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研究会報告:共同体・市民社会・アソシエーション
社会領域、社会類型、そして社会運動
アソシエーション理論の視点から

これまで幾度となく論議されてきた三つの社会モデルについて、最新の知見をもとに改めて考える、短期集中研究講座「共同体・市民社会・アリシエーション」。今回はその最終回として、アソシエーションをめぐって、大阪経済大学の田畑稔さん(哲学)にお話を伺った。以下は、その概要である。

現実認識と類型論

 今日は、第一に、いわゆる現実認識と類型(モデル)論の関係について、第二に、社会類型の意味について、第三に、社会領域と社会類型の関係について、第四に、いま実践的に問われている社会運動や地域社会(コミュニティ)などの問題について、最後に、以上の文脈を踏まえたアソシエーションの意味について、という形でお話ししたいと思います。
 まず、現実認識と類型論の関係について。連続講座のテーマにある「市民社会」「共同体」「アソシエーション」、これらはいずれも社会類型です。つまり、あくまでモデルであり、現実認識と同じではありません。私の整理では、生活実践であれ産業実践であれ歴史変革実践であれ、実践は常に一定の状況の内部で、一定の目的を持って行われます。だから、情況認識が伴います。歴史変革実践の場合、それは現状分析という形になります。歴史変革的実践を自覚的に行おうとすれば、単純に自分の願望だけで動くわけにはいきません。情勢つまり政治や経済の具体的な動きを分析しながら、主張や行動を展開していくことが不可欠なのです。
 だから、現状分析は類型論では済まないわけです。もちろん、現実のさまざまなデー夕を集めて分析していくには、徒手空拳というわけにはいきません。何らかの導きの糸が必要です。その意味で類型論は重要ですが、両者は同じものではありません。類型論の重要な機能はもう一つ、運動の実践的目的や現状批判を際立たせる役割があります。個別具体的な課題に関する議論だけでなく、それらを総合するような大枠の目標を設定し、そこに向けて現実を総体的に批判する必要があり、それを主に担うのが額型論です。いわば、信条としての世界観と客観的な世界の現状分析との中間に類型論が位置していると言えるでしょう。
 ところで、現実を認識する過程は非常に複雑ですが、基本的には次のような順序をたどると見ることができます。まず、たとえば自然災害や経済恐慌の発生といった、さまざまな危機に見舞われる。そうすると、我々はそうした危機に立ち向かう形で自発的に社会運動に取り組むことになる。最初はともかく運動を展開していけばいくほど、当事者は自らの運動について自覚的に捉える必要が出てきます。それは同時に、自らの運動が対象とする危機がどんなものか、いわば危機を構造的に認識することでもあるわけです。そうした中に知識人の一部が合流し、構造的認識を支える場合もあります。かつて、マルクスが現実に生じている労働者の運動や、その歴史的条件の理論的定式化を試みたように。
 自然科学的認識であれ社会運動の情況認識であれ、現実の認識の歴史的社会的過程というものは、だいたいこのようにモデル化できるでしょう。そうだとすれば、現状分析に至る現実認識についても、危機や運動の展開といった実践過程、さらにはそれらの基盤となる歴史的過程との絡みで進展していくと捉えられます。
 その中心に置かれるのは、対象を概念的に捉える概念把握です。要するに「人間とは」とか「社会とは」というように、「〜とは」として捉える認識。我々は普段なら、そんな考え方をすることはありませんが、危機に見舞われると、「そもそも人生とは」とか「仕事とは」という形で考えざるを得なくなる。概念把握は一般に、世界全体というものを常に想定しながら、その本質的な諸側面を捉えていくという作業です。いつも現実の総過程を前提にしながら、その中から核心概念を抽出し、それによって世界全体を統一的に把握していくわけです。

