『日本書紀』の任那 要約版


  任那については、すでに資料に「任那加羅」として、本ホームページに掲載しているところであるが、漢文による史料であるため、内容の正否確認にはよいが、任那の全体像(ストーリーの構成)を把握するには不向きであった。そこで今回、新しく「『日本書紀』の任那 要約版」を作成することにした。
  私はノート「『日本書紀』の任那」を書いていく中で、任那を正しく知っている人は以外と少ないのではないかと思うようになった。任那では、本当はどんなことが起こっていたのか。この要約版で、概略ではあるが、任那の全体像を知っていただけたらと思う。
  ところどころに現われる、実在した百済王に関係する記事は、任那の歴史とは無関係であると私はみているが、その部分は太字で示し、他の記事との比較がしやすいようにした。

  ※垂仁天皇2年「一云」の「彌摩那国」の記事が抜けていたので追加した。2008.05.13

(崇神天皇)
 65年7月、任那国が蘇那曷叱知を派遣し朝貢してきた(※任那国の初出)。
  任那は筑紫国から二千余里離れ、北は海をへだて鷄林の西南にある。

(垂仁天皇)
  2年、任那人蘇那曷叱知が帰国するというので、赤絹百匹を持たせ任那王に授けたが、新羅人がこれを奪った。二国(任那と新羅)の怨みはこのときはじまった。
  別の書は次のようにいう。「崇神天皇の時代に意富加羅国王の子、都怒我阿羅斯等が越国の笥飯浦に来て帰化した。このとき崇神天皇が亡くなり、垂仁天皇に三年仕えた。都怒我阿羅斯等が帰国するとき垂仁天皇は、道に迷わず来ていれば先皇(崇神天皇)に仕えていたはずだから、国名を改め御間城(崇神)天皇の名を負った国名にするようにと言った。その国の名を〔ミマナ国〕というのはこれによる。」

(神功皇后摂政)
  前紀〔320〕10月、皇后は和珥の津から新羅征伐に向った。新羅王は恐れてすぐに降服し年毎の朝貢を誓い、それを知った高麗・百済も西蕃として朝貢することを誓った。そこで内官家・屯倉に定めた。これが三韓である。
 46年〔366〕3月、斯麻宿禰を卓淳国に派遣した。このとき斯麻宿禰は、百済人久氐・彌州流・莫古の三人が貴国に行こうとしたが、道がわからず卓淳国に来て帰ってしまったことを聞き、使者を百済に遣った。
 翌年47年〔367〕4月、百済が朝貢した。皇太后と太子誉田別尊が大いに歓喜して、先王が望んでいた国人が来朝した・・・と言った。このとき新羅が百済の貢物を横取りした。そこで、千熊長彦を新羅に遣り、百済の献物をみだしたことを責めた。
 49年〔369〕3月、荒田別・鹿我別を将軍として卓淳に遣り、百済とともに新羅を討ち、比自[火本]・南加羅・[口彔国・安羅・多羅・卓淳・加羅の七国を平定した(※七国は新羅領だったことになる)。西に廻り、古奚津に至り、南蛮の忱彌多礼を屠り、百済に賜った。百済肖古王と王子貴須も来会した。時比利・辟中・布彌支・半古の四邑も自然と降服した。百済王父子及び荒田別・木羅斤資らは意流村で会った。

  50年〔370〕5月、百済に多沙城を与え往還の路の駅とした。
  52年〔372〕9月、百済の久氐らが千熊長彦に従ってやってきて、七枝刀一口・七子鏡一面及び種々宝を献上した。
  62年〔382〕新羅が朝貢しなかったので、襲津彦を派遣し新羅を討った。(※注の『百済記』には、沙至比跪が新羅を討たず加羅を滅ぼしたので木羅斤資を派遣し加羅を回復させた、とある。)

