イスラエル紙『イェディオト・アハロノト』に、イスラエルの諜報活動と国内治安を担当する機関シャバク(シン・ベト、GSSとも呼ばれる)の元長官4人、アヴラハム・シャロム、ヤアコヴ・ペリ、カルミ・ギロン、アミ・アヤロンのインタビュー記事が載った。彼らはイスラエル−パレスチナ紛争に関する政府のやり方を激しく批判し、世界の注目を集めた。それは各所で引用されるけれども、インタビューの全容は分からなかった。このたびインタビューの全英訳がアミー・ミナ(amymina@;link.net)のディスカッション・リストに載った。翻訳者は不明。以下それを邦訳する。(脇浜)
総合治安機関(以下GSS)の長4人がそろってイスラエル社会に警告を発するインタビュー会合に出たのは初めてのことである。この4人のGSSでの勤務年数は合計20年、それぞれ歴代内閣のもとで、それぞれ異なった時代に長官を務め、イスラエル社会、パレスチナ社会の表裏に誰よりも精通している人物である。カーン・ユニス難民キャンプの下水溝から、両社会の首相と議長のオフィスの状態まで、隅々まで知っている人物である。
4人が同席したこと自体が一つの奇跡である。彼らは決して仲良し組ではなかった。カルミ・ギロンとヤアコヴ・ペリは積年の宿敵であった。それがこの会合に敢えて同席したのは、2人とも事態の重要性、緊急性に動かされてのことだったのであろう。昔からの敵対心を捨て、イスラエル国家の暗い未来の予言者になるという重荷を背負い、現在の快適な地位をも捨てる覚悟での発言の底には、イスラエル国家がとんでもない方向に進んでいるという認識があったからであろう。
<出席者経歴>
アヴラハム・シャロム:1980年12月から1986年9月までGSS長官を務めた。1986年9月No.300バス事件(訳注:GSSの非合法な活動を調査する委員会に虚偽の報告を行ったことが露呈した事件。当時の首相シャミールの命令で行った活動もあったとか、無実の指揮官が濡れ衣を着せられたなど、世情を騒がせたが、すべては闇の中)の責任をとって辞任。事件に関しては大統領から免責処置を得た。その後主として海外で自営ビジネスを営んだ。国際企業のコンサルタントもやっている。
ヤアコヴ・ペリ:1988年4月1日から1995年3月1日までGSS長官勤務。彼の在任中に最初のインティファーダ勃発。セルコム社会長、戦争捕虜や作戦中失踪者に関する首相顧問も勤めたことがある。現在、ハミズラヒ銀行とリップマン社の会長。
カルミ・ギロン:1995年3月1日から1996年2月までGSS長官。イツハク・ラビン暗殺の後、自主辞任。デンマーク大使を務めたあと、メヴァッセレト・ツィヨ地方議会の議長に選ばれた。
アミ・アヤロン(少将):GSSの外から任命された初めての長官で、1996年2月18日から2000年5月14日まで務めた。それ以前は海軍の指揮官だった。現在はネタフィム灌漑システム会社の会長。サリ・ヌッセイベ教授と共に始めた「国民的コンセンサス―紛争終結を目指す署名運動」の長を務めている。
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質問:我々が奈落の一歩手前にいるというのは本当ですか。
シャロム:ええ、その途上にあります。これまでわが国がやってきたことはすべて、和平への切望に反することばかりです。大イスラエル主義に執着するやり方をやめない限り、また他者(パレスチナ人)の存在を認識しない限り、我々は破滅します。他者は存在し、人間としての感情を持ち、苦しんでいるのです。ところが我々はパレスチナ人に破廉恥極まる行動をしているのです。そう、破廉恥というのがピッタリの言葉です。
質問:破廉恥な行動というのは、例えば道路封鎖地点での振る舞いですか。
シャロム:全てです。
質問:難民キャンプでのイスラエル軍の行動もですか。
シャロム:すべて、すべてが破廉恥なのです。我々はパレスチナ人に対しあらゆる場面であらゆる時点で破廉恥な行動を行ってきた。もし我々に同じことがなされたら、とても我慢できないだろう。パレスチナ人だって同じです。しかも我々はそれを正そうともしない。シモン・ペレスが一度だけそれを正そうと、ごく小さな行動をとりました。少なくとも、私がシャバクの長官をしていたとき、彼はそのことを話しましたが、結局何も生まれませんでした。
質問:ペレスは何を話したのですか。
