論文  キューバの食糧安全保障 

 ◆輸入に代わるニュー・テクノロジー

 キューバの苦境がもたらした掘り出し物ともいえる結果の一つは、従来の農業方法からやむなく有機農業へ変わらざるを得なかったことだ。ソ連やその同盟国との有利な貿易協定がなくなり、国際市場でモノを買う余裕もなかったために、キューバは石油関連物資に依存しない農業を行う一大実験場となった。害虫駆除、施肥、土壌整備から化学がなくなり、代わって生物学が入ってきた。
 植物防疫研究所は全国に220センターを持ち、植物害虫を駆除する安くて豊富に存在する益虫や微生物を提供している。数百もあるミミズ堆肥センターではミミズが飼育され、ミミズが排出する有機排泄物が年間100万トンもの天然堆肥を作ってくれる―これは都市や地方のやせた土壌を改善するために農民が考え出した方法の一つにすぎない。その他さまざまなタイプの有機堆肥作りが急速に発展した。そうして作られた堆肥の量は、2001年から2002年の1年間で3倍も増加、2003年には1500万トンになった。
 農業省は全国に普及員や供給ストアのネットワークを組織して、これの発展を支援した。1997年ハバナ市だけでも67人の普及員と、いわゆるシード・ハウスが12軒もあった。現在ハバナ市では、この事業はティエンダス・コンスルタリオ・アグリコーラ(TCA:農業コンサルティング・ストア)が中心となって進められている。TCAの数は50に増やされる計画で、500人の専門的な普及員と技術者が雇用される見込みである。TCAは種子、土壌改良剤、バイオ製品、技術文献販売と並んで、技術的なアドバイスも行う。TCAの提供するサービスを一般に広めるうえで、普及員が重要な役割を果たしている。また普及員は、科学技術的なアドバイスや情報を都市農業従事者に提供する。キューバ全体で、都市農業は1万人近い専門家や5万人以上の技術者の支援を得ている。
 地方でも、主要産品の生産の進歩が著しい。特に馬鈴薯とコメ。コメの場合、新栽培法が導入されたことが大きい要因である。コメ産出強化システム(SRI)と呼ばれる手法で、コーネル食糧・農業・開発国際研究所が中心となって世界的に広められている。それを採用したところ、キューバや第三世界の国々では、種子や水や石油関連物資の使用が減少、しかも収穫は従来の手法の2倍から3倍に増えている。楽観的見方をする専門家は、コメに関してはキューバは充分に自給自足でき、やがて余剰のコメを家畜飼料に回すことができるようになる、と言っている。馬鈴薯生産も同様にサクセス・ストーリーである―ただし、有機農業の例にはならないが。キューバは、馬鈴薯栽培にはまだ合成化学肥料を使っている。熱帯の小島としては驚くべき生産量で、1999年1ヘクタールあたり23万トンであった。これは、ラテン・アメリカでは、アルゼンチンの1ヘクタールあたり25万トンに次ぐ2番目の多さで、ロシアも入れたヨーロッパの平均産出量を上回っている。ちなみに、カナダの産出量は1ヘクタールあたり27-28万トンである。新灌漑技術(馬鈴薯収穫の89%が灌漑地で生産されている)や新種改良が、増産をもたらした。
 有機農業と家畜牽引の復活(ハバナ市で牛の牽引力を利用する耕作をやっている例は2400例ある)のおかげで、輸入エネルギーやその他の石油関連物資が大幅に節約できた。2003年、農業省は、1989年に比べてディーゼル燃料は約50%減、化学肥料は10%減、化学殺虫剤は7%近くの減となった、と発表している。実際、食糧生産の全領域が、省エネ戦争の日々の戦闘であると言える。