(応神天皇)
 7年〔396〕9月、高麗人、百済人、任那人、新羅人がそろって来朝した。このとき武内宿禰に命じて韓人に池(韓人池)をつくらせた。
  8年〔397〕3月、百済人が来朝した。(※注の『百済記』には「阿花王が立ったが貴国に無礼だったので、貴国は枕弥多礼、峴南、支侵、谷那、東韓の地を奪った。百済は王子直支を天朝に遣り先王の好を修めた」とある。)
  14年〔403〕2月、百済王が縫衣工女を献じた。この年、弓月君が百済より帰化したが、新羅人に拒まれ加羅国に留まっていた。襲津彦を派遣したが3年たっても帰ってこなかった。
 15年〔404〕8月、百済王が阿直伎を派遣し、良馬二匹を貢上した。
 16年〔405〕この年、百済阿花王が亡くなった。天皇は直支王に国に帰り王位を継ぐようにいい、東韓の地を賜った。8月、平群木菟宿禰と的戸田宿禰を加羅に派遣し新羅を討った。弓月の人夫と襲津彦を連れて帰ってきた。
 25年(31)〔414(420)〕直支王が亡くなり、久爾辛が立ち王となった。王が幼かったので木満致が国政を執ったが、無礼な行いが多かったので召還した。(※注の『百済記』には、木満致は木羅斤資が新羅を討ったときその国の婦をめとり生まれた子であり、任那にいて百済に入り貴国と往き来し、天朝の命をうけ百済の国政を執った、とある。)
 28年〔423〕9月、高麗王が遣使し朝貢した。上表文が無礼だったので菟道稚郎子は表を破った。
  31(25)年〔426(420)〕8月、新羅の調使が武庫の水門で失火し船を焼いてしまった。新羅王は匠者を貢上した。
  39年〔428〕2月、百済直支王が妹の新斉都媛を天皇に仕えさせた。媛は七人の婦女とともに帰化した。

(仁徳天皇)
  11年この年、新羅人が朝貢した。
 12年7月、高麗国が鉄の盾と鉄の的を貢上した。
 17年9月、新羅が朝貢しなかったので、的臣の祖の砥田宿禰と小泊瀨造の祖の賢遺臣を派遣してその理由を訊くと、新羅人はすぐに貢献した。
  53年5月、新羅が朝貢しなかったので、上毛野君の祖の竹葉瀨を派遣してその理由を訊いた。重ねて竹葉瀨の弟の田道を派遣し、新羅軍を潰した。
  58年10月、呉国と高麗国がともに朝貢した。

(允恭天皇)
  3年正月、新羅に遣使して良医を求めた。
 42年正月、新羅王は天皇が亡くなったと聞き、調船80艘・楽人80人を貢上した。対馬に泊まって哭き、筑紫に着いて哭き、難波の港に泊まり素服を着けた。難波から京に至るまで哭き、あるいは舞い歌い、ついに殯の宮に参会した。

(雄略天皇)
 2年〔458〕7月、百済の池津媛は天皇にそむき石川楯と密通した。天皇は怒り夫婦を焼き殺した。(※注の『百済新撰』には「己巳年〔429〕に蓋鹵王(455~475年)が立った。天皇は阿礼奴跪を派遣し女郎を求めた。百済は慕尼夫人女・適稽女郎を天皇に貢進した」とある。)
  5年〔461〕4月、百済加須利君は適稽女郎が殺されたので、女ではなく弟の軍君を日本へ送ることにした。軍君は孕んでいる加須利君の婦を妻に求め許された。6月、孕んだ婦が筑紫の各羅嶋で児を産んだので嶋君といった。すぐに船で百済に送らせた。これが武寧王である。7月、軍君が入京した。(※注の『百済新撰』には「辛丑年〔461〕に蓋鹵王は弟の昆支君を派遣し、大倭に向い、天王に侍し、先王の好を修めた」とある。)
  7年〔463〕この年、天皇は吉備上道臣田狭の妻を手に入れるため田狭を任那国司にした。田狭は新羅に助けを求めた。このとき新羅が朝貢しなかった。天皇は田狭の子弟君を百済に派遣し、新羅を討とうとするが、弟君は新羅への道が遠いのを思い、新羅を伐たずに帰国した。田狭はそれを喜び、百済に人を派遣し、弟君に百済に依拠して日本に通じないように、自身は任那に依拠して日本に通じない、といった。
  8年〔464〕2月、新羅は天皇に背き、高麗と好を修めていたが、ようやく新羅王は高麗の偽りを知り、任那王に日本府の救援を頼んだ。任那王は膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子に勧めて新羅を救いに往かせた。膳臣らは高麗軍を大破した。高麗と新羅の怨みはこの時始まった。膳臣らは新羅に対し、以後決して天朝に背いてはならないと戒めた。
  9年〔465〕3月、天皇は紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰らに、新羅は歴代臣を称し朝貢してきたが、対馬の外に身をおき、匝羅の向こうに形跡をかくし、高麗の質を阻み、百済の城を併呑し、貢賦も納めない、新羅に天罰をおこなうようにと命じた。紀小弓宿禰らはすぐ新羅に入った。大伴談連らは戦死し、紀小弓宿禰は病死した。5月、紀小弓宿禰の子、紀大磐宿禰は新羅に行き威命をふるった。
 20年〔476〕冬、高麗王が大軍をもって百済を討ち滅ぼした。高麗王は、百済国は日本国の官家として久しく仕えているので逐除はできない、といった。(※注の『百済記』には、蓋鹵王乙卯年〔475〕冬、狛の大軍が来襲し王城は陥落し、国王・太后・王子らは皆敵の手におちて死んだ、とある。)
 21年〔477〕3月、天皇は百済が高麗に破られたと聞き、久麻那利を汶洲王に賜り、国を救い復興した。(※注の『日本旧記』には「久麻那利を末多王に賜った。しかしこれは誤りであろう。久麻那利は任那国の下哆呼唎県の別邑である」とある。)
  23年〔479〕4月、百済文斤王が亡くなった。天王は末多王を百済国の王とした。筑紫国の兵士500人を派遣し、国に護送した。これが東城王となった。この年、百済の調賦はいつもより多かった。筑紫の安致臣・馬飼臣らが水軍を率いて高麗を撃った。