 たとえば、マルクスの場合には、ご存知のように核心概念として「資本」というものを抽出し、それに「剰余価値を生産する価値」という抽象的な定義を与えます。ここを出発点にして、徐々に具体的な世界に追っていくことになります。たとえば商品から資本へ、あるいは生産過程、流通過程、総過程という形で分析と総合を進めます。また、商業資本主義や産業資本主義、帝国主義や現代資本主義といった形で、資本主義の段階論的な研究も必要になってきます。ほかにも、そもそも資本主義はどうしてヨーロッパの一角で生成したのか、日本はどうして比較的早期に資本主義を受け入れたのかという、いわゆる生成史的研究も重要です。はたまた、主に経済領域に関わる資本主義とその他の領域、つまり近代国家や近代の思想や哲学、諸科学との関係といった問題も問われてきます。
 たとえば、この世界をアソシエーションという概念で捉えようとした場合にも、いま触れたような概念的認識にまつわるさまざまな課題に迫られます。だから、多様な形態を見なければならないし、歴史的な生成について跡づける必要もある。未来展望としても、当然ながら楽観的展望や悲観的展望、中間的な妥協路線など、さまざまな想定が必要になってきます。概念把握をしようとすれば、こうした一連の課題は避けられません。と同時に、現実は常に概念把握を越えて進んで行きますから、概念把握が完結することはありません。マルクスの場合でも、取り組めたのはほんの一部です。しかし、それでも我々に大きな影響を与えているのは、近代資本主義について概念把握を行うための道筋を明らかにしたからです。
 もっとも、概念把握だけで社会運動ができるわけではありません。先ほど触れたように、現実の認識過程は、危機に陥って運動による対応が生じ、その中で自らの運動が置かれている状況の認識を迫られるという形で進んでいくわけですから、ヘーゲルのように概念的認識だけが自立しているわけではない。むしろ、日常知、技術知、科学知、哲学知の結合として認識の社会的・歴史的総過程が進むというのが、私の考えです。
 日常知でいうと、認識過程の出発点には生活者の危機感がある。日常生活の危機に直面して初めて、生活者は新たな社会運動に迫られる。たとえば、歴史上のさまざまな革命の原点を見ても、ロシア革命なら「パンと平和」、アメリカ独立革命は「コモンセンス(常識)」、フランスの革命は「反増税」と、いずれも生活現場での危機から生じたものです。
 と同時に、具体的な運動として展開していく場合には、さまざまな駆け引きをはじめとする技術(「政治のアルテ」とか「相互にアソシエートする技」など)として、政治や社会運動が技術知においても歴史的に伝承・再生産される必要がある。こうした技術知の側面もあります。それらを含めて認識過程をみておく必要がある。
 ただし、繰り返しになりますが、概念把握を避けて日常知と技術知だけに依拠しても、本格的な社会運動にはならない。これは忘れてはなりません。確固とした対抗理論が成立していなければ、圧倒的な敵のヘゲモニーに包摂されてしまい、対抗ヘゲモニーは構築できません。日常知と技術知だけではヘゲモニーは獲得できないのです。
 さらに言うまでもありませんが、現実認識と事実認識は違います。事実を列挙すれば現実認識になるというのは誤りで、心理学や社会学や経済学といった実証科学によって事実をいくら積み上げても、それは現実認識にはなりません。というのも、現実を捉えようとする主体自身は世界の外から客観的に認識しているわけではなく、現実の世界の中にいて実践しつつ認識している以上、事実を捉える立場そのものも問題にされざるを得ないからです。実際、マルクスの場合でも、実証科学の側から“非科学的だ”とか、“信念の告白に過ぎない”といった非難がたびたびなされました。その背景には現実認識と事実認識の違い、現実と事実の存在論的な意味の違いという問題があると言えます。

社会類型の問題

 次に、社会類型の問題に移ります。最初に言ったように、現実認識と類型論を混同してはだめですが、類型論は二つの意味で非常に重要な役割を果たします。つまり、一つは現状分析をする際の基本的な枠組みとなり、それを基盤にして具体的なデータを収集し分析することができる。一方、我々は完璧な現状認識がなければ実践ができないわけではありません。我々の実践は基本的に、眼前にある世の中に対する根本的な批判、そして未来の展望に関わる根本的な目標の二つを根拠に行われます。こうした、いわば世界観を構成するにあたって大きな意味を持つということが、類型論のもう一つの重要な役割です。繰り返しますが、市民社会派の「市民社会」であれ、私の場合の「アソシエーション」であれ類型論は現実認識と世界像の中間に位置する非常に重要な役割を果たしているわけです。
 イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズの『社会学』(第5版、2006年)では、社会の諸類型として、前近代については「狩猟採集社会」「牧畜社会」「農耕社会」という三つの類を、近現代については「第1世界の社会(産業資本主義社会)」「第2世界の社会(ソ連型社会主義社会)」「第3世界の社会(発展途上国社会)」「新興工業国」という四つの類型を挙げています。これらが適切かどうかはともかく、これまで人間がどんな社会を形成してきたのか、歴史的に類型化する試みであることは確かです。
 これに対して、現代社会の分析につなげるためには、社会統合の様式の違いを基準にした類型化が必要だという観点から、私の場合にはマルクスに依拠して、「自生的共同体」「権力」「市場」「アソシエーション」という四つの頼型化をしています。こうした類型化は、たとえば近代社会については、マックス・ウェーバー(ドイツの社会学者)の「官僚制」やフェルディナント・テンニース(ドイツの社会学者)の「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」、ロバート・M・マッキーバー(アメリカの社会学者)の「コミュニティとアソシエーション」、前回のテーマだった日本の市民社会派やユルゲン・ハーバーマス(ドイツの社会哲学者)の「市民社会」といったように、ほかにも多様に提出されています。
 社会というものは、単なるバラバラな個人の集まりではありません。個々人は全体社会から規定されるだけではなく、自発的に全体社会を再生産してもいます。それを社会統合の様式と言いますが、時間的にも空間的にも異なる多様な様式を類型化するわけです。
 社会統合の様式を軸にした社会類型には、社会の変動や変革といった変動視点が絡んでいます。たとえば、「市場」による「自生的共同体」の解体、「市場」と「権力」を克服する「アソシエーション」という視点。あるいは、伝統的社会である「ゲマインシャフト」の崩壊によって近代社会である「ゲゼルシャフト」へ、そこからさらに成員の自由な意志に基づく協同体「ゲノッセンシャフト」へ、という視点。まさに、現状分析に取り組む立場や未来社会の展望といった部分と密接につながっているわけです。
 だから、たとえば「市民社会」についても、マルクスの用例との違いを確認して済ますのではなく、市民社会派の人々が現代においてどのような実践的課題や未来構想との関係で、それを核心概念として抽出しているのか、そうした点から検討したり批判したりすべきではないか、と思うわけです。

