論文 「資本主義と刑務所再考」

◆刑務所におけるマイノリティ

 民族マイノリティと投獄という問題に触れないような米刑務所システム議論は、単に皮相的であるばかりでなく、刑務所の社会的・階級的役割を曖昧にするものである。刑務所議論で重要な点は、一般社会人口でマイノリティの占める割合が25%以下であるのに、囚人人口では65%にもなるというアンバランスである。
 黒人囚人に関する詳しい統計を見てみよう。20世紀後半は一貫して黒人の投獄率が増加している。1940年、全囚人人口のうち30%が黒人であったのが、1995年にはそれより18%増加して、48%となった。一般社会の人口では同時期の黒人人口の増加率はわずか2.6%であった。同様な増加が地方や郡の拘置所の収容者にも見られる。
 1984年から1997年の間、白人の拘置所収容率は微々たる増加であったが、黒人の場合大幅に増加し、1997年では白人の5倍であった。黒人の拘置所収容率の増加は黒人の投獄率増加とパラレルであるのは言うまでもなく、これは矯正システム全体を通して人種的不均衡が拡大していることの証左であろう。
 裁判統計局のジャン・M・チャイケン局長の詳細なレポートを見ると、刑法裁判システムがマイノリティを標的にしていることがはっきり分かる。表1は1996年の受刑者を人種・民族・性別に分類比較したものである。

(表)人種・民族・性別受刑者比率 1996年(米国)
*各カテゴリーとも人口10万人に占める受刑者の割合を数字化
 黒人

3,098

188
 ヒスパニック
1,278
78
 白人
370
23

資料:Jan M.Chaiken,“Crunching Numbers: Crime and Incarceration at the End of the Milennium,” National Institute of Justice Journal (2000年1月): 10-17. http://ncjrs.org/pdffiles1/jr0002で見ることができる

 人種・民族・性別で分類した投獄率は、米国のマイノリティの寒々とした生活状態を物語っている。1996年、黒人男性が懲役刑を宣告される率は白人男性の8倍、次いでヒスパニックが白人男性の3倍半高い。女性の投獄率は男性のそれより低いが、人種・民族別では男性の場合と同じ不均衡が見られる。
 25-29歳年齢層の男性の投獄率が、人種・民族別不均衡が一番高い。黒人男性若者は白人男性若者よりも10倍も投獄率が高く、ヒスパニックの場合は3倍も高いのだ。
 矯正統制の点からみると、矯正措置下にある黒人のパーセントは、どの年齢層でも、白人の4倍になる。特に20代・30代という働き盛りの年齢層では、白人は8%であるのに対し、黒人は30%が何らかの矯正統制下にある。こういう統計数字に表れていない事実として、成人の執行猶予数を人種別に分けると、全執行猶予人口のうち黒人の占めるパーセントは35%であるが、刑務所で懲役生活を送っている人口に黒人が占めるパーセントは50%になる。黒人が刑務所の外にいることは、白人が刑務所の中にいることと同じくらい難しいのである。
 マイノリティが受刑する確率は非常に高い。前掲表1を作成しているとき、裁判統計局は米国民が一生の間に投獄される可能性を数値で表す統計モデルを作った。それによれば、1991年16歳の黒人少年が一生の間に投獄される可能性の率は28.5%。これは殺人や放火のような重罪による服役者のみの統計資料に基づいた計算で、地方や郡の拘置所や留置場に収監された時間は含まれていない。それに、黒人社会内の階級差を考慮に入れて分類、計算すると、黒人貧困層の男性若者の投獄率は60%近くになる。さらに、黒人に不利に働く拘置所などの処遇も計算に入れると、その数値は75%になると言っても過言でないだろう。
 こういう統計を見て、リベラル系評論家は刑法裁判システムの人種差別性を発見して嘆く。しかし刑務所にマイノリティが集中する根本原因となる資本主義の基底構造に言及することはない。米国のマイノリティがおかれている経済的疎外や不安定の点から見れば、マイノリティ囚人の集中は何ら驚くべきことではない。黒人男性の失業率は一貫して白人男性の2倍以上で、これこそが人種・民族的マイノリティの経済生活に関する基本的事実の一つである― 白人男性が失業で悩むのは不況のときだけだが、マイノリティ男性は第二次世界大戦以降ずっと不況や恐慌レベルの失業と直面してきたのだ。例外は朝鮮戦争とベトナム戦争の時期だけ。こいう雇用統計は、米のマイノリティが米資本主義のもとで、歴史的に賃金労働者の予備軍役割を担わされてきたことを、よく表している―この予備軍役割こそが、刑務所に彼らが集中することを説明するのである。
 刑務所や拘置所にマイノリティが多いことは、ひとつ経済の力学からだけで説明し尽くせるものでないことも、付言しなければならない。1970年代の黒人の反乱や、「麻薬に対する戦争」などのような支配階級の対応も大きな要因であるのは言うまでもないが、これは別個に詳細な分析を要するテーマである。私は現在その研究を行なっているので、いずれ読者の批判を仰ぐことになるだろう。