(清寧天皇)
 3年〔482〕11月、海外の諸蕃が遣使進調した。

(顕宗天皇)
  3年〔486〕2月、阿閉臣事代は命をうけ、使いとして任那に行った。この年、紀生磐宿禰が任那を占有し高麗に通い三韓の王となろうとし神聖を自称した。任那の左魯・那奇他甲背らの計を用いて百済の適莫爾解を爾林で殺した。百済王は怒り、帯山に出向き攻めた。紀生磐はことのならないのを知り任那から帰った。百済国は任那の左魯・那奇他甲背ら三百余人を殺した。

(仁賢天皇)
 6年〔492〕この年、日鷹吉士が高麗からもどり、工匠須流枳・奴流枳らを献上した。

(武烈天皇)
 6年〔503〕10月、百済が麻那君を派遣して進調した。
 7年〔504〕4月、百済王が斯我君を派遣して進調した。

(継体天皇)
 3年〔509〕2月、百済に遣使した。
 6年〔512〕4月、穗積臣押山を百済に派遣し、筑紫の国の馬40匹を賜った。12月、百済が遣使貢調し、任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県を請うた。哆唎国守穗積臣押山は四県の下賜を進言し、大伴大連金村もこれを了承し、物部大連麁鹿火を宣勅使とし、百済に任那四県を賜った。
  7年〔513〕6月、百済が姐彌文貴将軍・洲利即爾将軍を派遣し、穗積臣押山に副えて五経博士段楊爾を貢上し、伴跛国に奪われた百済の己汶の地の奪還を要請した。11月、己汶・帯沙を百済国に賜った。この月、伴跛国が戢支を派遣し、珍宝を献上し己汶の地を乞うたが、承知しなかった。
  8年〔514〕3月、伴跛が城を小呑・帯沙に築き満奚に連ね、のろし台、兵糧庫を置き、日本に備えた。新羅を攻め村邑を略奪した。
  9年〔515〕2月、百済の使者文貴将軍に物部連を副えて送った。この月、沙都島に着くと伴跛人が残虐をほしいままにしているというので、物部連は水軍五百を率いて帯沙江に向った。4月、物部連は帯沙江に泊まること6日、伴跛が軍をおこして攻めてきた。物部連らは恐れおののき、命からがら逃げ汶慕羅に泊まった。
  10年〔516〕5月、百済が前部木刕不麻甲背を派遣し、物部連らを己汶に迎え労をねぎらい、国に導いて入った。9月、百済が物部連に副えて州利即次将軍を派遣し、己汶の地を賜ったことに感謝の意を表した。14日、百済が高麗使安定らに副えて灼莫古将軍と日本斯那奴阿比多を派遣し、来朝して好を結んだ。
  21年〔527〕6月、近江毛野臣は兵6万を率いて、新羅に破られた南加羅と[口彔]己呑を復興し任那に合わせようとした。このとき筑紫国造磐井が火豐二国を拠りどころとし、高麗・百済・新羅・任那の年貢職船を誘致し、また毛野臣軍を遮った。8月、物部麁鹿火大連を磐井征討の将に任じた。
  22年〔528〕11月、物部大連麁鹿火は筑紫御井郡で磐井と交戦し、磐井を斬り、境界を定めた。12月、筑紫君葛子は殺されるのを恐れて、糟屋屯倉を献上して死罪を免れるよう乞うた。
  23年〔529〕3月、百済王が下哆唎国守穗積押山臣に、加羅の多沙津を百済朝貢の経由港に請うた。物部伊勢連父根・吉士老を派遣して、多沙津を百済に賜った。加羅王は、この港は官家を置いて以来、朝貢するときの渡航の港であるのになぜ隣国に賜うのか、と日本を怨み新羅と結んだ。加羅王は新羅王女を娶るがその後新羅と仲違いし、新羅は拔刀伽・古跛・布那牟羅の三城、北境の五城を取った。この月、近江毛野臣を安羅に派遣し、新羅に対し南加羅・[口彔]己呑を建てるようにいった。百済は将軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵らを、新羅は夫智奈麻禮・奚奈麻禮らを安羅に派遣した。4月、任那王の己能末多干岐が来朝し、新羅がしばしば国境を越えて来侵するので救助して欲しいと請うた。この月、任那にいる毛野臣に、任那と新羅を和解させるよう命じた。毛野臣は熊川にいて新羅(王佐利遲)と百済の国王を呼んだ。しかし二国とも王自ら来なかったので毛野臣は怒った。新羅は上臣伊叱夫禮智干岐を派遣し三千の兵を率いて、勅を聴こうとしたが、毛野臣はこの兵力をみて任那の己叱己利城に入った。新羅の上臣は三月待ったが毛野臣が勅を宣しないので、四村(※金官・背伐・安多・委陀、一本では、多々羅・須那羅・和多・費智)を略奪し本国へひきあげた。多々羅など四村が掠奪されたのは毛野臣の過である、と噂された。
  24年〔530〕9月、任那使が、毛野臣は久斯牟羅に舍宅をつくり2年、悪政を行なっていると訴えた。天皇はこれを聞き呼び戻したが、毛野臣は承知せず勝手な行動をしていたので、任那の阿利斯等は久禮斯己母を新羅に、奴須久利を百済に派遣して兵を請うた。毛野臣は百済兵を背評で迎え撃った。二国(百済と新羅)は一月滞留し城を築いて還った。引き上げるとき、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳の五城を落とした。10月、調吉士が任那から来て、毛野臣が加羅に争乱を起こしたことなどを上申した。そこで目頬子を派遣して毛野臣を呼び戻した。この年、毛野臣は対馬に着いたが病気になり死んだ。送葬に川をたどって近江に入った。目頬子がはじめて任那に着いたとき、郷家らが歌を贈った。「韓国に いかに言ことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐の渡りを 目頬子来る」
  『百済本記』によれば、25年〔531〕3月、軍は安羅に至り乞乇城をつくった。この月、高麗がその王・安を殺した。また、日本の天皇及び太子・皇子がともに亡くなったという。

