3月27日(火) その3
孔子廟にGO。
(含・台湾の歴史)

寶覺禅寺を後にして、また懲りずに地図を見ながらどんどん歩き出します。途中道が分かりづらくて道路の標識を探していたら、ダンナがさっとiPhoneを出して、「こっちだよ」と教えてくれます。ここで初めてiPhoneをナビとして使ったのですが、こんなに便利だとは思いませんでした……。私はいつも地図を見ながら迷い、現地の方に道を訊きながら旅をしていますので……(´ω`;) まぁ、それが楽しいとも言えるのですが、疲れてるときにはナビは本当に便利ですねぇ。
ということで、こちらが次の目的地、孔子廟です。高雄の孔子廟でもそうでしたが、何故孔子廟には人がいないのか……。他の廟のようにお香が焚いてあるわけでも、お供えを置く台があるわけでもなく……。孔子廟って、他の廟とは違う物なの……?
こちらが本堂の中。台中の孔子廟も、高雄の孔子廟と同じく、中にあるのは像ではなくてお位牌でした。

真ん中はもちろん孔子のお位牌ですが、左右の壁際に並んでいるお位牌は、孔子の家族や高弟(偉いお弟子さん)の物だそうです。
最初「廟に入らずに庭で遊んでいる」と言っていた息子ですが、階段の脇がスロープになっていることが分かると、大喜びで滑り降りたりよじ登ったりしておりました。

日本でも、階段脇にスロープがあると、いつも滑り台代わりに遊び出すんだよね……。

ここで、大阪の大学生の方と出会い「台中でまだ日本人に会ってない」「なんで孔子廟には俺達しかいないんだ」という話をしました(苦笑)
その後、孔子廟の隣にも同じように黄色い瓦の建物が見えて、地図によると烈忠祠があるようなので、探してみようと娘と二人で孔子廟を出たところ。

これは孔子廟の山門です。このすぐ隣が烈忠祠のようでした。
烈士廟に行くと、先ほどの大学生が先にいて、「ここ、中は入れません」と。確かに門も閉まっていて、遠くの方に建物が見えるだけです。一応脇に烈忠祠の参拝上のお願いが書いてあり、地図などもあるのですが、中には誰も……ん?

「誰かいるよ!」「本当だ!誰か参観してる!!」「どっかから行かれるんだよ!」「よし!反対側かもしれないから、探しに行こう!!」

娘と二人で盛り上がっていると、大学生は「え〜?反対側まで行くんですか〜?」とちょっと呆れていましたが……。いやいや、だってせっかくここまで来たんだし……。

娘に「疲れない?」と訊くと、「目的地があるときは疲れないよ!」と、力強い返事が!さすがママの娘だ!!

まず、孔子廟の庭に、烈忠祠に抜ける門があったので、そこが開くかどうか試してみたが開かず。次に孔子廟の方に「烈忠祠にはどうやったら行かれますか?」と聞いたら「今日はやっていない」という返事が。でも端っこの方まで来てみると、孔子廟と烈忠祠の間の塀が開いてるよ?ってことは、あそこに行かれれば烈忠祠に入れるんじゃない?と画策してみたのですが、そのエリアに行かれそうな脇道は途中で塀で区切られていて、中には入れず。

「そういえば、さっき門の所に置いてあった参観指南には、「遺族の方のご参拝は、前もって連絡下さい」って書いてあったね……。きっと、さっき参拝してた人は遺族だったんだよ……」と、諦めることにしました。ふぅ。

……後で調べてみたら、烈忠祠は日曜日しか参拝できないんですって。じゃああの時参拝してる人は何だったんだろう……。やっぱり遺族の方だったのかなぁ……。

烈忠祠に行くのを諦めて、その後孔子廟のお庭を改めてゆっくり見学しました。

こちらは「燎亭」。孔子の誕生日のお祭りに燎帛と祝文を燃やす台だそうです。
こちらは「座所」。孔子の誕生日に髪の毛と血を埋めたところだそうです。
そしてこちらは孔子廟の門の前の道の両端に建っている「牌坊」

