タイトル
HOME過去号52号

活動報告:G8サミットを問う

サミットの歴史的役割と現代世界での位置

来る7月7日〜9日、北海道洞爺湖を舞台に、主要8ヵ国の首脳会議(G8サミット)が行われる。これに先立ち、関西でも環境相会合(5月、神戸)、財務相会合(6月、大阪)、外相会合(6月、京都)が予定されている。サミットとは歴史的にいかなる役割を果たし、現在どのような機能を担っているのか。こうした点について、去る3月22日、東京の社会運動団体を中心とした「G8サミットを問う連絡会」の小倉利丸さん(富山大学教授)にお話しいただいた。以下は、その要旨である。(文責:研究所事務局)

サミットとは何か

外務省のホームページでは、サミットについて次のような説明がある。

「サミットでは、経済・社会問題を中心に国際社会が直面する様々な課題について、……非公式かつ自由闊達な意見交換を通じてコンセンサスを形成し、トップダウンで物事を決定します。……サミットには他の国際的なフォーラムと異なり事務局がありませんが、それぞれの国で総合的・横断的に様々な分野を総覧する立場にある首脳がトップダウンで物事を決めるため、適切な決断と措置を迅速に行うことが可能になります。」(1)

つまり、国際法上は「非公式」の機関でしかないにもかかわらず、一握りの先進国首脳が「ボス交渉」を通じて、「国際社会が直面する様々な課題」を論議し、国内の民主的な手続きや定められた合意形成のルールを飛び越して、「トップダウン」で決定する枠組みである。サミットの基本的な性格が、民主主義の理念と正面から対立するものだということを押さえておく必要がある。

もちろん、民衆の意思決定を抜きに、政府間でさまざまな物事が決められていくのは、サミットであれ、国連を含む公式の国際機関であれ、基本的には変わらない。とはいえ、国連ではまだしも「国連憲章」に基づく規範が存在し、また国連総会では国力の違いに関わらず、第三世界諸国も先進国も対等の一票を持つ点で、サミットなどに比べグローバルな民意を反映する余地が大きい。

ところが、サミットは「非公式」でありながら、今日では分野別の閣僚会議や事務レベル会合も含めた包括的な先進国政府間の協議体として、制度化の道を歩みつつある。逆に言えば、これは公的な国際機関の力を弱体化させ、一握りの先進国の側に実質的な権力を移転させる機能を果たしてきたことを意味している。

「経済サミット」からの始まり

1975年、フランスの呼びかけで始まったサミットは当時、経済危機に対応する「経済サミット」と言われていた。

70年代は60年代の高度成長の矛盾が一挙に噴出し、先進資本主義国の体制的な危機が経済的な危機として現れた時代だった。それは、高度成長の終焉、「ドル・ショック」による国際通貨体制の解体、「資源ナショナリズム」と先進国による原油市場支配の終焉などの出来事に象徴される。また、米国のベトナム戦争敗北と社会主義ブロックの拡大、第三世界諸国における民族解放闘争の高まり、先進国の経済支配を批判する「新国際経済秩序(NIEO)」の提起といった国際関係の変化、さらには60年代末の先進諸国内における政治危機の余波を含め、経済的危機は政治的・体制的危機と密接につながっていた。

こうした危機に対して、サミット参加国の利害は必ずしも同じわけではなく、実際には、むしろ深刻な対立を含んでいた。それでも、社会主義ブロックへの対抗、さらに国連を通じて歪な国際経済体制を変更しようとする第三世界諸国への牽制という一点で「共同戦線」をはることになった。

80年代のサミットは、レーガン、サッチャー、中曽根の登場に重なる形で「新自由主義」が主導権を握る。英国、米国では規制緩和、民営化が先進国内部で同時的に進行し、労働運動の解体が行われる。日本でも、国鉄の分割民営化、総評労働運動の解体が行われたのは周知の事実だ。これは、深刻な過剰資本状態に陥っていた先進国の資本が、公共部門を新たな市場として統合すること、金融市場の規制緩和による投資の自由化などを通じて活路を見出そうとしたためである。(2)

もちろん、「新自由主義」は単なる自由放任主義とは異なり、国家の介入を利用して資本が富を集中する過程でもある。それ故、この時期のサミットではしばしば、自由貿易の拡大を名目に、保護主義批判と市場開放圧力が強まる。主要な標的となったのは日本であり、ドル高基調の下での輸出拡大、それに伴う国際収支の大幅黒字が問題とされた。こうしたサミットでの議論は、円高誘導に向けて為替市場への協調介入を実施する、85年9月の「プラザ合意」につながる。この結果、円高が一挙に進み、日本のバブル経済と90年代の長期不況へと連なる。

サミットと軍事化

同時に、サミットの「政治化=軍事化」が進展したのも80年代だ。これは、70年代終盤、とくにソ連(当時)のアフガニスタン侵略を契機とする東西冷戦の激化を背景としている。これ以降、西側先進諸国が経済問題を討議するはずのサミットは、対ソ連政策を討議する枠組みという性格を併せ持つものとなった。中でも、ヨーロッパ諸国との間でNATO(北大西洋条約機構)を形成し、日本との間で日米安保条約を結んでいる米国にとっては、欧州と東アジアの両面で安全保障戦略を協議できる絶好の機会となった。