(安閑天皇)
 元年〔534〕5月、百済が下部脩徳嫡徳孫・上部都徳己州己婁らを派遣し、いつもの調を貢上した。

(宣化天皇)
 2年〔537〕10月、新羅が任那に侵入して荒らしたので、大伴金村大連に命じて、磐と狭手彦を派遣し任那を助けた。磐は筑紫に留まり三韓に備え、狭手彦は任那を鎮め、加えて百済を救った。

(欽明天皇)
  元年〔540〕8月、高麗・百済・新羅・任那が遣使貢献した。
 2年〔541〕4月、安羅・加羅・卒麻・散半奚・多羅・斯二岐・子他・任那日本府の官が百済に行き、詔書を聴いた。百済聖明王は任那旱岐らに、天皇の願いは任那復興であること、また、今新羅にだまされたのは自分の過ちであり、それを悔いて下部中佐平麻鹵・城方甲背昧奴らを加羅に派遣し、任那日本府と会い任那を建てることを誓いあったこと、[口彔]己呑や南加羅が取られたのは新羅が強かったからではなく、皆で力を合わせれば必ず任那は復興できることを説いた。7月、百済は安羅日本府と新羅が通じていると聞き、前部奈率鼻利莫古・奈率宣文・中部奈率木刕眯淳・紀臣奈率彌麻沙らを安羅に派遣し、安羅日本府の河内直が新羅と通じていたことを責めた。そして任那(安羅を代表とする諸国)に、百済と任那の昔からの関係、新羅への警戒などについて語り、百済にしたがい天皇の勅を聴き、任那を立てるようにいった。聖明王はさらに任那日本府に、(日本府の)卿らが新羅の言葉を真に受けて任那を滅ぼし、天皇を辱めるのを恐れるといった。百済が紀臣奈率彌麻沙・中部奈率己連を派遣し、下韓・任那の情勢を報告した。
  4年〔543〕9月、百済聖明王が前部奈率眞牟貴文・護徳己州己婁と物部施徳麻奇牟らを派遣して、扶南の財物と奴二口を献上した。11月、津守連を百済に派遣し、任那の下韓にある百済の郡令城主を日本府に附けるように、また、任那を早く建てるようにいった。12月、聖明王はこの詔勅についていかにしたらよいか群臣に聴いた。上佐平沙宅己婁・中佐平木刕麻那・下佐平木尹貴・徳率鼻利莫古・徳率東城道天・徳率木刕眯淳・徳率国雖多・奈率燕比善那らは協議して、任那の執事、国々の旱岐らを呼んで協議するのが善策であり、河内直・移那斯・麻都らが安羅に住んでいたのでは任那を建てるのは難しい、と答えた。この月、百済は任那と日本府の執事を呼んだが、ともに元旦が過ぎてから行くと答えた。
  5年〔544〕正月、百済はまた任那と日本府の執事を呼んだが、ともに祭が終わってから行くと答えた。百済はさらに遣使し、任那と日本府の執事を呼んだが、ともに身分の低いものが来たので、任那を建てる協議ができなかった。2月、百済は施徳馬武・施徳高分屋・施徳斯那奴次酒らを任那に派遣し、日本府と任那の旱岐らに、日本府・任那の執事を三回召集したが来なかったので、任那の政を図り天皇に申し上げることができなかった、日本府の卿と任那の旱岐らは百済へ来て天皇の宣勅を聴くように、といった。また別に、河内直・移那斯・麻都と河内直の先祖である那干陀甲背・加獵直岐甲背の悪行を責めた。これに対して日本府は、日本の臣と任那の執事は新羅に行って勅を聴くようにといわれており、百済に行かなかったのは任那の意向ではない、といった。3月、百済は奈率阿乇得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非らを派遣し、阿賢移那斯・佐魯麻都が安羅にいると任那を建てるのは難しいこと、的臣らが天朝を欺いたこと、佐魯麻都は新羅の奈麻礼の冠をつけていること、[口彔]国と卓淳国が滅んだのは内応や二心が原因であることなどを上申した。10月、百済使者奈率得文・奈率奇麻らが帰った。11月、百済が日本府の臣、任那の執事を呼んで、百済に来て勅を聞くようにいった。日本(府)の吉備臣、安羅の下旱岐大不孫・久取柔利、加羅の上首位古殿奚、卒麻の君、斯二岐の君、散半奚の君の子、多羅の二首位訖乾智、子他の旱岐、久嗟の旱岐が百済に行った。百済王聖明は詔書を示して、どのようにしたら任那を建てることができるか、と訊いた。吉備臣、任那の旱岐らは、任那を建てるのは大王にかかっている、大王に従いたい、といった。聖明王は、①新羅と安羅の境に大川があるので、その地に拠って六城を修復し、天皇に三千の兵士を請う。②南韓は北敵の防衛と新羅を攻めるのに必要であり、郡令城主は引続き置く。③吉備臣、河内直、移那斯、麻都が任那にいたのでは任那を建てることはできないので、本邑に還るよう天皇にお願いする、という三つの策を示した。
  6年〔545〕3月、膳臣巴提便を百済に派遣した。5月、百済が奈率其[忄夌・奈率用奇多・施徳次酒らを派遣して上表した。9月、百済が中部護徳菩薩らを任那に派遣した。この月、天皇の善徳と官家の国の福を願い、百済が丈六の仏像を造った。この年、高麗に大乱があり、多数のものが殺された。(※注の『百済本記』には、「高麗の細群と麁群が戦い、細群が敗れた。狛国王香岡上王が亡くなった」とある。『三国史記』「高句麗本紀」によれば、このときの高句麗王は安原王である。)
  7年〔546〕6月、百済が中部奈率掠葉礼らを派遣し、調を献上した。この年、高麗に大乱があり、二千余人が戦死した。
  8年〔547〕4月、百済が前部徳率真慕宣文・奈率奇麻らを派遣し、救軍を乞うた。
