※「任那官家」解釈の訂正について

2014.03.17

  私は、「『日本書紀』の任那4」で、継体天皇23年〔529〕春三月条にある「於是、加羅王謂勅使云、此津、從置官家以來、爲臣朝貢津渉。安得輙改賜隣國」の「此津(多沙津)、從置官家以來」から、「加羅の多沙津には官家が置かれていた」と書いた。しかし、この部分を読み返すうちに、「此津」は「爲臣朝貢津渉」にかかっているのではないか、そうすると、「此津に官家を置いて以来」とは読めず、ここは、「加羅に官家を置いて以来」と理解するか、「任那に官家を置いて以来」と理解するかのどちらかになるのではないか、と思うようになった。そして今は、素直に「任那に官家を置いて以来」でよいのではないかと思っている。
  そこで、「『日本書紀』の任那−そのほかの朝鮮諸国」、及びその他の関連論考で「加羅の多沙津には官家が置かれていた」と記した部分を、今後速やかに削除・訂正等して行くつもりであるが、削除・訂正には多少の時間を必要とするので、まずここでその旨をお知らせすることにした。
  ただし、基本的な見方は大きく変わるものではなく、「任那官家」そのものについては次のように考えている。


 「此津、從置官家以來、爲臣朝貢津渉」の「置官家」の「置」は、神功皇后の新羅征討のときには「定内官家屯倉。是所謂之三韓也」とあるように「」となっている。また、雄略天皇20年〔476〕冬条には「百濟國者爲日本國之官家」とあり「爲」であり、継体天皇6〔512〕年12月条では、「毎國初置官家」とあり、「毎國」が付いている。「官家」とする場合に「定」「爲」「置」と、三つの表現がある。
  「定」「爲」は、その国全体が官家となったことを意味するが、「置」はその国のどこかに官家を置いたという意味にもとれる。「定」「爲」と「置」では、場合によっては官家の意味が変わってしまう。
  また、私は今、任那の「官家」に関しては広義と狭義の二つあったと考えている。任那は十国の総称とされている。「官家」は「屯倉」であり、任那の場合、十の国それぞれを「屯倉」としたのではなく、十国の中の代表国に「屯倉」を置いたのではないか。そうすると、広義では「任那全体が任那官家」であるが、狭義では「任那の代表国に置いた官家(屯倉)が任那官家」と呼ばれたという可能性はある。
  一方、任那の代表国には任那日本府が置かれていた。このことから、狭義の任那官家は任那日本府のことなのではないか、という見方は依然可能性として残る。


 欽明天皇23年〔562〕正月、新羅は任那官家を滅ぼす。「廿三年春正月、新羅打滅任那官家」である。任那は官家なのだから、「任那官家」は任那のことだとする人が多いが、562年に滅んだ任那がなぜ646年まで存続しているのか説明が必要である。
  ここで大切なのは、滅んだのは「任那官家」であり「任那」ではないということである。つまり任那の「官家」の部分が滅んだということであり、それは、任那が日本に直接貢納する国ではなくなったということを意味している。
  「新羅打滅任那官家」をこのように解釈すれば、その後も任那が存続し、新羅とともに(官家としてではなく)朝貢してくることも理解できる。

  『日本書紀』には「任那を建てよ」という言葉が多い。それは562年の「新羅打滅任那官家」以後ではなく、それ以前からである。新羅に取られた任那が任那のほんの一部であっても、それを新羅から取り戻すこと、それが「任那を建てる」という言葉の意味なのである。
  「新羅打滅任那官家」も、新羅が任那を滅ぼして、任那という名と実態が無くなった、ということではなく、任那が日本の宮家ではなくなった(日本が関係していたかどうかは別として)、というそういう状況を意味しているにすぎない。
  『日本書紀』のこういった言葉遣いには、その奥に意味があるのか無いのか、どちらにしても注意が必要なことは確かなようだ。しかしこのことに気がつくと、意外と理解しやすいのかもしれない。


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