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市民環境研究所から:「松本サリン事件」を振り返って

京都に住んで50年、これほど暑い夏はなかったと思う。まさに酷暑である。とくに、1ヶ月間ほど続いた熱帯夜には、暑さ大好きの筆者もほとほと参った。中央アジア・アラル海の夜が恋しい。昼間は45度の酷暑だが、夜は必ず25度以下になる。

そんな日々が続いていた8月5日、1994年6月に発生した「松本サリン事件」の被害者で、事件の最初の通報者である河野さんの奥さん、河野澄子さんが亡くなられた。思えば14年前の事件、澄子さんは14年の長きにわたり、サリン中毒で意識不明のまま闘病生活を送ってこられたのである。事件当初、河野さんは警察とマスコミに犯人扱いされた。筆者自身が河野さん夫妻と面識があったわけでもないが、松本サリン事件発生後の数日間の出来事を思い出した。

14年前の6月28日夕方、梅雨空のうっとうしい天気だったと思う。知人の東京新聞の記者から電話があった。当時、筆者は京大農学部に所属し、公害問題や琵琶湖の汚染問題などに取り組んでいた。その中で交流のあった記者だ。内容は、「松本で有毒ガスが立ちこめ、数人が死亡し、多数が中毒症状を呈した事件の原因はなんだと思うか」との問い合わせ、いわゆる「専門家のコメント」を求められたのである。こちらは毒性学の専門家でもないが、よく知った仲なので、相談に乗った。

今でも覚えているが、毒ガス発生地点と思われる場所には小川が流れ込んでいる池があり、魚が死んでいるという。死者や中毒症状を訴える人たちが発生したアパートとの位置関係などを電話で教えてもらった。その結果、筆者が出した推論は次のようである。「川や池に流れ込んだ毒物が何らかの要因でガス状になったとは考えがたい。池の辺りで焚き火をして農薬を間違えて放り込んだために、ガス化した農薬がアパートに侵入したのではないか。有機リン剤などが怪しいのでは。発生場所と思われる周辺で焚き火の跡を探してほしい」。このコメントは、翌日の新聞に掲載された。

大手の新聞紙上には、「化学物質が川を伝って池に流れ込んだので」などのコメントがあったように記憶している。現場を見ずに、他人からの情報だけを基にして必死で考えた。毒性物質がサリンと判明するのは1週間後である。当時はだれも想像すらできなかった。2年後の地下鉄サリン事件も含め、歴史的な毒物となっていたサリンが、現在の世界に登場したのである。

河野さん宅かその近くに焚き火の形跡がないか探すよう、要請したことが忘れられない。もちろん、筆者のコメントを根拠に警察が河野さんを重要参考人にでっち上げたとは思わないが、河野さんと澄子さんのその後に、心苦しい思いを持っていた。研究活動を生業とする以上、いろんな場面で働かねばならないが、現場を見ずにもの言うのは辛いものがあり、極力控えねばと思う。河野澄子さんのご冥福をお祈りします。(石田紀郎)


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