  9年〔548〕正月、百済使者前部徳率真慕宣文らの帰国に際し、救軍は必ず送るからすみやかに王に報告するようにといった。4月、百済が中部杆率掠葉礼を派遣し、馬津城の役で、安羅と日本府が高麗と通じ百済を伐とうとしたことがわかったので、しばらくの間救兵を停止してもらいたいといってきた。6月、百済に遣使して、任那とともに対策を練り防ぐように、といった。10月、370人を百済に派遣し、得爾辛に城を築くのを助けた。
  10年〔549〕6月、将徳久貴・固徳馬次文らが帰国するとき、移那斯と麻都が高麗に遣使したことの虚実を調査し、救兵は停止する、といった。
  11年〔550〕2月、百済に遣使し、北敵は強暴だと聞く、矢30具を与える、といった。4月、百済にいた日本王人が帰国しようとしたとき、百済王聖明は、任那のことは勅を固く守る、移那斯と麻都のことは勅に従うだけだといい、高麗奴六口、別に王人に奴一口を贈った。
  12年〔551〕3月、麦の種一千斛を百済王に賜った。この年、百済聖明王は二国の兵(新羅・任那)を率い高麗を征伐し漢城を獲った。平壤を討ち旧領を回復した。
  13年〔552〕5月、百済・加羅・安羅が中部徳率木刕今敦・河内部阿斯比多らを派遣し、高麗と新羅が百済と任那を滅ぼそうと計画しているので、兵を出し不意を攻めるよう求めた。10月、百済聖明王が西部姫氏達率怒唎斯致契らを派遣して、釈迦仏金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干巻を献上した。この年百済が漢城と平壤を棄て、新羅が漢城に入った。今の新羅の牛頭方・尼彌方である。
  14年〔553〕正月、百済は上部徳率科野次酒・杆率礼塞敦らを派遣し、軍兵を乞うた。6月、内臣を百済に遣使し、良馬二匹・同船二隻・弓50張・箭50具を与えた。また医博士・易博士・暦博士を交替させ、卜書・暦本・種々の薬物を送付するようにいった。8月、百済が上部奈率科野新羅・下部固徳汶休帯山らを派遣し、援軍の派遣(新羅と狛国が安羅を奪取し道を遮断しようとしている)、亡くなった的臣の代わりの派遣、そして弓馬を乞うた。10月、百済王子余昌が高麗と合戦した。
  15年〔554〕正月、百済が中部木刕施徳文次・前部施徳曰佐分屋らを筑紫に派遣して、内臣・佐伯連らに、この年の役は前よりも危ういので正月に間に合わせてほしい、といった。内臣は、すぐに援助軍一千、馬百匹、船四十隻を派遣する、といった。2月、百済が下部杆率将軍三貴・上部奈率物部烏らを派遣して救兵を乞うた。百済は、奈率東城子言に代えて徳率東城子莫古を送り、五経博士・僧を交替し、別に易博士・暦博士・医博士・採薬師・楽人を送った。5月、内臣が水軍を率いて百済に到着した。12月、百済が下部杆率汶斯干奴を派遣し、有至臣の軍に加え(狛と新羅が協力しているので有至臣軍だけでは足りない)竹斯島の兵士の派遣を要請し、百済は任那を助けにいく、事は急である、といった。
  余昌は新羅を討つことを謀った。老臣が止めるのも聞かず、新羅に入り久陀牟羅の塞を築いた。父明王は憂慮し自ら出かけていった。新羅は明王みずから来たと聞き、国中の兵を発して道を断ち撃破した。明王は新羅の奴・苦都の手で殺された。余昌は敵に囲まれたが、弓の名手・筑紫国造の働きによって逃げることができた。
  16年〔555〕2月、百済王子余昌が王子恵を派遣し、聖明王が賊のために殺されたことを報告した。
  17年〔556〕正月、百済世子恵が帰国するとき、大量の兵器・良馬を与え、阿倍臣・佐伯連・播磨直を派遣して、筑紫国の水軍を率い、護衛して国に送った。別に筑紫火君を派遣して、勇士一千を率いて、彌弖まで護送した。港の路の要害の地を守らせた。
  21年〔560〕9月、新羅が彌至己知奈麻を派遣して調賦を献上した。
  22年〔561〕、新羅が久礼叱及伐干を派遣して調賦を献上したが、もてなす儀礼が減っていたので、及伐干は怒り恨んで帰った。この年また、新羅が奴氐大舎を派遣して、前と同じ調賦を献上した。序列が百済の下だったので大舎は怒って還った。新羅は城を阿羅の波斯山に築き、日本に備えた。
  23年〔562〕正月、新羅が任那の官家を攻め滅ぼした。(※注の一本には、21年に任那は滅んだとある。また総体を任那といい、個々の国は加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞飡国・稔礼国、合わせて十国だとある。)7月、新羅が遣使して調賦を献上した。使者は新羅が任那を滅ぼしたのを知っていたので帰国を請わなかった。この月、大将軍紀男麻呂宿禰は兵を率いて哆唎を出て、副将河辺臣瓊岳は任那に行った。紀男麻呂は新羅を破り百済に入った。河辺臣瓊岳は戦事に通暁せず、新羅に撃破された。8月、大将軍大伴連狭手彦を派遣し、兵数万をもって高麗を伐った。狹手彦は百済の計をもって高麗を打ち破った。11月、新羅が遣使して調賦を貢上した。使者は新羅が任那を滅ぼしたのを知っていたので帰国を請わなかった。
  31年〔570〕4月、高麗の使者が風浪に苦しみ、越の海岸に漂着した。天皇は、山背国相楽郡に館を建て清め、厚くたすけ養うようにといった。
  32年〔571〕3月、坂田耳子郎君を新羅に派遣して、任那の滅んだ理由を訊いた。4月、天皇は皇太子に、新羅を撃って任那を建てるようにといった。8月、新羅が弔使未叱子失消らを派遣した。