この3つがあるのは、台湾の孔子廟ではここだけですと、毎回毎回説明文に書いてあります。

実は台中の孔子廟は、台湾の伝統的建築様式(福建式)ではなく、国民党独裁時代に国民党の人達が大陸(=現・中華人民共和国のこと)の宋代の建築様式で作った為、台湾地元っ子にはあまり人気がないそうです。

でも、その分台中の孔子廟は、台湾で1番大きくて1番立派です。



ここで台湾の歴史をちょろっと。

台湾の最初の記述は三国志(正史)に既に見られますので、A.D.200年代にはもう中華圏内に組み込まれているようです。

1644年に明が順に敗れて王朝が交代すると、明の皇族・遺臣達が明王朝の復活を目指して活動を興します。しかしすぐに順が清に滅ぼされ、清王朝が成立すると、明の遺臣達の反乱は直ちに制圧されてしまいます。その遺臣の中から鄭成功という、父は福建の貿易商、母は平戸の日本人という人が出てきて、「明を復活させるんだ〜!」と、台湾に「ここが明!」と国を興します。この時代に「復明」を目指した主に福建省の人達が入ってきたので、台湾人=福建人、という流れができます。この頃から台湾に住んでいる人達を「本省人(元々台湾に住んでる人)」と呼びます。この当時、台湾はオランダに統治されていたので、抗蘭運動に心血を注いでついにオランダを追い出し、鄭成功は今では「国姓爺」「開発始祖」として、台湾人の不屈の魂の象徴として祀られています。

で、この後清朝統治時代、日本統治時代を経て、国共内乱に負けた国民党がなだれ込んでくるわけです。蒋介石率いる国民党は台湾で独裁政権をしきますが、蒋介石の息子の蒋経国と本省人初の総統となる李登輝によって民主化し、1995年に初めて民主的選挙が行われてから、国民党と民新党による二大政党の(小さな政党もたくさんある)、現在の台湾の政治形態になっていくわけです。

こんな歴史なので、本省人は国民党以降入ってきた人達(=外省人)のことがあまり好きでありません。国民党は二・二八事件(国民党による本省人の虐殺)なんかも起こしちゃったのでね……。逆に、日本軍が台湾を統治してたときは、大陸でやったほどひどいことを台湾ではしなかったし、台湾の社会制度とか経済活動の基盤を整備した、というのもあって、台湾が親日国なのも、「外省人の支配に比べれば、日本統治時代は良かった」という、反・外省人から来る親日なのです。

また、鄭成功以前から住んでいた台湾の人達は、今では「台湾の先住民族」と呼ばれ、例えばアミ族、パイワン族、タイヤル族など、10以上の民族が現在も台湾に住んでいます。


(素人が書いているので、不備が多々あると思います。また、この辺の歴史はとても微妙なので、色々なご意見があるかと思いますが、できればお目こぼし下さるとありがたいです。間違いや不備を正してくださる場合は、出来れば優しい言葉でお願いします)



でも、上に書いたことは教科書的な「歴史」であって、それが実際に台湾に行くと、台湾の人のホスピタリティーは、もう「親日」とか「外省人は」とか、そういうの関係ないんだなぁ、もう理屈抜きにみんなに優しいんだなぁと思ったりします。


実はこの後孔子廟から出て、どうやったらバスで帰れるかバス停で色々チェックしていると、3人の人が私たちを正しいバスに乗せようと奔走してくれて、しまいには全く見ず知らずの方が「母の車であなた達を行きたいところに連れて行きますよ」と言ってくれたりしたのです。結局、日本で言う5ナンバーの車にすでに2人乗っているのに、うちら4人もいるからお断りしたのですが、その方は「4人くらい大丈夫ですよ」「道は分かるから平気です」と……。あの親子が気分を害していなければ良いのだけれどと、今でもそれが心配です。他の国でこんな事言われたら、絶対ヤバイ目に遭うと思って断るのですが、この時ばかりは本当に「断る方が申し訳ない」という気分になりました。

今まで色々な国を旅しましたが、こんなにも優しさに裏が無く、なおかつ1回も切ない思いをしなかった国というのは初めてです。

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