 ◆米ドル市場への参入

 砂糖以外に、キューバの食糧安全保障のために必要なドルを獲得する方法は、少なくとも三つある。ドルは国民の食糧需要を満たすために必要であることが、キューバでは絶えず強調される。
 第一、観光客用のドル・ショップ(キューバ人も買える)。キューバ人は1993年に、ドル保有・流通させることが法律で許されるようになった。彼らは海外(主にUSA)の親類からの送金や、国内でドルを稼ぐ(観光客のチップなど)ことによって、ドルを手に入れる。ドル・ショップは「ティエンダス・デ・レカウダシオン・デ・ディビサ」(TRD:外貨獲得店とでも訳せる)と呼ばれる。
 TRDでの食糧や農産物の販売高は、年間2億ドルを越える。販売促進のため全力が注がれている―2000年の最初の10ヵ月で、シエゴ・デ・アビラの養蜂家たちの懸命な努力のおかげで、蜜や化粧品など蜜加工品をTRDや観光ホテルの売店で販売、2万2000ドルが入った。
 第二、観光部門へ投入する資本財の備蓄。発展段階にあるキューバの観光産業(2002年の観光客は約170万人)にとっての課題の一つは、如何に観光客が落とすドルを保持するか、である。1990年初期から観光事業を開始したが、その頃は食材など観光客に必要な資本財のほとんどを輸入に頼っていた。原則として、ホテルの装飾用の花や、食材になるレタスやマンゴーなどは、キューバで生産できるはずである。農業省は観光ホテル向けの食糧の質と信頼性を高める努力をし、ある程度成功した。しかし、まだまだ潜在的可能性の実現までには到っていない。2001年、観光事業への投入資本財のわずか60%がキューバ産という状態であった。
 最後に、国家が農産物輸出でドルを稼ぐ方法。伝統的な輸出物、例えば煙草、コーヒー、そして比較的新しい柑橘類に加え、養蜂業や甲殻類などの海産物も輸出に寄与している。国民の食に苦慮する国が食糧安全保障を求めて食品を輸出するというのは、一見奇妙に思えるが、それでもって他の食糧の調達をはかっていることを思えば、うなずける。2001年、キューバの食糧の輸入・輸出のバランスは、金額面でほとんど均衡していた。

◆食糧アクセス

 これまで食糧供給―生産と輸入を通して―に関する実践について述べてきたが、ここでは食へのアクセスの確保という、同様に重要な目標について述べる。一国が平均して国民一人当たり充分な食糧を生産しているだけでは充分ではないことは、言うまでもない。実際に一人一人に適正な質と量の食糧がわたるようにしなければならない。適性で公正な食糧分配が実現していないため、社会全体としては一人当たり充分な量の食糧を生産をしているのに、栄養失調や飢餓などが発生している例は世界に数多くある。
 キューバは、国民が物理的にも経済的にも食糧にアクセスできるように、さまざまな方法を用いている。そのうち最も重要なものは、食糧受給権の確立であろう。キューバ革命は当初から、食糧分配システムに社会的平等をもたらすために、配給制度を用いてきた。1998年、一人当たり月コメ5ポンド、豆1ポンド、砂糖3ポンドの配給が保証された。不定期ではあったが、ポテト、トマト、野菜はもちろん、鶏肉、卵、魚、ハムなども、少量ながら形ばかりの安い価格で購入できた。さらに、毎月、病院へは1ベッドにつき28ポンド、学校には生徒一人につき28ポンド、育児施設には子ども一人につき13ポンドの食糧を国家が配給した。
 そのうえ、自発的な食糧再配分、特に人民菜園またはパルセラスで収穫された食材の再配分がある。これは、都市農業生産者が収穫物を困っている隣人(特に老人)に分け与えることで、社会的連帯心から自発的に行われる。場合によっては、地方行政が「自発的な」食糧供給を地元の学校や病院に行うことを要求することもある。これは、そもそも土地を無償で使わせているのだから、いわば一種の社会的地代として当然の要求だと考えられている。
 食品価格を国民の手が届く範囲に抑える施策も講じられている。1994年の農民市場開設と普及は生産者農民へのインセンティブとなり、販売食品もバラエティに富むようになったが、市場価格が高くなって、必ずしも全部のキューバ人がそこで買い物できるわけではなくなった。農民市場の高価格を解決する方法として、別個に国営農場の産品ばかりを扱う市場をライバルとして開設した。1998年、農業省は国営農場の産品を売る市場ネットワーク作りに着手した。プラシタス・トパタス(限定価格)市場と呼ばれ、値段を農民市場より安くした。ただし、販売品の種類はそう多くない。
 ドル収入は海外に親類をもつ人々や観光業で働く人々に限られていたが、政府は、もっと多くの人々がドルを手に入れられるようにする政策を考え出した。直接ドルが入らない部門で働く労働者へのインセンティブとして、給料の一部をドルで支払うことにした。また、ハバナ市内にペソとドルを比較的安定した「市場価格」(現在1ドル=26ペソ)で両替できるオフィスを作った。その結果、ドルを入手して、ペソ市場では買えないような消費財(食糧も含む)を買えるようになった人の比率は、1996年の44%から1999年には62%になった。
 最後に、食糧生産の一番重要な要素である土地が無償使用できることが、食糧アクセスを高めたことを力説しておかなければならない。土地無料原則のおかげで、国営農場から各種企業や学校や病院にいたるまでの集団作業体が、近くの遊休地を利用して野菜栽培や家畜飼育を行い、職場の食堂で食べる労働者の食を作り出すことができたのである。さらに、正式には国営農場などの労働人口に入っていない人々、例えば定年退職者などが、自分の食糧を生産するために土地利用ができるのである。