(敏達天皇)
  2年〔573〕5月、高麗の使者が越の海岸に泊まった。高麗が頻繁に道に迷うのを疑い、吉備海部直難波に高麗使を送り還らせた。
  3年〔574〕5月、高麗の使者が越の海岸に泊まった。11月、新羅が遣使進調した。
  4年〔575〕2月、百済が遣使進調した。新羅がまだ任那を建てないので、天皇は皇子と大臣に任那のことを怠らないようにといった。4月、吉士金子を新羅に、吉士木蓮子を任那に、吉士訳語彦を百済に派遣した。6月、新羅が遣使進調した。あわせて多々羅・須奈羅・和陀・発鬼の四つの邑の調を進上した。
  6年〔577〕5月、大別王と小黒吉士を派遣して、百済国に宰とした。11月、百済国王は大別王らに経論若干巻・律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工六人を献上した。
  8年〔579〕10月、新羅が枳叱政奈末を派遣して進調した。あわせて仏像を送った。
  9年〔580〕6月、新羅が安刀奈末・失消奈末を派遣して進調したが、納めずに帰国させた。
  11年〔582〕10月、新羅が安刀奈末・失消奈末を派遣して進調したが、納めずに帰国させた。
  12年〔583〕7月、天皇は任那復興を謀るため、百済に紀国造押勝と吉備海部直羽嶋を派遣して日羅を呼んだ。百済国王は日羅を惜しんで承知しなかった。この年、再び吉備海部直羽島を百済に派遣し日羅を呼んだ。百済国王は天朝を畏れて敢えて勅に背かなかった。日羅らは吉備児島の屯倉に着いた。朝庭は大夫らを難波館に派遣して日羅を訪ねさせ、また館を阿斗の桑市に造って住まわせた。阿倍目臣・物部贄子連・大伴糠手子連を派遣し、国政について日羅に訊いた。日羅は、百済が筑紫を請おうといっているので、壱岐・対馬に伏兵を置き、やってくるのを待って殺すべきである、だまされてはいけない、といった。日羅は難波の館に移った。百済の大使と副使は臣下に日羅を殺させた。日羅は蘇生して、これはわが使の奴がしたことで新羅ではない、といった。
  13年〔584〕2月、難波吉士木蓮子を新羅に派遣した。ついに任那に行った。

