4.ヒワ(イチャン・カラ)・ウルゲンチ
とりあえず、まずはヒワの歴史から。(学校の世界史のノート風に(笑)) 1−1 ヒワ(Хивa)汗国の歴史 ヒワ汗国 1512〜1920年 ホラズム地方(中央アジア・アム川下流域)を支配 チンギス汗・ティムールの破壊から、ホラズム地方を復興させた。 1512年−シャイバニ家(チンギス汗の末裔であり、モンゴル継承国の一つ)の流れを汲むイルバハスが、ウズベク族を率いてに建国。首都・ウルゲンチ。 16世紀初頭−中南部の灌漑網を発達させたため、アム側の水位が減り、北部が砂漠化したため、南部のヒワに遷都→ヒワ汗国という国名に 17世紀−ブハラ汗国やカザフ汗国と抗争 ●この時期の代表的な君主● アブル・ガージー・バハドゥル汗(第13代君主・在位1643〜1663) 内治(北部ウルゲンチの住民を南部、新ウルゲンチに移住。)・外征に成果。歴史家としても著名 18世紀−ロシアと争う 19世紀−ロシアの南下政策により圧迫 1873年−ロシアのカウフマン将軍によって攻略 →ロシアの属国に 1920年−王政廃止 →ホラズム共和国に 1924年−ソビエト連邦のウズベク共和国に編入 1991年−ソビエト連邦から独立したウズベキスタン共和国の州に。 1ー2 ヒワ汗国以前のホラズム地方 前6世紀−ヘロドトスの『歴史』に、ダレイオス1世(アケメネス朝ペルシア)の16番目の州として、世界史的に初めて登場している。(但し、前5〜4世紀にはコラスミオイとして独立した物と見られる) 前328年−コラスミオイ、アレクサンドロス大王と同盟 1〜4世紀−アフリグ王朝時代→その後アラブ侵入まで独立を維持。灌漑施設の整備。 712年−ウマイヤ朝によって征服→灌漑施設の破壊→ホラズム地方の荒廃 10世紀−ウルゲンチ、交易によって栄え、独立。 11世紀−カズニ朝、セルジューク朝による支配 11世紀後半−ファーリズム=シャー朝(ホラズム帝国)の元に独立。この時期、ホラズム地方はアラブ世界の中心地に。 1219年−チンギス汗の襲来→キプチャク汗国・チャガタイ汗国による分割統治 1392年〜ティムールによる支配 16世紀初頭−ウズベク族の南下=ヒワ汗国の支配 |
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4−1:イチャン・カラ概要 (イチャン・カラ内部ののマップはここをクリック!) ウルゲンチの町からバスに乗って5分もするとイチャン・カラに着いた。イチャン・カラというのは「内城」という意味で、ヒワの町外れにある、城壁に囲まれた遺跡を指す。16世紀にウズベク人によって建設され、17世紀にはヒワ汗国の首都となった。「歴史博物館」とも「中央アジアの真珠」とも呼ばれている。 ちなみに、城壁の外部は「シジャン・カラ(外城)」という。昔はシジャン・カラも城壁に囲まれたので、「二重の城壁で囲まれた」と本などでは紹介されているが、シジャン・カラの城壁は現在ほとんど残っていない。 ここはウズベキスタン中たった2カ所だけ世界遺産に認定されている場所の1つで(もう一つはブハラ歴史地区。驚いたことにサマルカンドはまだ認定されていない)、「消滅した文明や文化的伝統の証拠を示すもの」「ある様式の建築物、あるいは景観の優れた見本となるもの」「単一・あるいは複数の文化を代表する伝統的な集落・土地を示すもの」という理由から世界遺産に認定されたのは1990年のことだ。ブハラより3年早い。分類は「城・城塞」。 高さ8m、長さ2.2qに及ぶ城壁の内部では、モスク(イスラム寺院)、メドレセ(イスラム教の宗教学校)、王宮、城塞を、いくつもいくつも、これでもかこれでもかと言う程見ることができる。ああもうお腹いっぱい!的な、旅の最初からかなり満足度の高い遺跡だ。 4−2:ワロダ・アタ・ダルワザ(マップはここ!) ![]() バスがイチャン・カラの西門、ワロタ・アタ・ダルワザ前の広場に到着。イチャン・カラの改修工事風景を眺めつつ中へ。 入ってすぐに地図があり、そこでざっと説明を受けてから見学を。 この西門は、ロシアに征服されていた頃、車が通れないという理由で壊されていたらしい! 恐ろしい! |