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活動報告:三里塚「実験村」訪問

空港に抗する「農」の世界(下)

成田空港反対闘争を引き継ぎ、近代工業文明へのオルタナティブを目標に活動を続ける「地球的課題の実験村」。その主催で4月5日〜6日に行われたミニシンポジウムと年次寄り合い(総会)に参加した。以下、現地の近況と合わせて紹介したい。

「まちの困民・むらの困民」

4月5日、成田山新勝寺の裏手にある国際文化会館で、シンポジウム「まちの困民・むらの困民」が行われた。よびかけ文には次のようにある。「すべてを地球規模の市場競争に投げ込むグローバル化の時代、まちにむらに“新しい貧困”が広がっています。……その中で“反貧困”を掲げた人びとのうねりが出ています。貧困の最前線でたたかう現場と三里塚をつなぎ、発信するシンポジウム」。パネラーは、菅原庄市(山形・置賜百姓交流会)、鴨桃代(千葉:全国ユニオン)、竹内智彦(東京:困民代表)、石井恒司(千葉:実験村)の各氏である。

まず、山形県白鷹町で農業を営む菅原さんからは、この間地元で生じた動きが紹介された。昨年のJA米価が34年前の政府米価と同水準にまで下落し、牛乳の小売価格は30年間据え置きという農産物価格の低迷が続く中、昨年12月には地元の農家有志が「命の値段を考える会」を結成し、「俺達百姓は怒っている!」と題するアピールを発表、町役場の前で150人が参加する決起集会が行われた。さらに、今年2月の「百姓は動いた、この国の『生命の値段を考える』講演会」には、農家だけでなく地域各層から200人以上が参集し、地域の現状と将来について議論されたという。

次に、個人加盟の地域ユニオンの全国組織で会長を務める鴨さんからは、派遣や請負といった非正規雇用の実態、それに対する逆襲の闘いが報告された。この間、非正規のみならず正規職でも劣悪な雇用が横行する中、若者たちの中から徐々に「人として生きさせろ!」と声を上げ、自ら組合を結成して闘う動きが生じている。これによって、日雇い派遣や請負といった雇用の問題点を批判する世論が拡大しつつある。また、全国ユニオン系で取り組んできたマクドナルドの「名ばかり管理職」裁判では今年1月、明確な勝訴判決が下され、全国的に波及の兆しを見せている。こうした状況を踏まえ、鴨さんは、「ディセントワーク(真っ当な労働)」に挑戦する労働組合の取り組みがますます求められている、と結論づけた。

続いて、フリーターの傍ら反戦運動などに関わっている竹内さんからは、日常生活の見直しを通じて貧困の克服を目指す取り組みが紹介された。彼の参加する「抵抗食の会(仮)」というグループは、ファストフードやコンビニ食といった出来合いの「食」を拒否し、食材の調達や調理、食事を仲間と共同で行うことによって、自らの日常生活の主体性を企業や国家から奪還することを目指しているという。今日のグローバル化の中で、国内外を問わず、労働者は安い賃金で買い叩かれる一方、農家は輸入生産物との価格競争に翻弄され、対立の構図を強制されているが、困民同士が敵対せずに出会い、新たな日常実践が生まれるような場所が必要である。その一環として、食の共同性を回復する試みを行っているとのことだ。

最後に、空港予定地内で40年以上にわたり農業を営む石井さんが、歴史的な感慨を述べた。石井さんは空港問題も含め、これまで、まち(都市)に対しては常に「おかしい」との思いを抱えてきたという。それは、都市の主導する政治経済によって農村が貧困を強いられた結果、農村から都市へ人々が流出し、農村が崩壊していく状況を目の当たりにしてきたからだ。昨今の都市における貧困状況を知る中で、改めて都市の歪んだあり方と同時に、貧困という形で都市と農村に通底する問題の共通性を感じたという。こうした状況の反映か、三里塚近辺ではこの10年ほど、都市からの新規就農者が徐々に現れており、実験村を通じて研修を行う若者も増えているらしい。石井さんとしては、これまで通り農業を続け、農村の諸関係を維持するとともに、こうした新たな人々への支援を通じて、対抗していくとのことである。

まちとむらを架橋する試み

各氏の報告を踏まえ、会場からの質疑も含めて行われた議論でも、興味深い話がいくつもあった。例えば、菅原さんの白鷹町では、町全体が衰退する中で、これまで対立関係にあった商工会と農協、酪農組合と農協が共同で、町全体の復興に向けた話し合いを始めたり、農家の枠を超えた産直団体「しらたかノラの会」が形成されるなど、新たな模索が行われている。また、竹内さんの友人からは、高円寺の商店街に「抵抗食」の拠点としてベジタリアン食堂をつくり、運動と「食い扶持」を両立する試みが、山谷争議団のメンバーからは、運動継続のために古着屋をはじめ、現在では26人が働いている事例などが紹介された。

ところで、私は実験村が設立されて以来、「村民費」を納めている「村民」だが、記憶をたどっても、これまで実験村が行ってきたシンポジウムのほとんどは、農業や地域づくり、自然環境に関わるものであり、都市との関係を主題にしたものはなかったよう思う(ただし、催し物への参加は今回が初めて。専ら通信類を通じて、である)。その意味で、今回のシンポジウムは、まちとむらの架橋を通じて相互の状況を共有しようとする点でも、また労働や食といった生活の次元から変革の展望を模索しようとする点でも、これまでの三里塚にはなかった試みのように思われる。その後、空港敷地内に残る拠点の一つ「木の根ペンション(旧・団結小屋)」に場所を移して行われた交流会で、この背景を知ることとなった。