(崇峻天皇)
  元年〔588〕、百済国が使者とともに恵総・令斤・恵らを送り、仏舎利を献上した。飛鳥の衣縫造の祖樹葉之家を壊して、はじめて法興寺(※元興寺)をつくった。
  4年〔591〕8月、天皇が群臣に、任那を建てたいと思うがどうか、といった。みな、天皇の思いと同じであるといった。11月、紀男麻呂宿禰・許勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を大将軍とし、二万余の軍をもって出向いて筑紫に軍を構え、吉士金を新羅に、吉士木蓮子を任那に送り、任那のことを問い正した。

(推古天皇)
  5年〔597〕4月、百済王が王子阿佐を使わして朝貢した。11月、吉士磐金を新羅に派遣した。
 6年〔598〕8月、新羅が孔雀一羽を貢上した。
  7年〔599〕9月、百済が駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一羽を貢上した。
  8年〔600〕2月、新羅と任那が攻めあった。天皇は任那を救おうと思った。この年、境部臣を大将軍とし、穗積臣を副将軍とし、任那のために新羅を撃ち、五つの城を攻め落とした。新羅王は多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅・阿羅々の六城を割いて降服した。新羅と任那は遣使貢調し、以後不戦と毎年の朝貢を誓った。しかし将軍らが引き上げると新羅はまた任那に侵攻した。
  9年〔601〕3月、大伴連囓を高麗に、坂本臣糠手子を百済に派遣して、急いで任那を救うようにいった。11月、新羅を攻めることをはかった。
  10年〔602〕2月、来米皇子を征新羅将軍とした。軍兵二万五千人を授けた。10月、百済の僧観勒が来て、暦本・天文地理書・遁甲方術書を貢上した。
  11年〔603〕4月、2月に筑紫で来目皇子が亡くなったので、来米皇子の兄の当麻皇子を征新羅将軍とした。
  13年〔605〕4月、高麗国大興王が、日本国天皇が仏像を造ると聞き、黄金三百両を貢上した。
  18年〔610〕3月、高麗王が僧曇徴・法定を貢上した。7月、新羅の使者沙[口彔]部奈末竹世士と任那の使者[口彔]部大舎首智買が筑紫に着いた。9月、使を遣って新羅と任那の使者を呼んだ。10月、新羅と任那の使者が京にやってきた。額田部連比羅夫を新羅客を迎える荘馬の長とし、膳臣大伴を任那客を迎える荘馬の長とし、阿斗の河辺の館に招いた。
  19年〔611〕8月、新羅は沙[口彔]部奈末北叱智を派遣し、任那は習部大舎親智周智派派遣し、ともに朝貢した。
  23年〔615〕9月、百済使が大唐使の犬上君に従って来朝した。
  24年〔616〕7月、新羅が奈末竹世士を派遣して仏像を貢上した。
  26年〔618〕8月、高麗が遣使して方物を貢上した。高麗が隋の煬帝の三十万の兵を打ち破ったときに得たものだという。
  29年〔621〕、新羅が奈末伊彌買を派遣して朝貢した。
  31年〔623〕7月、新羅が大使奈末智洗爾を派遣し、任那が達率奈末智を派遣し、そろって来朝した。仏像一組・金塔・舎利を貢上した。この年、新羅が任那を伐ち、任那は新羅についた。吉士磐金を新羅に、吉士倉下を任那に派遣し、任那の事情を訊いた。しかし使いが帰国しないうちに新羅に軍を出し伐ってしまった。11月、磐金・倉下らが新羅から帰った。大臣は新羅が調を貢上しようとしているときに攻めてしまったことを悔いた。

