轍  −わだち−  ◇16◇

「おかえりなさい」
明るい蛍光灯の光のもと、柔らかな微笑で彼は言った。
流しに立ち、なにやら洗い物をしている。
顔だけで振り返って、悟浄を見ている。
「随分早かったですね。ひょっとしてぼろ負けですか?」
苦笑混じりにそう聞く彼に、毒気を抜かれて悟浄が戸惑う。
何がなんだかわからない。
「八戒……?」
「なんですか?」
にこ。
笑顔はいつもの笑顔で、裏も影すらもない。
非の打ち所のない笑み。
「コーヒーでも淹れますか?」
言葉の出てこない悟浄をフォローするように、八戒が聞いた。
なんとか、こくりと頷くと悟浄はようやく家の扉を閉めた。
雨の音が少しだけ遠くなり、頭のもやも少し晴れた気がする。
「どうぞ」
こと。
マグが置かれ、八戒は再び洗い物を始める。
仕方なしに悟浄は椅子に座ると、コーヒーを一口すすった。
水の流れる音がする。
洗い物をおおよそ丁寧とは言い難いアバウトさで、けれど的確に汚れを落としていく手際の良さで片付けていく八戒は、仕事を終えると自分の分のコーヒーを淹れて椅子に座った。
特に話題のないまま、二人は対面に腰掛けながらも黙々とすするだけ。
遠くで聞こえる雨の音以外は、何も聞こえない。
相手の吐息も衣擦れの音も、嚥下する音すらも。
湯気が消え、しばらくたったとき唐突に八戒が言った。
「軽蔑、しますか?」
聞き覚えのある台詞。
思いだした過去。
あの時は否定できた言葉。
けれど。
今回は。
「……なんで?」
まだ理由も聞いていない。
何をしたかも確信していない。
何のために、何をしたのか。
まだ何も、ホントの事は何一つ聞いていない。
「美春を、あんなにしたのは、オマエ?」
声が、震えないようにするのが精一杯だったのに、彼は何でもないことのように頷く。
「なんで?」
責める響きは微塵もなかった。
ただ、純粋な問い。
ただの疑問。
理由もなく、あんな事をする奴じゃないことくらい、自分がよく知っている。
けれど、長い沈黙。
八戒は、悟浄から目を逸らさぬまま沈黙する。
言いたくない?
胸が少し痛んだ。
そこまで信頼されていない?
オレの望みすぎなのか?
僅かに、悟浄の顔が歪んだ。
それは笑みの形をしていたけれど、その中の感情に八戒は気付いた。
「貴方が、好きだから」
ぽろっと、本音がこぼれた。
言おうかやめようか迷っていた言葉。
こぼれたとたん、覚悟が決まった。
「悟浄が、好きなんです」
ふわりと、笑う。
悟浄が、つかれたように目を見開いた。
もう、八戒は逃げなかった。
言葉を失い、ただ呆然とする悟浄に、八戒はもう一度問うた。
「軽蔑しますか?」
貴方を好きな僕を。
彼女にひどいことをした僕を。
そして全てから逃げ出した僕を。
「しねぇよ」
吐き捨てるように悟浄が言った。
今度は、八戒が目を見開く。
「軽蔑なんて、しねぇよ。肯定はしてやれねぇけど、否定もできねぇ」
悟浄が、迷いを捨てた真剣さで八戒を見た。
いつもつきまとっていた、どこか計算しているような避けているような態度を捨てた、真摯な、本音で。
「オレも、八戒を好きだぜ。けど、多分オマエが言ってるのとは違うだろ」
まさか、そんなことを言ってもらえるとは思わず、八戒が愕然とする。
自分は一体今まで彼の何を見ていたのだろう。
彼のことを解ったつもりになって、思い上がって、一人で何でも決めて逃げていたのは自分自身だ。
悟浄が、八戒を見た。
「それじゃ、ダメか?」
今まで通り、これまで通りじゃダメなのか?
その瞳の寂しさを見て、否定できる人間などいるのだろうか。
ひどく傷つけた。
彼も甘えていると思う。
けれど、それ以上に甘えていたのは自分だ。
悟浄は、誠意を持って八戒と向き合い答えを出した。
次は八戒の番だ。
貴方の望むようになんてきれい事は言わない。
それは全て自分の望みだから。
僕は、貴方を好きになった自分自身を誇りたい。
だから。
「忘れます」
貴方を好きだったことを。
八戒がふわりと笑った。
悲しい、けれど決意を秘めた微笑み。
悟浄が、問うより早く彼の言葉が続く。
「過去を糧にして、強くなります」
何にも負けないように、全てに自分自身を誇れるように。
強くなる。
「また、ここに置いてもらってもいいですか?」
八戒が、問う。
にやりと悟浄が笑った。


貴方を好きだったことは忘れない。
自分のしたことも、貴方がしてくれたことも決して忘れない。
だから強くなる。
自分のしたことをみつめられる強さを。
そして、いつか笑って貴方の傍にいる自分を。
貴方を好きになったことを傷になんてしない。
これからも、迷うこともあるだろう。
自分を見失うことも、人を傷つけることもあるだろう。
けれど、そのすべてが自分自身。
自分が望むことだから。
僕はこの道を進む。
轍なんてどこにも無いけれど……。



END

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花吹雪 二次創作 最遊記