論文 「資本主義と刑務所再考」

資本主義と刑務所再考

リチャード・D・ヴォーゲル 『マンスリー・レビュー』2003年9月号論文 編集者/翻訳:脇浜義明


 20年前(1983年)筆者が『マンスリー・レビュー』に書いた『資本主義と刑務所』は、資本主義経済と刑務所システムの関係を分析し、次のような結論を出した。

 経済状態と投獄状況との年毎の対応パターンを見れば、資本主義と投獄との間に一定の関係が成立することは明らかだ―マルクスが何年も前に言ったように、資本主義のもとの刑務所は産業予備軍の廃棄場である。投獄者数の推移ほど明白に失業者や不完全就業者が蒙る社会的結果を表すものは他にない。(p36)

 この論文は最後に米における投獄の将来に関して次のように述べて終わっている。

 この先どうなるのか。1971年から1981年までの10年間、米の受刑者数(州・連邦刑務所)は、197,838人から369,009人へと上昇、45%の増加率であった。この記録的数字に加えて、この10年間は、米国史上最大の集団的投獄が急速に増加した。この凄まじい事実を、民族マイノリティ囚人の集中的増加および独占資本の要請に対する刑務所システムの迎合的姿勢と結びつけて考えると、米の刑務所問題はさらに悪化することは確実だ。(p39-40)

 実際、資本主義と刑務所に関する最新統計資料を考察する本論で、この20年間で刑務所問題が最悪状態になっていることを確認した。

◆投獄の歴史

 20世紀の米国における投獄の歴史は図1のようになる。図1は1925年から2001年まで州法および連邦法で懲役刑を課せられた囚人の数を表したものである。数字は、年次ごとの比較がし易いように、国民10万人あたりに対する囚人の数として表している。1925年から1974年までの50年間の傾向は、国民10万人あたり平均106人前後で微増減している。1975年以降は受刑者数が急上昇し、2000年には国民10万人あたり478人で、1925-74年期の平均数の450%である。

<図1> 投獄率 1925-2001(米国)
(資料:米国司法省司法統計局)

 図1を細かく見てみよう。大不況(1929-1939)の10年間は囚人数は着実に増加、1939年には人口10万人あたり137.1人に達した。これは1979年まで破られることがなかったピークである。1940年以降は減少に転じ、第二次世界大戦終了時には最低となった。1947年から少し上昇、途中朝鮮戦争時に少し減少したが、緩やかな上昇は1961年まで続いている。1962年からちょっと目立った下降が始まり、それはベトナム戦争中ずっと続き、1968年には人口10万人あたり94.3人という大恐慌以来最低の率となった。

 図1で最も特徴的なことは、服役率がベトナム戦争終了後急激に上昇、それが20世紀末まで続いたことだ。この上昇は、大恐慌時のそれをはるかに上回っているばかりか、現代史に登場するいかなる国のそれよりも大きいことだ。2001年12月31日の連邦・州・地方の刑務所に収監されていた人の数はほぼ200万人であった。

◆失業と投獄

 失業と投獄率の比較は、独占資本の労働力需要と囚人人口との相関関係を調べる一つの方法となる。図2は20世紀の米国の失業と投獄とを比較したものである。失業率は、仕事についていないが仕事を探している人々の数が全労働人口の中に占める割合を年平均で表したもの。図2の投獄率は、図1の囚人数とは異なり、その年裁判所によって懲役刑を言い渡された人(新規囚人)が人口10万人あたりに占める割合を数値化したものである。
 図2から分かるのは、裁判所が懲役刑を宣告する件数の増減は米経済の動向と密接に関連していることだ。大不況時には高い投獄率が見られる。1931年には人口10万人につき52人が懲役刑を言い渡されている。対称的に失業率が1.2%だった第二次世界大戦中は投獄率が最低であった(1944年人口10万人あたり28.4人)。
 大戦直後から投獄率と失業率が少しずつ上昇し始め、途中朝鮮戦争の時の人的動員で一時的に減少したものの、1961年まで続いた。ベトナム戦争期、人的動員で失業率と懲役刑判決を受ける数が減ったのは容易に予測できることだ。1969年失業率は3.5%
という低位を記録し、新規囚人数も1968年人口10万人につき31.2人という低位であった。この時期の数字は第二次世界大戦中の低位数に匹敵する。
 ベトナム戦争敗北後、現在まで続いている最も劇的な投獄率増加が始まった。20世紀前半までは失業と投獄との古典的な関係を表している図2は、ベトナム戦争以降は、その関係を逸脱したかのような推移を示している。これは重要な点で、後ほど詳述する。
 戦時中の人的動員と服役人口の因果関係については、以前から明白になっている一種の公理である。第二次大戦中、当時刑務所問題研究では全米第一の権威であったソースティン・セリンは、米国刑務所協会の大会で、戦後刑務所が直面することになる問題について次のように語った。