◆結果

 以上概観してきたキューバの取り組みは、どういう果実を結んだであろうか。明白な成果の一つは野菜、でんぷん質塊茎(ジャガイモ類)、料理バナナの増産であろう―2000年には1989年の危機以前の水準を越えていた。
 これはもちろん、危機から生まれた都市農業―ハバナで始まり今では全国規模になった都市農業の発展がもたらしたものである。都市農業は食糧増産に大きく貢献したばかりでなく、都市住民に貴重な雇用機会を創出、彼らの所得源を提供した。2003年、この分野での雇用数は20万人以上。その前年には、3万5000人分の新規雇用を創出、キューバ全体の新規雇用の22%であった。
 概して、生産増加と効率化は非常に明るい見通しである。1999年、18種類の作物のうち16種類、例えば野菜、塊茎類、料理バナナは言うまでもなく、トウモロコシ、豆類、コメ、果物、コーヒーなどで収穫増が見られた。馬鈴薯、キャベツ、マランガ(サトイモ科の草)、豆、コショウの生産量は中央アメリカよりも多く、世界の平均値を上回っている。キューバの全地区で野菜、塊茎類、料理バナナの生産量が増加、そのうち13地区では記録破りだった。野菜収穫量の数字を見れば一目瞭然だろう。1997年10万トン、1999年90万トン、2000年170万トン、2002年300万トン以上。2003年は、すでに上半期で170万トンの収穫だったから、300万トンを上回ることは確実である。
 生産増の結果、2000年半ばには、野菜や天然ハーブの販売高は、全国一人当たり平均1日469グラムに達した。これは、FAOが勧告する1日300グラムの摂取水準を大幅に上回る。中でもシエンフエゴス地区(1日867グラム)とシエゴ・デ・アビラ地区(1日756グラム)がトップ、ハバナは2000年11月に1日622グラムとなり、サンクティ・スピリトゥス、グランマ、ピナール・デル・リオ、ラス・トゥナス、グァンタナモは、1日500グラムの水準となった。2003年3月には、ハバナ地区は一人当たり1日943グラムの野菜を生産した。
 もちろん、問題が残っている分野もある。特に牛乳、肉、卵に関しては、キューバで自給できない家畜肥料を外国から輸入している。コメも、主として大規模国営農場で栽培されているが、いつも計画を下回る収穫で終わっている。
 しかし、そこでも改善と将来への希望はある。コメの場合、先に述べたSRI技術への期待に加えて、都市農業の成功に刺激されて、コメ生産倍増を目指す「人民コメ作り運動」が始まった。2003年には30万トンの収穫が期待されている。これは1999年の17万2000トンを上回り、コメ輸入を50%減らせることになる。
 こういう変革の中で注目されるのは、現在のネオ・リベラル時代にあって、多くの第三世界の国々では国家の役割が縮小しているのとは対照的に、キューバでは、国家やその他集団的経済形態が、生産においても、それを助成、支援する面においても、重要な役割を果たしていることだ。何より基本的に大切なことは、2000年末までにキューバが1日一人当たり2600カロリー、たんぱく質68グラム以上の摂取可能な食糧自給を実現したことだ。FAOの適正食事基準は2400カロリー、たんぱく質72グラムである。問題領域は多々残っているものの、緊急食糧危機は乗り越えたと言える。
 キューバ社会は、厳しい圧迫状況の中で、国民の安全保障に独自のやり方で取り組み、成功したのだ。これは、おそらく他の社会にとっても大きな道を切り開いた先行例となるだろう。2003年3月31日、ベネズエラのチャベス大統領は、キューバ大使と駐ベネズエラFAO代表が参列する中、カラカスでベネズエラ初のオルガノポニコ発足式を行った。他の第三世界の国々も、キューバの実践から多くを学ぶことができるだろう―基本的にはどの国も自国民のために充分な食糧を生産できるし、国民の食卓に適正な食事を確保できるはずである。

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