シャロム:音楽を変えよう、トーンを変えよう、と言っていました。彼はユダヤ人の傲慢で威圧的な態度を変えようとしたのです。我々ユダヤ人は間違った道具を使って、ちゃちな兵隊集団になり下がってしまったのです。
アヤロン:イスラエルが民主主義国でなくなり、ユダヤ人の郷土でなくなる方向へ向かって進んでいることは確実です。これが一番恐ろしいことで、その他のことは付随物にすぎません。
ギロン:私も同じ意見です。だから私はここに参加したのです。将来のことが心配なのです。私には娘たちがいますが、この国が破滅へ向かって進んでいるので、彼女たちの将来が心配です。私はイスラエルでユダヤ人復活事業を始めた世代の次の、第二世代の人間です。次の世代の人たちが、私たちの親が望んだように、民主主義的でユダヤ的な国家に住めることを切望しています。
ペリ:どんなに熟考して戦略を立てても、突破口はないと思います。私は周期というものを信じています。7年間あるいは70年間悪い期間があれば、次に7年間あるいは70年間良い期間があるものです。かつてユダヤ人に起きた奇跡は、政府とか首相とかが計画、決定したからではなく、何か予測不可能な思いがけないことが起こったからです。いつかそう遠くない未来にきっとこの種の奇跡が生じると信じたいです。さもないと、我々は最後の破滅へ向かって進むばかりです。
経済、政治、安全保障、社会生活など、どの観点から見ても、悪化、いや破滅へ向かっていると言わざるを得ません。何かが起きない限り、我々はいつまでも刀を振り回して生き続けなければなりません。泥の中をのたうち回り、自己破壊を続けなければなりません。
ギロン:我々がここにいるのはアミ・アヤロンの声明書のおかげです。こんなふうに4人もの諜報・治安当局の長官経験者が集まって、2時間もイスラエル国家ののっぴきならない状況への危惧を話し合うなんて、後にも先にも初めてのことです。それだけで一種の重大発表になります。もっとも私個人としてはかなり躊躇しました。今日の昼まで考え続けたものです。
質問:どういうことで躊躇したのですか。
ギロン:(用心深くなって)それはどうでもよろしい。ともかく少し躊躇したのです。少々ドラマティックすぎるように思えたし、実際、ドラマティックです。4人もの元GSS長官が一堂に会したのですよ。しかも治安分野だけでなく他の社会的活動にも精通している大物が集まって、話し合い、一つのメッセージを出す。これだけでも、アラファトが適切か不適切かの問題よりも重要なことです。
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アミ・アヤロンは短気で、神経質で、やや感情的である。彼はサリ・ヌッセイベと共同で書いた声明書を広げるという目的でこの会合へ出席したのだ。他の3人の元長官の支援を得れば彼の声明書の効果が劇的になると思ったのである。事実この会合で彼は3人の支援署名を得た。声明書への署名運動は目下、イスラエル人、パレスチナ人の間で進行しているが、政府への圧力になるほど多くは集まっていない現状である。
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アヤロン:何が矛盾か分かりますか。私は毎日いろいろな場所へ行って、多くの人々と会います。カタモン地区にも、スデロトにも、キリヤット・シェモナイモにも、その他いろいろなところに行きますが、私たちの声明書に関する議論はほとんど聞かれません。新聞にも出ません。我々国民としての権利と義務に関する問題なのに。21世紀のイスラエルの民主主義に関する重要な問いかけなのに。我々の呼びかけ、叫び、署名には効果がないのでしょうか。
ペリ:あなたが見たのは、無関心、抑圧、深く考えることを拒否する姿勢です。この3年間の街の様子を振り返ってごらんなさい。デモも集会も抗議運動もほとんどなかったでしょう。政府や指導者に反対する人たちは、せいぜい自腹を切って新聞に意見広告を出す程度で、組織的な大衆行動は見当たりません。政府の思うツボです。
でも、この歴史的な会合を民衆へのアッピールに使えば、ひょっとして効果があるかもしれません。当然、現政府の抵抗はあるでしょう。政府というものは、政府以外の人が自主的に動くことに反感をもつものです。本当に自尊心のある政府だったら、自主的な提案や意見に対して、少なくとも議論ぐらいはすべきなのです。議論したうえで、もし受け入れられないと判断したら、提案や意見を拒否すればいいのです。ところが現政府は無視するだけです。我々のアヤロン・ヌッセイベ声明書に関しても、ジュネーブ決議に関しても、まったく無視するだけなのです。