社会諸領域と社会類型の関係

 三点目は、社会諸領域と社会頸型の関係についてです。社会領域は、我々の身近なところでは、まず生命再生産領域(親密圏、家族)があります。また、グローバルに広がる経済領域があり、社会の公的総括に関して固有の領域である政治・国家領域があります。さらに文化領域もありますが、これは現在では、教育・学習領域や科学技術領域、メディア領域というように分けて考える必要があるかもしれません。とくに、この間の情報革命は人類史的にも非常に大きな影響を持つと考えられるので、それを文化領域で括ってしまっては、新しい変化の意味を捉え拐なう可能性もあります。これは今後の検討課題です。
 いずれにせよ、社会にはさまざまな機能に応じて領域があります。そのため、それぞれの社会諸領域について、社会類型との絡み方が問題になります。たとえば経済領域、とくに日本の経済領域を見ると、会社というものは明らかに経営権カシステムとして組織されている。そうした会社が生産した財やサービスは、市場という物象化された社会類型で人と人とをグローバルにつなげていく。こうした形で、今日の優勢な類型として権力および物象化という社会類型が前景に出てくる。大枠では、そうした形になると思います。
 しかし、経済領域には同時に、協同組合のようなアソシエーション型の類型も絡んでいます。にもかかわらず、たとえばハーパーマスのように、経済領域はすべて権力類型と物象化類型だと捉えてしまえば、協同組合の位置づけは皆無に等しくなり、アソシエーションとしては言論空間だけが突出する理論になってしまう。これは非常にまずい。実際には、経済領域でも社会類型に関わる対抗関係が存在しているのです。領域と類型とを区別する所以です。
 もちろん、領域によって優勢な類型は異なります。たとえば、政治領域では言うまでもなく権力類型が優勢ですが、同時に対抗ヘゲモニーも働いています。政党やさまざまな市民の対抗運動といったアソシエーション類型も重要な要素になっています。逆に文化領域で言えば、一見してアソシエーションの類型が優勢なように見えますが、一皮むけば権力システムとか商業主義が露骨に機能しているわけです。
 あるいは、生命や生活の再生産という点で主要な領域である家族領域では、自生的共同体類型のいくつかの側面が再生産されています。たとえば、親は選べないし地域も選べない。たしかに、形式上は移動の自由があり、グローバル化の中で地域の拘束力が薄れたとはいえ、仕事や家庭を考えれば、そう簡単には移動できません。
 ただし、婚姻関係で言えば、合意による婚姻関係が優勢になっており、部分的には同性間の婚姻も認められる事例があります。その意味では、アソシエーション類型も含まれている。とはいえ一方では、依然として近代家父長制も根強く残っている。これは権力類型の再生産と言えます。
 このように、さまざまな社会領域と社会類型との絡み方によって、その領域において優勢な類型をめぐる闘争が行われているわけです。これは現状分析が扱うべき部分です。つまり、社会領域と社会頼型を分けて考えた上で、それらの関係については現状分析が扱うことになります。

