない。これらの史書の中だけでは正しいのである。国名を日本と改めた倭は、果たして『魏志』倭人伝や『後漢書』や『隋書』の倭・と同じ国なのか。このことが重要なのである。
  『隋書』の国の地理地形、『旧唐書』の倭国の地理地形と日本国の地理地形、『新唐書』の日本の地理地形は、「倭国=国≠日本国」を示している。このことはすでに諸処で何度も述べているのでその詳細はここでは省略するが、邪馬台国畿内説者、邪馬台国東遷説者は、この史実に対し、明確な回答を提出する必要がある。
  倭国が日本国と改名したというのが正しいのであれば、『隋書』『旧唐書』『新唐書』などの一連の史書と併せて考えると、「倭国=国≠日本国=もう一つの倭国」とならざるを得ない。倭・倭国は長い間ずっと同じ国・同じ地域を指していたが、7世紀末を描く史書に至ってついに変貌を遂げたのである。倭国と『記紀』における倭(やまと)は別の国とみることによって、『旧唐書』から『新唐書』への「変化と矛盾」ははじめて理解できるのである。

随所に現われる「倭国ではない倭である日本」

  (『唐会要』倭国条)は実は意味深長な文章である。「爾後継來朝貢」の「爾後」とは「ある物事があってのち」という意味であって、「ある物事」とは「遣使賀平高麗」であり、したがってこの文は、「高麗平定を祝う使者を派遣して以来、継続して朝貢するようになったその国は、則天皇后のとき日本と改号した」となる。一見、倭国が日本と改号したように受け取れるが、「爾後」に注目すると、この倭国が『隋書』に「自魏至于齊、梁、代與中國相通」とある倭国と同一国であるとは思えなくなるのである。
  「遣使賀平高麗」するまで、その国は中国との国交はあまりなかったことを「爾後継來朝貢」は示している。その国は「自魏至于齊、梁、代與中國相通」の倭国ではありえないのである。また「遣使賀平高麗」は670年のことであるが、この年は白村江の戦いの7年後であり、百済を救援し唐と戦い敗れた倭が、倭と同じような立場にあった高麗を平定した唐に対し、そのお祝いに遣使するなどということがありうるだろうか、という疑問がある。「遣使賀平高麗」した国は「倭国ではない倭である日本」であり、「日本と改名した倭」なのである。「倭国ではない倭である日本」は、細かく見ればこのほかにも随所に発見できるはずである。
 7世紀後半に現われる日本は、倭が改名したものであると書かれていても、それまでの一連の史書を無視しなければ、その倭を『旧唐書』まで書き続けられた倭・倭国と同一視することは不可能なはずである。中国史書・朝鮮史書の、「日本と改名した国」である日本国の記事は倭国と日本国の関係を記録したのではなく、日本国の事情を説明したに過ぎないのである。

 7世紀末の倭国と日本国を描く中国・朝鮮史書の倭国と日本国の書き分けは、表面的(これらの史書においてのみ)には、倭国が日本国と名を変えたという見方によるものであるが、これらの史書に至るまでの一連の史書に視野を広げれば、その裏に潜む史実は、日本列島の覇権が、倭国から、倭(やまと)が改名した日本国に完全に遷った結果によるものであるということが、見えてくるのである。


天后朝、則天時は即位から退位までの690705年とした。


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