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アソシ研リレーエッセイ

“汗の連帯”を思い起こそう

前回の話題は組織と個人をめぐるものだったので、関連して、最近感じていることを書く。これまで様々なNGO(非政府団体)や市民活動に関わってきたが、共通する課題として「若い人が育つ場所や関係性がなくなってきている」という根本的なものがある。私もこの点に関しては、悩み続けている一人である。

活動といっても多くが一定の運動論や組織理論、個人の経験を基盤に成立している。そのため勢い組織維持や個人の主張に走りやすい。そうした活動や人々に一つ共通しているのが生活者的な視点が薄いということだ。友人があるNGOで講師に呼ばれた時、激怒したエピソードがある。その団体は“貧困削減”を大々的に打ち出して活動していた。友人は講演会終了後の交流会に期待していたのだが、連れて行かれたのがなんとファミリーレストラン「ガスト」だったのである。

友人はまさかグローバル化や貧困うんぬんを主張している人たちが、そのような場所を日常的に利用しているとは考えもしなかった。問題は、植民地主義だの、グローバル化だの主張している人々が生活レベルでは、様々な妥協をしてきたということだ。これは戦後の運動におしなべて共通してきた根本的な課題でもある。

若い人が育つ場所を考えるために何故このような事を言うのかと苛立つ方もおられよう。これは一つのとりあえずポイントだが、今の若い世代の経験に欠如しているものに「現場性」があると思う。“生きる”、“共に生きている”、“人に必要とされる”という実感を得られる機会がとても少ないからそうならざるを得ないのである。日本の資本主義近代は、個人を分け隔て、仕事やライフスタイルも徹底的に細分化してしまった。つまりだからこそ活動の根本に生活的実感を置くということが重要だと思うのだ。

日本社会では、これまでの経済中心の成長は袋小路に入り込み、閉塞感がただよいつつある。しかし経済バブルに浮かれていた頃よりよほど社会が考え始める状況になっている、と思うのは私だけだろうか。厳しい時代だからこそ、新しい関係性や創造性が必要になっている。そこにおいて大切になってくるのは、どれだけ豊穣な形(記憶)でもって新たなつながりが構築していけるかということなのだろう。重要なのは多くの活動が忘れてしまっている“汗の連帯”と言えるかもしれない。

日本の多くの労働者がパソコンを前に延々と作業をする同時代に、途上国の多くの人々は終わりのない肉体労働を続けている。実際行ったことはないのだが、日本の100円ショップ向け工場で働く労働者のインタビューを読んだことがある。農村部から家族総出で働く人々の話だった。彼らに商品がどこに行くか聞いても多くが知らないと答えるという。労働時間が12時間を超えることもざらということだった。

上手くまとめられそうにないが、時にパソコンの前から離れて、近代的な労働から距離をおくような時間が必要だと思う。とにかく理論や運動の蓄積だけではもはや未来を描くことなど到底不可能なのだ。活動家同士でつながるのではなく、体全体で考える、共に汗をかく連帯の在り方を様々な形で考えていく必要がある。(松平尚也:研究所事務局)


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