社会運動の問題

 さらに、社会運動について考えます。なぜ社会運動が重要かと言えば、一つは、議会制民主主義の限界が露呈しつつあるという現状があるからです。つまり、民主主義の新たな実践モデルを模索するという文脈で、社会運動が注目されているわけです。もう一つは、従来の旧い社会運動との関係で「新しい社会運動」が注目されているということです。
 この点では、ヨーロッパの事例が象徴的です。ヨーロッパでは第二次大戦後、労働組合を支持基盤として労働者政党がつくられ、労使の合意を立法などで政治的に定着させることを通じて、資本主義の枠内での改良が行われました。こうしたあり方は、いわゆる「福祉国家」と言われるものです(ドイツでは「社会国家」と表現されます)。ヨーロッパ以外にも、先進資本主義諸国ではおおむね福祉国家によって、労働と資本をはじめとするさまざまな社会的矛盾を調停し、「豊かな社会」を実現してきましたが、60年代末ごろから、そうしたあり方の限界が露わになってきたわけです。
 いわば、福祉国家によっては調停できない社会の矛盾が自覚され、それに応じて公民権運動や学生反乱やエコロジー運動、フェミニズム、反核、反原発、ライフスタイル、反資本主義的なオルター・グローバリズムなど、さまざまな形で社会運動が噴出したと言えます。それらを総称して、「新しい社会運動」と言われます。「新しい社会運動」は、一部を除いてマルクスの時代にはなかったものであり、その意味で、新しい歴史的配置の下での展開です。運動の具体的なあり方を見れば、もちろん長所も短所もありますが、基本的に新しい枠組みの社全運動、つまり福祉国家に集約されることになった旧い社会運動とは異なる、産業社会以後の時代の課題に対応した社会運動と言えるでしょう。主導的な社会運動のカが、ある時期から、そうした形で発揮されるようになったわけです。「新しい社会運動」は決して社会主義運動ではなく、さまざまな志向を持った多様な運動です。私見では、いわゆる社会主義運動も、旧ソ連や中国など国家集権型社会主義の崩壊や、旧い社会民主主義の限界が露呈するといった事態を受けて、「アソシエーション革命」を基軸に据えて運動の再生を模索する方向に進みつつあるように思われます。もちろん、「アソシエーション革命」という言葉を用いるかどうかは別ですが、そうした意味での新しい枠組みの社会主義運動が世界各地で生じています。それらは現実には「新しい社会運動」に合流し、「新しい社会運動」の一要素を形成しながら、「新しい社会運動」と自覚的にどう結びついていくのかが問われている、そうした現状にあると思います。

コミュニティの問題

 続いて、コミュニティの問題に触れたいと思います。コミュニティという言葉を辞書で引くと、だいたい「地域」や「地域社会」という訳が出てきます。だから、いわゆる伝統的な共同体、自生的共同体とは微妙な関係にあると言えます。実際、いま我々が実践的に問われているのは地域社会としてのコミュニティだと思いますが、それが自生的共同体とどう関連付けられるか、かなり難しい問題です。
 この点では、実践的に問われている問題に集中することから始めるべきだ、というのが私の問題意識です。つまり、確かにこの間、多くの人々が「共同体」に強い関心を示していますが、それは伝統的な共同体、自生的共同体を引き合いに出しつつ、実践的には今日の地域の再生を問題にしていると思います。したがって、そうした言葉に込められている多様な意味を読み解きつつ、自分たちはどのように実践的に介入していくのか、そうした概念整理の仕方をするべきではないのか、ということになります。
 そうした前提の上で、コミュニティについては、とりあえず共同性が歴史的に複雑に集積した地域社会という意味で用いることにします。地域というのは、ある種の場所とか空間です。アソシエーションは世界レベルでも町内レベルでも、共通の目標を持った人々が集まれば成立しますから、場所による拘束は必ずしも強くありません。
 しかし、我々が日常的に生きているコミュニティは通常、ある限定された場所であり、場所による拘束が強いと言えます。そうした特定の場所で、非常に長い歴史を通じて共同性が集積しており、それは1日や2日でつくれるものではありません。集積された共同性の内実は、たとえば共同所有、協同労働、共同管理、相互扶助、共同組識、共同規範、共同行動といった包括的なものとなります。
 もちろん、アソシエーションも共同の目的で財や能力を持ち寄って運営される連帯組織ですが、特定の目的に応じた共同性の集積が中心となり、コミュニティのような包括的な共同性は基本的に必要としません。その点は分けて考えなければならないと思います。
 ただし、コミュニティとアソシエーションが理論的に見て異なる内容を持っているからと言って、実践的にも交わらないかと言えば、そうではありません。コミュニティはただそれだけで、政治や経済、文化などさまざまな領域での共同の目的を実現できるわけではありません。そのためには目的に応じて、自由な意思に基づいた組織が必要となります。つまり、アソシエーションは、コミュニティの内外で共同目的を実現するための組織を張り巡らせることを通じて、いわばコミュニティの実質を形成していると言えます。
 しかし同時に、当然ながらコミュニティにはアソシエーションの他にも、旧来の地縁血縁や末端行政に基づく権力システム、あるいは営利組織と市場経済が存在します。むしろ現実には、それらこそがコミュニティの内実を形成しているとも言えます。だから、コミュニティにおける共同性の内訳については、きちんと現状分析しなければいけません。
 ただ、一口にコミュニティといっても、集積している共同性の質や重心は農山漁村、地方の町、地方の中心都市圏、大都市圏、首都圏など、地域の経済地理的条件や歴史的条件によって非常に多様である。最近、コミュニティ再建の問題を「農の思想」と重ねるような構想が多いですが、それはこうした歴史的条件に基づいているからでしょう。しかし、それ以外の課題や構想がないわけではありません。
 関連して、先ほど触れたように、地域社会は諸個人にとって生育環境や生活環境や育児環境を、また多くの場合労働環境を形成しており、生活世界としての意味を持つと同時に、出身地や郷里といった包括的なイメージとして人生に大きな影響力を与えています。それは事実として確認すべきですが、いくつか留保も必要です。
 というのも、コミュニティだからといって、現実のコミュニティはそうした包括的なイメージだけで動いてはいないからです。権力システムもあれば、資本主義の支配的な力に貫いている。コミュニティと権力と資本主義は、現実には接合されているわけです。
 実際の地域社会では、行政などの公的諸機関や生産や流通などの営利諸組織、さらに多様なアソシエーションが、コミュニティの内外で活動しています。その中で優勢なのは、官僚システムと営利組織と市場経済であり、これが昔からある共同性の急速な空洞化を招いています。こうした現状を踏まえ、なおかつ過去への単純復帰はあり得ないとすれば、自治的連帯組織であるアソシエーションが主体となってコミュニティの共同性を再び(そして新たに)構築していくということになるはずです。
 とくに、支配やヘゲモニーについて言えば、コミュニティは昔も今も支配やヘゲモニーがなかったわけではなく、むしろ併存し入り交じっていたと言えます。たしかに、支配権力の世襲といった事態は珍しくなりましたが、いまでも経済的・政治的・文化的・歴史的背景を持つ地域の有力者たちがさまざまなネットワークを組み、それが中央の権力と地域住民との問に支配的な組織を形成していると言えるでしょう。
 そのほかに考えるべき問題として、宗教的信念や民族的部族的出自の共有という問題があります。ヨーロッパで伝統的に教会を中心にした教区がコミュニティの単位になってきたように、伝統的な共同体では宗教や地縁・血縁が非常に重視されました。しかし、これは裏を返せば共同体の閉鎖性とつながってもいました。
 したがって、将来のコミュニティを考える場合、自然環境や景観、歴史、史跡、祭礼、風俗、伝統技法などは、狭い集団の排他的な価値としてではなく、生活世界にとっての普遍的な価値という基準から、積極的に共有される必要があります。そうした課題も闘われてくると思います。