これは誤っています。だって、国民の側に要求があり、新しい開かれた感性が芽生え始めているのです。私は、アヤロン・ヌッセイベ声明書には、ユダヤ的で民主主義的な国家としてのイスラエルの民族的願望やアイデンティティーと、パレスチナ人の民族的願望やアイデンティティーとの間に、これまで見られなかったような妥当なバランスがあると思います。難点といえば、その実現は、アナーキー化した社会の克服如何にかかっており、その克服のためには長年月かかるかもしれないということでしょう。しかし、パレスチナ社会の状態ゆえに声明書の理想が実現できないとするのは誤っています。
ギロン:現在正式にテーブルにのっているのはロード・マップだけです。過去10年間に提案された計画はすべて、和平協定を結ぶ前提条件としての段階的提案ばかりでした。イスラエル・パレスチナ間の信頼関係を作るためと称した段階的な取り決めで、それはことごとく失敗しました。アヤロン・ヌッセイベ声明書はそれに対して、10年間やって失敗したのだからやり方を変えよう、信頼関係を作ってからではなく、先に和平協定を結ぼう、と呼びかけています。先に協定を結んで、それから前提条件にさかのぼって段階的取り決めをやろうと提案しています。
現在、みんなテロのことで頭がいっぱいです。テロ停止が政治的前進の条件だと言っています。これは間違いです。
シャロム:「間違い」じゃないですよ。それは「口実」です。何もしないための口実です。
質問:シャロン首相はロード・マップを受け入れていますよ。
ギロン:ええ。しかし条件をつけているでしょう。ロード・マップをテロ問題にすりかえた感があります。テロ問題の陰に隠れて、ロード・マップが見えなくなっています。
シャロム:リクード党でこの問題に正直に発言したのはイツハク・シャミルだけです。彼は私に、問題への取り組みを10年引き伸ばし、さらに10年引き伸ばしていると言いました。
ギロン:確かなことは、和平協定がなければ我々はノックアウト宣言されるということです。そして私の最大関心事は、このイスラエルの地に如何にしてユダヤ的民主主義国家を存続させるか、ということです。何年も何年も前提条件の段階的取り決めばかりに費やし、すでにエジプトやヨルダンに対して戦略的、安全保障的観点から大幅な領土的譲歩したのに、パレスチナ人との現状はいっこうに改善しない。このまま争いを続けていけば、ますます泥沼化するばかりです。
アヤロン:問題は我々が何を望んでいるかはっきり分かっていないことです。南レバノンだって、政治指導者たちは安全保障地帯をどうすればよいか分かっていなかった。一般民衆の方が、「私たちは去る。だから私たちをもう悩まさないでくれ」と言ったから、イスラエルは南レバノンを撤退したのです。この意味で、西岸地区についても、将来政府の外に組織的な大衆運動の連合体を作ることの必要性を痛感しています。
質問:例えば「4人の母親」のような大衆運動のことですか(訳注:レバノン戦争時、レバノン撤退を求める市民運動。現在1999年に結成された南レバノンからの即時撤退を求める「レッドライン」に引き継がれている)。
アヤロン:「4人の母親」が煎じたお茶は魔法の一服でした。どう調合したのか分かりません。あの運動の創始者を何人か知っていますが、あの人たちが初期の目的が実現できるように綿密な計画をもってやったのかどうか分かりません。実現したい目標はあるが具体的な詳細は政府に任せる、といった大衆運動のやり方がよいのかどうかと問われれば、そうするのがよいと答えるしかないです。
ギロン:「4人の母親」はそんなプロセスじゃなかったですよ。いいですか、イスラエルは安全保障地帯を撤退する前にベイルートから撤退し、レバノンから撤退したのですよ。レバノン撤退を求める声が大きく、政治的な激動が国内にあったので、ラビン首相は撤退案を持ち出したのです。
シャロム:あの場合も、我々GSSが大きな影響力を発揮しました。1982年レバノン撤退を真っ先に主張したのは我々でしたからね。なにしろレバノンは支配するには大きすぎました。しかし軍は聞く耳持たぬ姿勢でしたね。
質問:内乱の危機もあったのでしょう。
シャロム:ええ。
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