年表 百済滅亡-白村江敗戦


 『日本書紀』は、百済滅亡から白村江敗戦にいたるまでの百済とヤマトの関係について記録している。しかしこれらの事件の記録は『日本書紀』だけではなく、『旧唐書』や『三国史記』にも記録されている。そしてそれら史料間には、一致するものと矛盾するものが存在している。こういう場合、一体どうしたらよいのだろうか。それこそ歴史的判断をしなければならないのであるが、その判断は恣意的であってはならない。
  百済滅亡後、百済の佐平福信が百済王子豊璋を百済王として迎えたいと要請してくるが、その要請と豊璋を百済に送る記事が、『日本書紀』には二回ずつ存在する。
  『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館)の「余豊璋」には、660年10月と661年4月に、福信が豊璋を迎えて即位させることを請うてきて、661年9月に豊璋を百済に送り、662年5月に阿曇比邏夫連を遣わして豊璋を即位させた、というような意味のことが書かれている。しかし661年9月は豊璋を「本郷(豊璋の本郷だから百済のこと)」に、662年5月は「百済」に送ったと、いずれも豊璋を百済に送った記事になっており、『日本古代氏族人名辞典』の説明のようには読めない。
  『旧唐書』東夷伝「百済」には、「百済僧道琛と旧将福信は衆を率いて周留城に拠り叛き、倭国に遣使し、故王子扶余豊を迎え王とした。その西部、北部はこれに呼応し・・・」、福信らはその後苦戦し任存城に退いたが、それは龍朔元年〔661〕年3月のことだった、とある。
  この記録は『日本書紀』の記録と大きく異なる。本当に豊璋は龍朔元年〔661〕年3月にはすでに百済にいたのか。私は疑いをもって調べてみた。しかしそれを否定する記録は見つからなかった。660年7月、百済王が唐の蘇定方に降伏した後、福信と道琛は唐に対して反旗を翻した。このとき、倭国に人質として行っていた、百済王の直系の血を引く豊璋を王に立て、民衆の士気を高め、百済復興を図ろうとした。これは残された将として当然の行動であろう。それはできるだけ早いほうがいいに決まっている。『日本書紀』が661年9月あるいは662年5月に豊璋を百済に送ったというのは歴史の流れに合わない、わたしにはそう思えるのである。

  百済滅亡から白村江敗戦というこの時代は、その後の歴史をみると、明らかに日本の歴史の転換点である。しかし『日本書紀』は、ただ読んでいるだけでは問題点が漠然として煩雑でわかりにくい。そこで、百済滅亡から白村江敗戦までの歴史を、関連事件を絞り込み年表にまとめてみることにした。
 この中で、次のことは重要な検討課題となるだろう。

佐平福信が百済王子豊璋を百済王として迎えたいと要請した年月。
百済王子豊璋を百済に送った年月。
斉明天皇7年[661]4月条の釈道顕『日本世記』の内容。
天皇と皇太子の九州行き。
高麗救援軍と新羅征討軍の派遣。
福信が続守言やその他の唐人をとらえ献じたとすること。

凡例
豊璋を百済王に要請する記事
『旧唐書』東夷伝「百済」の記事
百済救援、新羅征討記事
豊璋を百済に送る記事
高麗救援記事
扶余豊(豊璋)の倭国への救援要請記事
海外史料(番号)


年     月 内           容 場  所 備        考
1 斉明天皇6年〔660〕7月 【高麗の沙門道顕の日本世記はいう。春秋智は大将軍蘇定方の手を借り、百済を挟撃しこれを亡ぼした。あるいはいう。百済は自ら亡んだ。】

飛鳥岡本宮
2 斉明天皇6年〔660〕10月 百済の佐平鬼室福信が佐平貴智等を遣わし、来朝して唐の俘100余人を献じた。今の美濃国の不破・片県の二郡の唐人達である。

飛鳥岡本宮
3 また軍の救いを乞い、あわせて百済国王子余豊璋を迎え国主としたいと乞うた。【王子豊璋と妻子、叔父忠勝らを送った。その正しい発遣の時は七年を見よ。ある本はいう。天皇は豊璋を立てて王とし、塞上を立てて輔となし、礼をもって発遣した。】