アソシエーションの問題

歴史的文脈をめぐって

 私はこの十数年、アソシエーションを中心にして歴史や運動の課題を考えようと主張しています。よく誤解されますが、アソシエーションの原理的な定義から出発しているわけでも、あるいはマルクスヘの信奉から出発しているわけでもありません。
 むしろ、現実の歴史的文脈から出発し、そこからマルクスの読み直しをしています。だから順序が逆です。現在の社会を見れば、特定の理論を背景にしなくても、いわば自然発生的にアソシエーション型社会への注目が数多く存在しています。そこを起点にアソシエーションの概念を設定し、現状分析や未来展望へつなげていくという順序です。大きな話なので、個々の展開については荒っぽい部分もありますが、変革的な実践とのつながりという点では織り込み済みのことです。
 さて、アソシエーションに着目する現実の歴史的文脈ですが、まず、戦後の日本をはじめ先進諸国でカを発揮してきた、いわゆる「福祉国家」が1970年代に限界を露呈し、それに代わるものとして持ち出された新自由主義路線も破綻が明らかになった現在、市民の自主的な非営利連帯組織に依拠する「アソシエーティブ・デモクラシー」の方へ舵を取る以外にない現状を確認したいと思います。これが第一の文脈です。
 たとえば、この間、鳩山内閣で「新しい公共」をめぐる議論がありました。私は「新しい公共」それ自体に意味付与をしているわけではありません。そうした言葉が政権中枢で使われるところに、アソシエーティブ・デモクラシーヘのシフトが進んでいるという現実の趨勢が反映している。注目すべきはこの点であり、ここから出発すべきなのです。
 第二の文脈として、経済領域で言えば、少なくとも先進諸国ではフオーデイズム型の経済が役割を終える中、ポスト・フォーデイズム経済の課題として、対人サービス部門や地域密着型の生業に対する需要の拡大、あるいはワークフェア型福祉への志向を背景に、多様な協同組合型経済組織の可能性が見直されていることが挙げられます。
 日本のGDP(国内総生産)に占める割合では、すでに製造部門よりサービス部門の方が優位になっています。製造部門はともかく、サービス部門で見れば、必ずしも営利企業が圧倒的に優位とは言えません。サービス部門が人対人の人格的な行為や互助的な関係を重視する点では、利潤や効率を第一義とする営利企業よりも、むしろ非営利組織や協同組合が役割を発揮できる側面も充分あります。
 実際、将来有望とされる先端的な産業は、かつての製造業のような雇用を生むことはありません。その結果、最近の労働者の階層分化を見ると、まず「特権的な知的労働者」があり、さらに労働者の本体である「平均的な熟練労働者」の中にも正規雇用と非正規雇用という区分が鮮明になっています。こうした現状についても、アソシエーションの視点から介入するチャンスではないかなと思います。
 さらに第三の文脈は、経営権力をどうコントロールするかという問題をめぐる動きです。この点はこれまで、松下幸之助のように経営者の道徳に依拠したり、あるいは官僚的に統制を行うという形で維持してきました。しかし現在では、「企業の社会的責任」という言葉に象徴されるように、消費者団体や労働組合、地域の諸団体など利害関係者(ステイク・ホールダー)に情報を公開し、説明と交渉というコミュニケーションによってモラル・コントロールする方向へ移るよう迫られています。
 これは情報革命の恩恵でもあるし、グローバル化の影響でもあるでしょう。ヨーロッパと比べると、日本は未だ旧態依然とした経営権力のコントロールが根強いとはいえ、それでも労働者組合や消費者団体や市民の諸組織といったアソシエーションが交渉能力を蓄積し、社会的な発信を行う場面が確実に増えました。こうした趨勢は、今後ますます強まっていくでしょう。
 第四の文脈は、安全保障の中心軸が「国家の安全保障」から「人間の安全保障」へと移行していることを背景に、国際社会においてNGO(非政府組織)の役割が非常に重視されてきているという状況です。この間のアフガン戦争やイラク戦を見ても分かるように、国家が軍事力を行使すれば問題が解決するどころか、ますます収拾がつかなくなってしまいました。むしろ、国家というものは自らの安全保障のために「人間の安全保障」を二の次にする、そうした歴史的な教訓が誰の目にも明らかになったわけです。
 言い換えれば、包括的な安全保障を考える際には、どうしたら地域の生活を再生産できるのか、教育システムをどう再生するか、水をどう確保するか、食糧をどう確保するかといった次元で人間の安全保障を焦点にせざるを得ない、そうした問題が国際社会で公然と議論されるようになり、それがNGOなどの活躍とつながっていきました。
 もちろん、私はNGOだからいいとか悪いとか言いたいわけではなく、NGOが注目を洛びる歴史的文脈を問題にしているのです。どんな運動であれ、それぞれ具体的に見れば、問題を抱えているのは当然ですが、だからといって、そうした歴史的文脈の出現と、そこへの介入のあり方といった課題を切り捨てては意味がありません。
 第五の文脈としては、生活世界の空洞化の問題が挙げられます。先ほどのコミュニティ論とも絡みますが、現在は伝統的な家族・親族や地域社会のあり方が大きく変容し、間違いなく空洞化が深まっています。それに伴って多様な問題が浮上しているわけですが、伝統的な形に固執して問題解決への展望が開けるかといえば、そうはいかないことも明らかです。
 たしかに、伝統への憧憬というロマンティシズムは非現実の魅力を持っていますが、それでもって現実のコミュニティが求める共同性を集積できるわけではありません。むしろ、生活世界に密着したアソシエーションによってコミュニティの需要に応え、新たな共同性を一つ一つ積み重ね、それが結果としてコミュニティの再建、あるいは新たなコミュニティの形成につながっていくという形で考えるべきでしょう。
 最後に第六の文脈は、先はども触れましたが、旧ソ連や東欧、中国など国家集権型社会主義の歴史的崩壊、あるいは旧来型の社会民主主義が限界を露呈したことを受け、アソシエーション型の社会主義を志向する動きが生じていることです。
 現状では、そうした動きは必ずしも明確な組織や運動を伴っているわけではありませんが、現実に生じている格差や貧困を踏まえ、資本主義のオルタナティブとしての社会主義が構想されていることも間違いありません。その際、旧い社会主義を克服する重要なポイントとしてアソシエーションをキーワードとした新しい社会主義の構想や実践が、世界各地で生じているわけです。
 その意味では、中国におけるアソシエーションの問題は、結社の自由の確立という古典的意味でのアソシエーションにとどまらず、アソシエーション型社会主義の展開という新たなアソシエーション革命の課題とも重なるように思います。