◆刑務所政策

 大量投獄を周期的に生み出す階級矛盾は、時には公然たる敵対状況を発展させる―現代米国史に記録される刑務所反乱の三つの大きな波と一つの小反乱がその現れである。第一波は1929年から1930年にかけて、全国の11の刑務所で大規模な暴動が起きた。第二波は1952年から1955年まで、全国的に広がり、経済不況対策費より高いものについた。47件の暴動があり、かなりの人命と1000万ドル以上の物的財産が失われた。第三波は1968年から1971年まで。この間に40件の反乱が起き、中でも後述するニューヨーク州北部のアッティカ刑務所の反乱は歴史に記録されるべき規模であった。1986年から1991年にかけてあちらこちらの刑務所で小反乱があったが、記録に残るようなものは8件ほどであった。そのうち1987年のアトランタ州にある連邦刑務所におけるキューバ移民の暴動はかなりの規模であった。この三大反乱と一小反乱の波を歴史背景に照らして見れば、米国の刑務所政策の実態がよく分かる。
 三大反乱波はすべて、比較的経済が落ち着いていた時期の直後、すなわち裁判所が懲役刑を課す新規囚人の数も、服役している囚人の合計数も比較的低かった時期の直後、つまり不況が始まったばかりの時期に起きている。刑務所人口が急激に増加して満杯になったときに、騒動が発生している。
 この囚人大量流入の結果、服役者の間に量的変化ばかりでなく質的変化が起きた。人生の働き盛りの若者が、経済不況の調整弁としてどんどん投獄される。彼らは自分が受けた不当な扱いに怒って入ってくる。マイノリティ囚人の増加がこれに拍車をかけた。特に1960年代、70年代の政治的激動期にそれが目立った。
 囚人増加の初期の頃は、刑務所側は新規囚人(たいていは若者)流入に対する備えが充分でなかった。それまで、適度な数の、どちらかというと比較的扱いやすい年配囚人の番人仕事を、ほぼ規則的にやることに慣れきっていたのだ、新しい状況に対応できなかった。施設面でもついていけなかった。刑務所は、奇妙な需要供給法則にしたがって、この危機的期間を乗り切らねばなかなかった。収容能力を超える囚人を収容し、次にその過員状態や施設・設備の不足や劣悪な状態を訴えて、予算増、人員増、増築などを要求。この刑務所資源を越える(刑務所への)需要が大きかった時期に、広範な反乱の波が生じたのであった。この三大反乱時期は、米国の刑務所政策の何たるかを明らかにした。
 最近20年間、刑務所騒動が少なくなったのは、この三大反乱の波から国家が教訓を学び取った結果である―特に1960年代、70年代の反乱から。

