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アソシ研リレーエッセイ

「妥協」について考える

前号の本欄は、「妥協」をめぐる話だった。実際、頭の痛い問題だ。当研究所でも、催し終了後の交流会などでは、ついつい居酒屋チェーンを使うことがある。本来なら、よつ葉ビル一階にある「身内」の焼き肉屋に行けばよいのだが、予約状況や客席配置などもあって都合がつかない場合が多い。究極的には、よつ葉の食材などで自炊し、鍋でもつつくべきだろうが、事前の人数集約や調理準備、片づけなどを考えると二の足を踏む。そんなこんなで、妥協を迫られることになるわけだ。

妥協なしで済ませられれば、それに越したことはない。だが、実生活では多かれ少なかれ「日々是妥協」である。人間は無から生まれるわけではなく、特定の諸条件の中に生まれ、そうした諸条件に規定されて日常生活を営んでいるからだ。自らの信念と異なっても、外的な諸条件は容易には変え難い。信念を貫くあまり常に外的条件とぶつかっていては、安定した日常生活が送れない。そこで、一定の線引きの上で妥協を行うことになる。不可避とも言える過程である。

もちろん、信念を貫くことは尊いが、信念を堅持する度合いによって正当性の多少が決まるわけではない。仮に客観的な正しさを備えているとしても、それが直接的に共有されにくい場合には、部分的に譲歩しながらも本質的な部分を維持する形で、本質的な部分への共感を拡大していくことは大いにあり得る。逆に、外的な諸条件を無視した信念への執着は、ともすれば排他的な自己絶対化につながりかねない。「一将功成り、万骨枯る」式のやり方は、魅力を感じる一方で、政治的にも思想的にも倒錯していると言わざるを得ない。

実際、世の中に存在する諸問題に取り組もうとすれば、どれ一つとして妥協の存在を無視できない。交渉などでは、100%を目指しつつ80%で手を打ったり、あるいは最初から120%をふっかけ、妥協したかのように見せつつ、実は100%を確保するなど、さまざまな対応策が必要となる。また、妥協は対立相手との間だけでなく、問題に取り組む仲間の中にも生じ得る。80%を受け入れる声が主流となった場合、なお100%を目指すのかどうか、意見だけでなく仲間の輪そのものが割れる可能性もある。これも避けがたい現象だ。

こう考えると、妥協を拒絶する思想や組織のあり方は、一見強固なようでも、実は非常に脆い部分がある。部分的な妥協がそのまま全面的な敗北となり、いったん妥協すれば最後、歯止めが効かなくなりがちだからだ。「機動戦」と「陣地戦」の比喩で言えば、長期にわたる「陣地戦」の過程は、当初から妥協の可能性を含み込んだ上で、妥協の原則を定め、共有しておくことが重要だ。

実際には、妥協はギリギリの線で生じることが多く、余裕を持って対処できるような事例は極めて少ないだろう。しかし、だからこそ、その妥協が何を獲得するためのものか、目標に向かう過程で避けられないものなのか、等々に関する議論と認識の共有が欠かせない。それを可能にするのは、一つには、上意下達のピラミッド型組織ではなく、徹底した公開と民主的運営を旨とするアソシエーション型の組織構成であり、もう一つには、過去の理論や運動の蓄積、とくに敗北や後退戦における苦闘から、学ぶべき教訓を適切に汲み取る視点であると思う。(山口 協)


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