分類をめぐって

 以上、アソシエーションに着目する歴史的文脈を踏まえて、次にアソシエーションの分類に移ります。これは、「アソシエーションとは?」つまりアソシエーションの概念把握に向かう重要なアプローチです。というのも、一口にアソシエーションと言っても現実には非常に多様な形態があるため、個別の形態、特定の形態に過度に着目して全体像を見失う危険性があります。そこで、いくつかの基準にしたがって多様な形態を区分し、その上でアソシエーションの革新的な意味を鮮明にする必要が生じてきます。
 その中心的な分類基準をめぐって、これまでアメリカやヨーロッパでさまざまな議論がなされてきました。第一の分頼は、以下のようなものです。まず、各種の団体や組織から国家部門(第1セクター)と営利部門(第2セクター)を除外すると、非営利民間組織(第3セクター)という括りが現れます。次に、それを連帯の性質に応じて区分した結果、一つは公共的利他的連帯組織、もう一つは自助共助的連帯組織、さらに両者の中間的機能を果たす中間的組織という形で分顛することができます。
 公共的利他的連帯組織は、仲間同士で互いに助け合うよりも、たとえば障害者や高齢者といった特定の対象を支援したり、環境問題や地域再生といった公共的な課題に取り組むために作られた組織と言うことができます。いわゆるNPO(非営利組織)や中間的が含まれます。
 これに対して自助共助的連帯組織は、文字どおり仲間同士の助け合いを通じて自分たちの利益を実現したり、生活を維持したりすることを目的とした組織です。さまざまな協同組合や労働組合が該当します。
 両者の中間的な組織というのは、たとえば障害者と健常者が共同で事業所を運営するような場合、障害者支援のための利他的連帯組織という側面がありながら、同時に障害者自身の自助共助的連帯組織という側面も備えている、そんな組織です。社会的協同組合や社会的企業という名称で、ヨーロッパを中心に発展しているようです。
 ともあれ、分岐点となるのは公共的利他的連帯組織か自助共助的連帯組織か、という部分です。これは、将来の政治や経済のベースをどう考えるかという点で重要だと思います。たとえば、アメリカにおけるNPO研究の第一人者レスター・サラモン、さらにドイツのハーパーマスなどは、アソシエーションを公共的利他的連帯組織に限定し、協同組合や労働組合など自助共助的連帯組織を除外しています。アソシエーションを専ら「非営利セクター」に限定するため、経済領域で活動する協同組合や労働組合はその範囲から外れるわけです。
 しかし、未来社会を構想していく際に、経済領域においてアソシエーションをどう形成していくかという問題を欠くことはできません。先ほどの歴史的文脈で触れたように、この間、国家や企業がベースとなってきた従来の社会に対して、未来社会では自助共助的な連帯組織がべースになるという見通しが浮上しています。もちろん、それは自動的な移行ではあり得ません。NPOやNGOが力を発揮することを通じて、経営権力や官僚システムから権限や資金をアソシエーションの側ヘシフトさせ、それと同時に経済領域におけるアソシエーションが経営権力や官僚システム以上に人々の需要に即した経済のあり方を展開していく、そうした両面が必要なのです。どちらが欠けても未来社会にはならないでしょう。
 たしかに、現状では市場が圧倒的に席捲しており、各国の政府や国際機関といった公権カ、G8(主要8カ国)やG20(主要8カ国+欧州連合、新興経済国11カ国)といった各種の協議機関によっても、経済のコントロールは困難になっています。基本的に、日常生活の再生産領域は家族・親族に任せ、いわゆる経済領域はまったく市場に依存し、バブルの崩壊といった危機的局面には公権力が必要に応じて介入するも、現実には力が及ばない。こうした形で破局が現れているのが現状だと思います。
 こうした状況は変える必要がありますが、だからといっていきなり市場をなくすことはできず、国家など公権力による市場の統制にも限界があります。となると、現在の市場が優勢な状況から非営利民間組織(第3セクター)が優勢な状況へと変えていくこと、それが変革の中心的な枠組みであるとともに実践的目的であると考えられるのではないでしょうか。国家部門(第1セクター)と営利部門(第2セクター)の支配を覆して第3セクターが優勢を確保していく、そうした社会変革論から、以上の第一の分顛を捉えることができると思います。