今回の企画は、シンポジウムで司会を務めた相川陽一さんによるものである。地元・芝山町出身の相川さんは現在30歳、社会学者の卵として研究を続ける傍ら、実家を拠点に三里塚闘争の支援者に関する証言集めをしている。学生時代に東京でさまざまな社会運動との関わりを深め、現在も実家と東京を往来しては、若者の「反貧困」運動と三里塚との接点になっているという。加えて、話を聞くうちに驚いたのが、相川さんの家庭環境である。父親は、かつて反対同盟の中核を担った青年行動隊のメンバーで、自宅の敷地内には団結小屋があり、相川さんは幼い頃から、小屋に常駐する支援者に囲まれて育ったという。ちなみに、父親は90年代に入って反対運動を退き、芝山町議を経て、現在は同町長を務めている。

先の石井さんの話にもあるように、実験村に集う若者の多くは、年齢的にも「闘争」を通じてではなく、農業への関心などから三里塚を訪れ、その延長線上で関わりを持ち続けている人がほとんどである。それに比べると、相川さんの事情は特別だが、三里塚との関わりという点では、否応なく巻き込まれざるを得なかった父親の世代とは異なり、むしろ「闘争」を知らない同年代の人々と共通する点が多いはずである。いずれにせよ、未だ若輩者の私が言うのも妙な話だが、相川さんの存在を知ることで、かつての歴史を継承しながらも、間違いなく新たな時代の地平に位置している三里塚の現在を思い知らされた次第である。

変わるものと変わらないもの

翌6日は、午前中に実験村の年次寄り合いを済ませた後、成田市東峰地区で農作物加工会社「三里塚物産」を営む平野靖識(きよのり)さんの案内で、芝山町の横掘や辺田・中郷、そして東峰など、現地の状況を見て回った。実は私は6年前、並行滑走路の暫定供用に反対する集会が行われた際にも現地を訪れているが、その時は集会場の東峰地区しか見られず、芝山町方面は10数年ぶりである。予想はしていたが、やはり大きな変わり様だった。

かつて反対同盟熱田派の全国集会が行われていた横掘は、すでに全農家が移転しており、大地はアスファルト舗装され、新たな滑走路に姿を変えようとしている。集会場への道沿いに点在していた支援団体の団結小屋は、今や3ヵ所を残すのみ(常駐者がいるのは1ヵ所)。うち1ヵ所は、高さ数十メートルの展望台を備えているため、周囲を円柱とネットで囲まれ「鳥かご」状態だ。その外では、威嚇するように造成作業が続く。錆びの目立つ展望台に登ると、空港の中が手に取るようだ。

横堀を出発したデモの解散地点だった辺田・中郷は、空港敷地外で造成作業こそないものの、並行滑走路を使う飛行機の騒音のため、やはり全戸が移転し、廃村となった。かつては田を挟んで北と南に旧家が並び、まさに農村の原風景といった雰囲気に溢れていたものだが、今では屋敷跡の盛り土が、わずかに昔を忍ばせるのみである。何とも言えぬ寂寞を感じていた時、平野さんが「ここはハンゼムさんの家だったな」とつぶやいた。それを耳にして、ある記憶が甦った。というのも、私が初めて「援農」と称して厄介になったのが、「ハンゼム」を屋号とする小川剛正さんだったからだ。友人と二人、役にも立たない手伝いをした後、夕食をごちそうになり、勧められた焼酎を飲み過ぎてベロベロになった。その後の記憶はすっかり失われたが、漆黒の闇の中で向かいの家々に灯された明かりと、田圃から聞こえるカエルの鳴き声だけは、なぜか今でも覚えている。

空港敷地内で唯一、今なお農家が生活を営んでいるのが、東峰である。端から見る限り、風景は6年前に訪れた際とほぼ変わらない。時節柄、桜が満開に咲き誇っており、アスファルトと鉄のフェンスで囲まれた中、ここだけが生命の息吹を感じさせる。とはいえ、暫定滑走路の直下、頭上わずか40メートルを飛び交う飛行機の騒音や威圧感はすさまじい。彼方から轟音が近づいてきたかと思うと、巨大な鉄の塊が「落ちて」くる。これが毎日続くのだから、まさに追い出しに向けた脅迫以外の何ものでもない。

しかし、そんな変化の中でも、東峰や空港の周囲の農地では、季節の移り変わりそのままに、田畑を耕し、種を播き、草を刈り、収穫するという変わらない日常は続いていく。相川さんや新規就農の若者など、新たな要素を加えて再生されながらも、自然と人間の営みそのものは、あくまで変わらない。それは、時代や状況がどう変わろうとも、人間が自然の再生産抜きには生きていけないからである。したがって、空港と農との闘いは、長い目で見れば、必ず農の勝利に終わらざるを得ない。勝利の形がどうなるか、それは恐らく、「勝利の後」を準備する試みとしての実験村にかかっているのだろう。(山口協:研究所事務局)


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