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研究会報告:「農」研究会

「農」の全体性と循環性

「そもそも『農業』とは何か」「『農』から現代をどう見るか」などなど、甚だ漠然とした問題意識を煮詰めるために始めた「農」研究会。折々の関心に合わせてテキストを選び、「農」の回りを巡り歩いているが、毎回それなりに発見がある。最近は、守田志郎『農家と語る農業論』(農文協、初版1974年)をネタに、同意点や疑問点などを論議した。以下は、その際に提出された参加者の意見である。

「農業類型」という視点

農業をどう捉えるか。これは大問題だ。今日では、農業は単なる職種の一つと考えられ、工業生産のあり方を範型に、原材料を投入して生産物を産出する一連の過程として理解されがちである。こうした見方に対しては、農業は単なる産業ではなく、自然に依存した循環的な営みだ、との反論がある。後者が正しいことは言うまでもないが、対象としての自然の制約性や循環性を一般的に強調するだけでは不十分だ。農業という形態を通じて自然の循環がどのように営まれ、人間はいかにしてそれに即して自らを再生産してきたのか、そうした関係のありようを看て取る必要がある。

この点で、守田の視点は明確である。それを示すのが、第1講「農業生産力論」と第6講「農法論」だろう。第1講では、西インドを起源とする農耕が、地中海、華北、東南アジア、日本へと伝播する中で、各地域における自然条件の差異から、半乾地農業、乾地農業、湿潤地農業、移植稲作という各々の「農業類型」が成立した、と捉えられる。類型は作物や農地といった自然条件だけでも、また、それを踏まえた農耕の方式だけでもなく、両者の関係そのものに関わる。例えば、耕作の深浅からくる(プラウ)の形状、水管理や施肥の方式などは、基本的には自然条件に伴って生じる類型の違いによって、各々固有の形式と発展経路をたどるが、それは各々の社会のあり方の違いにも及ぶのである。

農業と機械の関係

こうした基本的観点から、守田は日本農業、とくに明治以降のそれについて疑問を投げかける。移植稲作を軸とする日本農業が、肥料の多投入と機械化のもとで生産力増大に至ったことは確かだとしても、それは自らの類型に即した進展の形なのか、と。もちろん、答えは「否」だ。なぜなら、欧州における肥料・機械の使用が、「いろんな部門の横の結びつき」の「結びつける役目」(50頁)として機能してきたのに対し、日本では逆に、個別の部門ごとに切断し、例えば「稲作機械化一貫体系」として独立させてしまったためである。機械によって役畜としての牛が不要になることは、単に牛の存在のみにとどまらず、牛が担ってきたさまざまな役割、それに伴って生じていた諸々の関係の消失を意味する。その結果、「もう農薬と化学肥料と機械に完全に依存した農業しかできなくなる」(51頁)。

ただし、守田はこうした近代的農業を単純に否定するだけではない。農業における「生産」は、植物や動物の繁殖機能の結果、つまり自然の再生産の結果である。そうだとすれば、「自然生的な関係に機械が入れ替わるということは絶対にない」(59頁)。ただし、「自然生的な関係」を踏まえた、手段としての機械(類)の存在はあり得る、と考えられる。「機械や農薬などは、……自然の生きた循環……を助けたり、促進したり、調整したり――そういう働きをするものだと私は思う」(60頁)。ところが、現実にはそうなっていない。この理由について、守田は「……生産のもとは自然的なものと人間の関係である。それを、錯覚をおこさせよう、おこさせようという一定の方向がある」(61頁)と指摘する。言い換えれば、「農業が工業によりかかる、工業がなくてはできないような農業になっているということが工業にとっては必要なわけで、そういうふうに農業をつくりかえようという思想が非常に強い」(同前)のである。

「マルクス主義」批判

こうした「思想」の形成過程を探るべく、守田は第2講「農地所有論」、第3講「商業資本と農家」にわたって、近世以降の歴史を振り返っている。守田は日本における資本主義発展の特殊性について、「産業資本が変革の柱になり、それに商業資本がくっついてうごいていく、そして、金融資本は産業資本の必要上でてくる」(136頁)欧州と比べ、「日本は終始一貫商業資本で金融資本が支配していく」「……日本のばあいは、商人自身が経済を支配するという非常に特殊な経済のしくみをもつようになってしまった」(同前)としているが、これが農業のあり方における違いにどう影響しているのか、必ずしも明らかではない。江戸時代における封建制および農業・農村のありようを明治期になって以降のそれと直結させがちな傾向も含め、若干違和感を覚える。

ただ、日本における資本主義発展の独自性(特殊性)に言及していること自体は、非常に重要である。というのも、この点は第1講における「類型論」的な視点に関わると同時に、第4講「『むら』の歴史」における「農民層分解論」への批判にも重なってくるからだ。

守田が言うように、本書が刊行された当時は未だ伝統的な「マルクス主義」が色濃く、「マルクス主義」農業論の中心たる「農民層分解論」を批判することは「学問の世界では非常に危険に満ちたこと」「発言権を奪われるほどにこわいこと」だった(206頁)。その中にあって、守田は「資本家と労働者をつくっていってそれでもって社会を変革させていこう」という「そういう道を求めるのではなくて、共同体というものが小農を守る組織として働いているということを前提にして」、そのよい点を伸ばし、悪い点を修正することによって「共同体を生かしていくということのほうが、プラスが多いのではないか」と述べている(207頁)。これは、ヨーロッパ思想の枠組みを前提にして現実の農業・農村およびその歴史的背景を裁断する既存の学問のあり方に対する批判だが、守田の姿勢を鮮明に表していると言えよう。

「農法」という視点

巻末を飾る第6講「農法論」も、現実から出発する守田の考えを明確に示している。「これが合理的なんだということで外からだされてくるのではなく、自分のなかで自然に出てくる生活なり生産についての合理的な考え方、これが農法なのである」(252頁)。ただし、「自然に出てくる」と言っても、近代的農業を無反省に信じ込んでいるところからの「自然」ではない。むしろ、そうした外皮を剥ぎ取った、まさに「自然」そのものから出てくる、人間と自然との関与のあり方と捉えられるべきである。先に触れたように、今日の農業の多くは、工業によりかかった「投入→産出」の発想を前提に、さまざまな「横のつながりから切り離された」個別要素を集積する形で営まれている。しかし、これは農法ではない。「チッソを何キロ、カリを何キロ云々」というように地力を支えてきた、……という考え方を切り換えることなしに、……堆肥を使いましょうということではお話にならないのである」(260頁)。これに対して、守田の言う農法は、「地力は作物に調整させる、人間が科学の力によってつくるのではなく、作物の根が地力をつくる」(261頁)という立場である。その根底には、分化と専門化を旨とする工業の論理によって破壊された「自然」、すなわち対象的自然と人間的自然の関係に対する深い反省がある。

歴史的に見れば、本書が刊行された70年代初期は、明治から高度成長期に至る近代化の諸矛盾が噴出したことを受け、進歩・発展・成長を軸とした西洋型近代化路線に対する批判・自己批判を念頭に、アジア的なもの、伝統や共同体などの再考を通じたオルタナティブの模索が始まった時期にあたる。それから30年以上を経た現在、守田が批判した当時の状況は、少しも改善されていない。むしろ、悪化の一途をたどっていると言わざるを得ない。しかし、だからこそ、守田の批判は少しも古びておらず、逆にその鋭さが際立つものとなっている。この批判にどう答えるか、実践的な回答が求められている。(山口 協)


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