 第二の分顛は、活動領域によるものです。たとえば、政党、政治グループ、市民運動団体といった政治的アソシエーション。また、協同組合、労働組合、消費者団体、地域通貨といった経済的アソシエーション。あるいは、障害者団体やホームレス支援団体といった社会事業的アソシエーション。さらに、芸術、学術、スボーツなどに関する文化的アソシエーション。こうした分類が可能でしょう。
 第三の分類は、既存のシステムの堅持か変革かを基準とする分類です。私にとっては非常に重要な部分です。あたかも私が“アソシエーションの形式的な分嶺に該当すれば何でもいい”と主張しているかのような誤解も見更けられますが、それはまったく違います。
 アソシエーションの中には、当然ながら体制側のヘゲモニー機能を担う「体制的アソシエーション」が存在します。それこそ経団連や商工会議所、ライオンズクラブといった著名な組織から、保守系議員の後援会まで多種多様と言えます。グラムシに倣えば、支配とは「強制+同意」で形成されていますから、体制側のヘゲモニー機能を担って同意を調達するアソシエーションは、現在の体制にとって死活的な意味を持つ極めて重要な組織で
す。改めて指摘するまでもないことです。
 また、体制のあれこれの欠陥を補完する「補完的アソシエーション」も存在します。現存するアソシエーションの大多数は、ここに該当するでしょう。アソシエーションに注目が集まる歴史的文脈で触れたように、現在では体制側の同意形成のメカニズムも含めて限界を露呈しています。身近な例では、これまで地域の諸問題については役所に下駄を預けることが多かったと思いますが、最近は人々の需要や要求が多様化したり、地域社会の構成が変化したり、役所もリストラを迫られたりして対応に窮しています。それを受け、まちづくりや高齢者、子どもの問題に取り組むNPOが数多く出現する結果になりました。
 つまり、国家や行政の限界を補完し、国家や行政と個々人とを媒介する中間的なアソシエーションが求められるようになっているわけです。補完的なものである以上、体制を前提としており、その変革などは基本的に考えません。市民としてやるべきことはやろうという認識で関わっている人々がほとんどだと思います。
 もちろん、それとは逆に、対抗ヘゲモニーを担う「対抗的アソシエーション」も存在します。これは体制のヘゲモニーそのものを崩していくとか、あるいは対抗ヘゲモニーを部分的に構築して陣地形成につなげていくといった関心で行なわれているアソシエーションです。
 これまでアソシエーションは、19世紀フランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルが指摘したように、国家と個人の間に位置する中間組織として、いわば「縦軸」で捉えられることが多かったわけですが、第三の分類を踏まえると、社会のさまざまな領域でヘゲモニーと対抗ヘゲモニーを担ってぶつかり合うという「横軸」からも捉えられるようになります。
 さらに第四の分類として、アソシエーション過程の進展という視点からの区分を挙げることができます。既存の諸政党が象徴的ですが、たとえば労働組合のナショナルセンターの一つである「連合」、あるいは農協の場合も、形成の原点においては社会を変えるという共通の目的を実現するために社会の只中から生まれたアソシエーションにもかかわらず、長い年月を経るにつれて変節ないし成熟した結果、かなりの程度体制と同質化してしまった。
 そんな脱アソシエーション化したアソシエーションが存在する一方で、今日の社会におけるさまざまな需要や要求を反映し、社会の前景に出て「志」(こころざし)型でがんばっているアソシエーションも存在します。たとえば、管理職ユニオンや労働者の協同組合、あるいは社会的協同組合や社会的企業などです。実践的には、こうした区分も重要です。
 その他、地域的、全国的、グローバルといった、活動空間の広がりに基づく区分、あるいは、公然・非公然、合法・非合法といった、中国をはじめいくつかの国では依然として重要な問題にかかわる区分についても確認しておきましょう。