百済への救軍と百済王子を王として迎えることの要請。注には、正しい発遣のときは661年(9月条)を見よとある。しかし「ある本」には、豊璋を王として発遣した、と書かれていたことがわかる。

4 斉明天皇6年〔660〕12月

天皇は福信の乞うところの意に随い、筑紫に行き救軍を送ろうと、まず難波に行き、諸兵器の準備をした。

難波
5 斉明天皇7年〔661〕1月~3月

天皇と皇太子(後の天智天皇)は正月6日難波を出発し、3月25日九州娜大津(長津)に着いた。

九州長津
6 『旧唐書』東夷伝「百済」 龍朔元年〔661〕年3月 文度が海を越えて来て亡くなった。百済僧道琛と旧将福信は衆を率いて周留城に拠り叛き、倭国に遣使し故王子扶余豊を迎え王とした。その西部、北部はこれに呼応し、劉仁願を百済府城に留め、道琛らは兵を引きこれを囲んだ。帯方州刺史劉仁軌は文度に代わり兵を統率し、便道から新羅兵を送り仁願を救った。道琛らは熊津江口に二つの柵を立てて軍を防いだ。仁軌と新羅兵は四面からこれを挟み撃ちすると、賊衆は退却して柵の中に入った。橋が狭かったため、川に落ち戦死するものは万余人に及んだ。道琛らは仁願の囲を解き、任存城に退いた。新羅の兵士は食糧が尽きたので引き上げて行った。ときは龍朔元年三月のことだった。

『旧唐書』列伝第三十四「劉仁軌」には「新羅兵士以糧盡引還 時龍朔元年三月也」はない。『三国史記』「百済本紀」は『旧唐書』東夷伝「百済」によっている。
7 斉明天皇7年〔661〕4月 百済の福信が遣使上表し、王子糺解を迎えることを乞うた。【釈道顕の日本世記はいう百済福信が書を献じ、その君糺解を迎えることを東朝に祈った。ある本はいう。4月、天皇は朝倉宮に遷った。】

九州長津→九州朝倉宮 糺解は豊璋であるとは書かれていないし、王として迎えたいとも書かれていない。
糺解は豊璋ではないと考えた方がよい。
8 斉明天皇7年〔661〕7月

24日、天皇が朝倉宮で亡くなった。

九州朝倉宮
9 天智称制〔661〕7月

皇太子は于長津宮に遷り、徐々に海外の軍政をとった。

九州長津宮
10 天智称制〔661〕8月 前将軍大花下阿曇比羅夫連・小花下河辺百枝臣ら、後将軍大花下阿倍引田比羅夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石らを遣わして、百済を救い、そして武器・五穀を送った。【ある本は、この文末に続けていう。別に大山下狭井連檳榔・小山下秦造田来津を遣わし、百済を守った。】

九州長津宮 百済救軍
11 天智称制〔661〕9月 皇太子(後の天智天皇)は長津宮にいた。織冠を百済王子豊璋に授け、多臣蔣敷の妹を妻とし、大山下狭井連檳榔・小山下秦造田来津に軍五千余を与え、護衛させ本郷に送った。豊璋が国に入る時、福信が迎えに来て、稽首して国政を奉げ、すべてを豊璋に委ねた。

九州長津宮 660年10月条の注には、こちらの記事が正しい発遣だと書かれているが、同じ注の「ある本」にも、天皇は豊璋を立て王とし、塞上を輔とし、礼をもって発遣した、とある。

12 天智称制〔661〕10月

皇太子(後の天智天皇)は天皇の喪を海路難波に送った。

難波
13 天智称制〔661〕11月

天皇の喪を飛鳥の川原で殯した。

飛鳥
14 【日本世記はいう。11月、福信が捕えた唐人の続守言らが筑紫に着いた。ある本はいう。辛酉年〔661〕に、百済の佐平福信が献じた唐の俘106人は近江国墾田に住んだ。庚申年〔660〕、すでに福信が唐の俘を献じたとあるので、今注をしておく。】