(舒明天皇)
 2年〔630〕3月、高麗の大使宴子拔・小使若徳と百済の大使恩率素子・小使徳率武徳がともに朝貢した。
  3年〔631〕3月、百済王義慈が王子豊章を人質として送った。
  7年〔635〕6月、百済が達率柔等を派遣し朝貢した。
  10年〔638〕、百済・新羅・任那がそろって朝貢した。
  12年〔640〕10月、唐の学問僧清安・学生高向漢人玄理が新羅を伝って帰ってきた。百済・新羅の朝貢使がこれに従ってきた。

(皇極天皇)
 元年〔642〕正月、百済への使者大仁阿曇連比羅夫が筑紫国から駅馬で来て、百済国が天皇の崩御を聞き弔使を派遣してきたこと、今、百済国は大いに乱れていることを報告した。2月、百済弔使のところに、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金・倭漢書直県を遣り、百済の消息を訊くと、正月に国主の母が亡くなり、弟王子、子の翹岐、母妹女子四人、内佐平岐味、高名な人四十人余が島に追放されたことなどを話した。高麗の使者は難波の港に泊まり、去年六月に弟王子が亡くなり、(641年)9月に大臣の伊梨柯須彌が大王を殺した、といった。高麗・百済の客を難波郡にもてなした。大臣に、津守連大海を高麗に、国勝吉士水鷄を百済に、草壁吉士眞跡を新羅に、坂本吉士長兄を任那に使わすようにいった。3月、新羅が賀登極使と弔喪使を派遣した。5月、百済国の調使の船と吉士の船が難波の港に泊まった。百済の使者が進調した。10月、新羅の弔使の船と賀登極使の船が壱岐島に泊まった。
  2年〔643〕4月、筑紫の大宰が早馬で来て、百済国主の子翹岐と弟王子が調使とともに来た、といった。6月、筑紫の大宰が早馬で来て、高麗が遣使して来朝した、といった。百済の進調船が難波の港に泊まった。

(孝徳天皇)
 大化元年〔645〕7月、高麗・百済・新羅がともに遣使進調した。百済調使は任那使を兼ね、任那の調を進上した。
 大化2年〔646〕2月、高麗・百済・任那・新羅が遣使して調賦を貢献した。9月、小徳高向博士黑麻呂を新羅に派遣して人質を出させた。ついに任那の調をやめた。
  大化3年〔647〕正月、高麗・新羅がともに遣使して調賦を貢献した。この年、新羅が上臣大阿飡金春秋らを派遣し、博士小徳高向黑麻呂・小山中中臣連押熊を送り、孔雀一隻・鸚鵡一隻を献上した。春秋を人質とした。
  大化4年〔648〕2月、三韓(高麗・百済・新羅)に学問僧を派遣した。この年、新羅が遣使して貢調した。
  大化5年〔649〕5月、小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂らを新羅に派遣した。この年、新羅王が沙[口彔]部沙飡金多遂を派遣し人質とした。従者は三十七人いた。
  白雉元年〔650〕4月、新羅が遣使して貢調した。(※注の或本には、この天皇の世に、高麗・百済・新羅の三国が毎年遣使貢献してきた、とある。)
  白雉2年〔651〕6月、百済と新羅が遣使貢調し、物を献じた。この年、新羅の貢調使知萬沙飡らが唐服を着て筑紫に泊まった。朝廷はそれを叱責し追い返した。
  白雉3年〔652〕4月、新羅と百済が遣使して貢調し、物を献じた。
  白雉4年〔653〕6月、百済と新羅が遣使して貢調し、物を献じた。
  白雉5年〔654〕10月、天皇が亡くなった。高麗・百済・新羅が遣使して弔った。


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