概念把握に向けて

 さて、以上を前提にして「アソシエーションとは?」つまりアソシエーションの概念把握を試みたいと思います。この点で、まずは形式的定義と歴史的定義の二つに分けます。というのも、先ほど触れたように、同じ形式的定義に括られても、体制に対する姿勢によって意味が変わってくるからです。したがって、形式的定義だけでなく、歴史的文脈を踏まえた定義、つまり歴史的定義が必要になるわけです。
 アソシエーションは形式的定義としては、自由意志に基づき共通の目的(ただし営利を目的としない)を実現するために財やカを結集する形で結成される民間の(市民の)集団であり、総会など直接参加の民主主義で自治的に運営される連帯組織である、このように言うことができます。
 この形式的定義で何が区別できるか。一つは、共同体型の組織と異なり、特定の連帯目的を掲げているということです。共同体型の組織というのは良くも悪くも包括的に共同性を集積していますが、アソシエーションはそうではなく、組織の目的を記した規約があり、それを承認することでメンバーになるというように、特定の目的を実現するための組織です。また、結成や解散、入退会は自由意志に基づき、複数組織に同時加入も可能です。この点でも共同体型組織とは区別されます。
 それ以外にも、基本的に法と強制で調整される国家領域とも、あるいは基本的に貨幣と競争で調整される市場とも、さらに基本的に慣習と愛情で形成される家族・親密圏とも異なります。アソシエーションは協議と合意で調整されます。
 どんな組織でも、組織である以上、意見や利害の対立は避けられず、常に調整が必要とされます。それが協議と合意という形態で行われていくこと点に、国家領域とも市場とも家族・親密圏とも異なるアソシエーションの特徴を見ることができます。たしかに、市場や国家領域だからといって、協議と合意による調整が皆無ではありません。そうした調整は当然、部分的に組み込まれています。ただし、それは部分的に過ぎません。アソシエーションの場合には、協議と合意による調整が基本だということです。
 これに関連して、市場のように人と人の関係が物象化されず、意識的な人格的関係として再生産されるという点も、アソシエーションの特徴と言えるでしょう。経団連などの組織であっても、実質はともかく形式面では、こうした形式をクリアしているのです。
 とはいえ、私はアソシエーションを社会変革に向けた運動、つまり「アソシエーション革命」として位置づけていますから、形式的定義で済ますわけにはいきません。形式的定義を踏まえ、なぜ現在アソシエーション型の組織に注目が集っているか読み解くことを通じて、歴史的定義を与えることが必要になります。
 もちろん、アソシエーション革命は途上にあるわけですから、掲げられた志向や目標に向かってのプロセスとしてしか定義できません。それを承知で言えば、アソシエーション革命とは、自治、連帯、非営利、協同、エコロジー、新たなライフスタイル、反戦と平和構築などを共通の価値として掲げる歴史的社会運動であり、マクロにみれば資本主義を超える道を実践的に探求しつつ、地球環境危機、情報技術革命とグローバル化という人類史的な転換に立ち向かおうとする20世紀後半に始まる歴史的運動である、このように定義できるでしょう。=おわり=(文責:本誌編集部)


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