唐の俘続守言が筑紫に着いたというのは日本世記であり、信憑性は高い。106人の唐の俘は、660年の記事の唐の俘とは住んだ場所が異なっている。

15 天智称制〔661〕12月 【釈道顕はいう。春秋の志というのは高麗を撃つことに起こったが、まず百済を撃った。】

16 この年、日本の高麗を救う軍将らが、百済の加巴利浜に泊って火を焚いた。灰が変わって孔になり、細い響きがした。鳴鏑のようだった。ある人が、高麗・百済がついに亡びる徴か、といった。

高麗救軍
17 天智天皇元年〔662〕正月 百済の佐平鬼室福信に、矢10万隻、糸500斤、綿1000斤、布1000端、韋1000張、稲種3000斛を賜った。

百済王よりも多い。豊璋が王となったのは662年5月とみているということか。

18 天智天皇元年〔662〕3月

4日、百済王に、布300端を賜った。

19 この月、唐人・新羅人が高麗を伐った。高麗は救いを乞うた。軍将を遣り、疏留城に拠った。

高麗救軍
20 天智天皇元年〔662〕4月 鼠が馬の尾に子を産んだ。釈道顕が占って、「北国の人がまさに南国につこうとしている。高麗が破れて日本に属すのか」といった。

高麗が滅亡しても日本に属することはありえない。
21 天智天皇元年〔662〕5月 大将軍大錦中阿曇比邏夫連らが水軍170艘を率いて、豐璋らを百済国に送り、勅を宣して豊璋らにその位を継がせた。また金策を福信にあたえ、その背をなで、褒めて爵禄を賜った。豊璋らと福信は稽首して勅を受け、衆は涙を流した。

福信を百済に送る記事は661年9月にもあるが、660年10月の注は、正しい発遣は661年9月だという。

22 この年、百済を救うため、武器を修繕し、船舶を備え、軍の食糧を蓄えた。

660年12月と同じ状況の記事となっている。

23 『三国史記』「百済本紀」 龍朔2年〔662〕7月

仁願、仁軌らは熊津の東で福信の余衆を大破した。

24 天智天皇2年〔663〕2月 新羅人が百済の南辺の四州を焼き払い、安徳などの要地を取った。避城は賊に近くいることができず、州柔に還った。田来津が計ったとおりになった。

25 この月、佐平福信が唐の俘続守言らを献上するために送った。

すでに661年11月、福信が捕えた唐人の続守言らが筑紫に着いた、とある。

26 天智天皇2年〔663〕3月 前将軍上毛野君稚子・間人連大蓋、中将軍巨勢神前臣譯語・三輪君根麻呂、後将軍阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄を遣り、2万7千人を率いて新羅を撃った。

新羅征討
27 天智天皇2年〔663〕5月 1日、犬上君が馳け、高麗に兵事を告げ還った。糺解と石城で会った。糺解は福信の罪を語った。

28 天智天皇2年〔663〕6月 前将軍上毛野君稚子らが新羅の沙鼻・岐奴江の二城を取った。

新羅征討
29 百済王豐璋は福信の謀反の心を疑い、福信を斬り、首を酢漬けにした。

30 『三国史記』「百済本紀」 新羅文武王3年〔663〕 福信は権勢をほしいままにし、扶余豊とはお互いに疑い嫌っていた。福信は機会をみて豊を殺そうとしたが、豊はこれを見抜き福信を殺した。豊は高句麗と倭国に遣使し、兵を乞い唐兵を阻もうとしたが、孫仁師がこれを途中で迎え撃って破った。

百済の救軍要請。『旧唐書』列伝第三十四「劉仁軌」及び『旧唐書』東夷伝「百済」に同様記事があり、『三国史記』はこれによったものと思われる。

31 天智天皇2年〔663〕8月 27日、日本の水軍(廬原君臣)の先陣と大唐の水軍が白村江で会戦した。日本は不利になり退いた。28日、大唐軍は左右から船を挟み取り囲んで戦った。ほんわずかの間に、官軍は次々と敗れた。溺死者は多く、朴市田来津は天を仰いで誓い、歯を食いしばって怒り数十人を殺し戦死した。このとき、百済王豊璋は数人と船に乗り高麗に逃げ去った。

百済救軍。


※糺解は豊璋のことである、という定説をそのまま掲載していたが、数年前から糺解は豊璋ではないと考えるようになった。訂正漏れのままになっていたので、ここで訂正した。2018.01.27


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