 戦争の結果わが国の服役人口は減少しました。その理由の一つは、犯罪の主役である年齢層の若者が徴兵されたからです。刑務所のお得意さんが刑務所に代わって軍隊に入ったからです。しかし、戦争が終わり、軍事動員が解除され、それにかなり深刻な経済不況が重なり合うと、わが国の刑務所は、再び満杯になるでしょう。

 セリンの予言は的中。同じことがベトナム戦争後にも生じたのである。投獄率は1974年に急上昇し、そのまま1979年まで横ばい、そしてその後現在までのほぼ20年間驚くべき勢いで上昇した。

<図2> 失業と新規囚人(米国)
資料:米国労働省労働統計局および米国司法省司法統計局

 図2は米国の経済状況と投獄数との一般的相関関係を表しているが、同時に、驚くべき逸脱現象も表している。
 第一に、大恐慌時代の囚人数(図1)と新規囚人数が、一般に失業と投獄のパターンから予測されるよりも小さいことだ。第二に、逆に、近年20年間の失業数から見れば投獄数はもっと少なくてよいはずなのに、図2では驚くべき高率であることだ。この二つの逸脱現象を詳しく見てみよう。
 大恐慌の10年間は二つ、注意を払う必要があるものがある。一つは投獄率が予想される水準よりも低いこと。もう一つは、1930年代に米国史上初めて直接的経済援助によって大量失業から生じる諸問題を軽減する試みがなされたこと。この両者が関連していることは疑いない。
 投獄率は1931年まで急上昇しているが、1931年にかなりの救援予算が組まれたため、その後下降に転じている。1931年から、経済が回復し救援プログラムが減少する1940年まで、経済的救援予算と投獄率は反比例の関係だった―つまり貧困者救援に支出される金が多いほど刑務所に入る囚人の数は少なくなったのだった。このことは、失業と投獄率との正比例関係と並んで、米国における刑務所問題の経済的基盤を物語るものである。しかし、現代の傾向を見ると、資本主義と投獄率の関係が根本的に変化したかのように思える。
 現代の刑罰慣行の転換期は1980年代前半に起きている。刑務所システムを階級闘争の武器として最大限利用することは、レーガン政権時代から始まった新保守主義の方針の一つである。米国矯正協会(これの前身は、前述セリンが第二次世界大戦中に講演した米国刑務所協会)の1981年総会で基調講演をしたルドルフ・ギリアーニ司法副長官は、次のような古典的保守主義の言葉で、その方針を表現した。「そもそも人類は外部からの侵略と内部からの略奪に備えて、防衛機構として政府を作りました。従って、国防と国内治安は政府の二大機能であります。わが国の刑法システムはその一翼を担っているわけです」。その後の合衆国政府は、クリントン政権も含めて、この1980年代初期に確立された刑務所政策を順守した。
 もう一度図1、図2を見ると、米刑務所の現在の機能は過去に前例がないものであることが分かるだろう。しかし、それだけではないのだ。この高い服役人口は単に氷山の一角にすぎない。いわゆる「矯正的」統制下にある者がさらに数百万人もいるのだ。矯正統制下にいる成人人口の総計は今や660万人を超えるだろう。その内訳を見ればもっと分かりやすい。2001年刑務所に服役している数はその20%にすぎず、その他は、保護観察(執行猶予)中の者が60%、拘留中11%、仮釈放中9%であった。それぞれのカテゴリの人数は1980年―2001年の間に急増した。
 それに対応して米国の刑法システムの運営費も上昇した。1982年から1997年の間に矯正に関する費用は381%に跳ね上がり、警察経費は204%、裁判運営費は267%に増加した。刑法システムに関する直接経費の総計は同期間に262%も増加したのであった。1997年の刑法関係への支出額は1300億ドルに近づいた。この増加傾向がいつまで続くのか見当もつかない。

 

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