●村から町に変わったカワソティー
●Dhanbahadur-Pun氏(80)
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連載 ネパール・タライ平原の村から ⑤

変貌する村の歴史

 今年からネパールの農村で生活を始めた、元よつ葉農産社員の藤井君による、ネパールの人々の暮らしや農業に関する定期報告。今回は、その5回目である。



 1960年代、政府の移住政策とWHO(世界保健機関)のDDT散布によるマラリア撲滅後、ジャングルを伐採し、大穀倉地帯へと変貌し現在に至る――。これがタライ平原の歴史です。では、ここへ実際に移住して来た人々、ここで元々暮らして来た人々は、どのような歴史を歩んで来たのか? 数人のお年寄りに聞いた話から、タライにある村の歴史について見てみたいと思います。

 語ってもらったどの方も、いくつか質問する以外は、自分のペースで語ってもらいました。また僕の語学力が不十分なため、家に戻ってから相方に内容をもう一度詳しく説明してもらいました。その中で今回は、少数民族プン・マガル族のDhanbahadur-Pun氏(80歳)の証言を紹介します。

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 自分自身の「歩み」について語ってほしいとの問いに、開口一番「歩いて来た」と答えて話が始まったDhanbahadur-Pun氏。50年程前の30代の頃、アンナプルナという6000mを越す山々が乱立する山麓からタライまで、5日間かけて、本当に歩いて来たとのこと。

 時は第二次世界大戦の頃。村の全ての若者が、イギリス植民地下のインド軍に入隊するのが常識だった当時、17歳だった彼もインド軍に入隊。14年勤めた後に除隊し、地元へ帰る。そして家族を持ち、農業を営みながら、祈祷師(民間医)として働いたとのこと。医療がほとんど存在しない時代。はるか遠くにある町の病院より、薬を使わず病気を治すと信じられている祈祷師の仕事は、村人から尊敬され、お礼に衣類や食糧をもらい、生活は安定していた様子。

 ところがある日、地滑りで農地を全て失ってしまったという。国による援助などない時代、途方に暮れる中で、「口コミ」で聞いていた「政府がタライを開拓し、スクンバシー(土地無し住民)に無料で土地を分配している」という「あやふや」な情報を頼りに、家族を置き、平野部へ1人で降りて来た。

 タライに来ると、同じように口コミ情報を聞いて山岳部を歩いて来たスクンバシーが既に殺到しており、バラック(仮小屋)を建て開拓労働者として働いていた。土地を手に入れた者もいたが、土地はすぐには手に入らない。そこで、木材伐採や収穫の半分を地代として地主に収める小作農、密林の野獣を捕まえる等々、さまざまなことをしながら、家族も呼び寄せ、食いつないだとのこと。その間、開拓労働者たちを立ち退かせようとして、軍・警察が象を放したり、火を入れたりして、バラックが壊される光景を何度となく見てきたという。

 そして、タライに来て6年後の1970年。どこの土地でも構わないという条件(時に砂地土壌もある)で配布されたクーポン券により、当時まだ密林だった現在の土地・カワソティへ200件の家族と移住して来た。移住当初、米は祭事の時だけ口にでき、山岳部と同じようにトウモロコシとシコクビエが主食だったが、開拓後の土地は肥沃で、どの作物も非常によく獲れたという……。

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 軍隊・地滑り・スクンバシー・小作農……。独特とも思えるDhanbahadur-Pun氏の体験ですが、多くの村人が同じような体験をして来たらしく、何も特別な話しではないとのことです。むしろ、タライ平原に住む大多数の移住者が歩んできた歴史と言えるようです。

 こうして形成されたカワソティは現在、インドの援助により作られ、首都カトマンドゥへと続く、「大国のモノを売るため」の幹線道路沿いに位置するようになりました。そんな立地条件の良さもあり、各種の行政機関・銀行・学校施設等々が建てられ、土地売買が活発化しています。土地登録事務所には人が溢れ、お互い顔を知らない者同士が集まる村から、町へと変わりつつあるところです。

                                            (藤井牧人)



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