◆1960年代・70年代の教訓

 刑務所当局は1960年代、70年代の反乱から二つの重要な教訓を学んだ。一つは、囚人が政治的に結ばれると米刑務所体制への脅威となること。当時は米の刑務所政策の何たるかを認識している囚人が多かった―服役者には民族マイノリティが多く、それは実社会におけるマイノリティの立場の反映であることを知っていた。全国のアフリカ系アメリカ人囚人は、例えばジョージ・ジャクソンのような指導者のもとに結集、組織化されていった。ジョージ・ジャクソンはカリフォルニア州で服役していた黒人囚人であった。『ソウルダッド・ブラザー:ジョージ・ジャクソンの獄中からの書簡』(“Soledad Brother:The Prison letters of George Jackson”)を1970年10月に出版し、多くの人々に読まれた。さらに1972年2月、『私の目の中の血』(Blood in My Eye)が死後、出版された。この二つの本で彼は米国の刑務所政策とその犠牲となった囚人たちの声を強く訴えた。彼は1971年8月21日、カリフォルニア州サンクェンティン刑務所内で殺害された。これが米国史上最も政治的な流血の刑務所反乱の導火線となったのだ。
 ジャクソン殺害の翌日、ニューヨーク州北部のアッティカ刑務所では、800人を越える囚人がジャクソンを追悼して断食を行なっていた。刑務所側は、圧倒的にマイノリティが多い囚人が政治的に高揚し、断食という政治的、組織的連帯表明を取ったことに驚き、警戒心を強めて、過度な警備を含む一連の対応措置をとった。これが暴動の引き金となった。暴動は9月9日に始まり、9月13日、当局の攻撃によって鎮圧された。
 反乱が始まると囚人たちはすぐに刑務所のDヤードに終結し、声明書を作成した。声明書を見ると、彼らが米国刑務所政策をよく理解していたことが伺われる―米国の刑務所の目的を認識して、帝国主義国でない国への移送を要求していることに、それが明瞭に表れている。彼らは自分たちが置かれている状況の政治的理解に基づいて団結したので、抵抗の意志が固く、暴動を現体制への本格的な反乱に変えた。拘束した看守を人質に使って、自分たちが選ぶ外部の第三者臨席のもとでの交渉を当局に要求した。
 しかし、アッティカの抑圧問題は交渉のテーブルに乗らなかった。当局は200名以上の州兵から成る攻撃部隊を編成し、9月13日に鎮圧した。周囲の建物の屋根の上に配置されたスナイパー部隊の高性能ライフル銃で援護されながら、ショットガンで武装した攻撃部隊は、催涙ガスの煙幕の中を前進、Dヤードの囚人に襲いかかった。
 交渉人の一人であった『ニューヨーク・タイムズ』のトム・ウィッカーは、暴動のドキュメント『死するとき』(“A Time to Die”)を出版、州兵の反乱鎮圧の激しさを描いている。しかしその日、囚人や人質に降り注いだ銃火の凄まじさを再現するような完全な記述はない。実際には、少なくともショットガンの一斉射撃が39回、囚人に浴びせかけられた大粒散弾は390発。囚人に向かって発射された高性能ライフル銃の弾丸数の合計は不明のままである。最終の計算では、死者は人質10人を含む43人、負傷者は人質3人、州兵1人、囚人85人であった。
 アッティカの囚人たちは権力の猛烈な弾圧を経験したのだが、弾圧は銃声が止んでも終わらなかった。ウィッカーの本の中には、囚人に加えられた残虐な物理的、精神的報復ばかりでなく、その後続いた法的な報復攻撃の激しさも記述されている。反乱後3年間に61人の囚人が1400を越える犯罪行為訴因で告発された。その裁判と刑罰の言い渡しが10年間続いた。反乱と報復が残した政治的後遺症は今も続いている。
 当局が学んだ第二の教訓は、反乱鎮圧に際し、武装していない囚人に殺人兵器を使用したことに対する政治的および法律的な批判の高まりからであった。アッティカ刑務所奪還は過度な公的暴力使用のシンボルとなったほどだ。広範な批判、非難の波が高まり、その結果、当時知事であったネルソン・ロックフェラー自身がとった行動も含めて、事件全体の経緯を調査する特別州委員会が設置された。1974年1200名の囚人が、アッティカ刑務所職員から殴打されたり拷問を受けたと訴える集団訴訟が出され、25年間の法廷闘争の末、そこそこの金銭的補償で決着した。
 現在の投獄政策は、1960年代 、70年代で権力側が学んだ教訓を反映したもので、それ故、最近30年間ほどは、前例がないほど収監率が高まったにもかかわらず、刑務所反乱が非常に少ないのである。その具体的中身は、刑務所施設の増築による収容能力の拡大、最新式刑務関係テクノロジーの大幅な活用、矯正職員の大量増員などで、囚人の人権配慮と関係したものは一切ない。中でも最も効果的で苛酷な新たに開発された収監方法が、「スーパーマックス収監」で、これが全国的に普及したのである。

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