一方、日米安保の下での専守防衛を建て前としている日本にとって、これは、否応なく世界規模での対ソ包囲網の一部に組み込まれることを意味する。言い換えれば、憲法九条の制約があるにもかかわらず、グローバルな安全保障に関与し、集団的自衛権の行使を実質的に容認するものである。かくして、日本はサミットが非公式外交の場であることを隠れ蓑に、いわば「違憲外交」を積み重ねてきた。

こうした問題が顕在化したのが、83年のウィリアムズバーグ・サミットである。当時、ソ連は大陸間弾道ミサイルSS20を欧州に配備し、米国はそれに対抗してパーシングUミサイルの配備を計画していた。こうした状況を受け、当時の中曽根首相はサミットで、「米中距離ミサイルの欧州年内配備を断行することだ。……そういうやり方をしないとソ連は交渉に乗ってこないのではないか」と、NATOの安全保障問題に介入する発言を行ったのだ。

もちろん、これによって従来の政策が全面的に転換されたわけではないが、サミット参加を通じ、他の参加国と対等な立場で安全保障政策を協議する「場」を得たことで、日本が憲法九条の枠組から逸脱する重要なきっかけが生じたことは間違いない。91年の湾岸戦争を受けたロンドン・サミットでは、国連安保理決議に基づく多国籍軍の編成、国連平和維持活動(PKO)の強化が合意され、この後、日本では自衛隊のPKO参加=海外派兵に向けた動きが急速に進展していく。こうした動きの背景にあったものこそ、80年代におけるサミットの軍事化である。

サミットと「対テロ戦争」

サミットの軍事化は、2001年の「9.11事件」を受けたアフガン、イラクにおける「対テロ戦争」の過程で一層鮮明になる。早くも9月19日には「テロ非難G8声明」が出され、翌02年のカナナキス・サミットでは、「対テロ戦争」に関する参加国の意思一致と核管理体制の強化を謳った「大量破壊兵器及び物質の拡散に関するグローバル・パートナーシップ宣言」が発表される。

日本もまた、こうした流れに積極的に呼応していく。それを示すのが、04年のシーアイランド・サミットだ。まず、6月8日のサミット開幕に先立つ日米首脳会談で、当時の小泉首相は「日本としてイラク暫定政府にも歓迎される形でイラク人道復興支援特別措置法に基づく自衛隊の派遣を継続する考え」を表明した。これは、その直後に採択される国連安保理のイラクに関する決議を睨んだものである。決議では、同月末までに占領体制を終了し、主権をイラク暫定政権に移譲すると記された。これに沿って、サミットではイラク「復興」に向けたG8の対応が協議された。その結果として、小泉首相はサミット終了後の記者会見で、国連決議に基づきイラクに駐留する多国籍軍に自衛隊を参加させる、と公式表明したのである。

サミット参加国の中で、フランスとドイツはイラク戦争に批判的であり、主権移譲の後も多国籍軍への参加を拒否している。その意味で、日本の一連の動きは米国へのあからさまな肩入れを意味すると同時に、サミットという「権威」を利用する形で日本国内での異論や論争を封じ込める役割を果たしたと言える。

利害調整の場としてのサミット

繰り返しになるが、サミット参加国には、経済的にも政治・軍事的にも独自の利害があり、ときには大きく対立する場合もある。イラク戦争や「対テロ戦争」で明らかになったように、対立は、単独主義的に国益を追求する米国と大陸ヨーロッパ諸国との間で生じることが多い。

ただし、サミットの中で対立が全面化することはない。イラク問題についても、石油利権の配分を睨んだ先進国主導の「復興」を前提に、虚偽の開戦理由をはじめ本質的な問題に関する議論は回避された。言い換えれば、先進国主導の世界秩序を形成し、その維持を通じて自国の利益を追求するためにサミットを位置づける点で、参加国には暗黙の合意が存在すると見ることができる。いわば「利害調整の場としてのサミット」である。

言うまでもなく、日本もまたサミットのこうした機能を利用してきた。たとえば、アジア地域で唯一の参加国という日本の国威発揚と政権の権威づけのために、また、憲法九条の制約を形骸化させ、日米同盟に基づく国際的な発言力を拡大させるために、あるいは、グローバルな資本展開に応じ、民営化や規制緩和といった新自由主義路線を国内に浸透させる「外圧」として、である。

環境問題とサミット

7月に行われる北海道洞爺湖サミットでは、地球温暖化など環境・気候変動問題が主要な議題になるという。環境問題については、1981年のオタワ・サミット以降、主に「経済宣言」の中で言及されてきた。その内容を踏まえれば、サミットにおける環境問題への関心は、資本主義的な「開発」によって気候変動に対処し、自由貿易や新自由主義など現行のシステムを維持するもの、と言える。また、この間では、先進国が途上国へに影響力を行使する手段として環境技術、環境基準を利用したり、金融資本の新たなビジネスチャンスとして環境リスクを「商品化」するなどの傾向が生じている。化石燃料に比べ温室効果ガスの排出量が少ないとの「理由」で、原発の推進が目論まれていることは、言うまでもない。

しかし、とりわけ第三世界の人々にとって、問題は狭義の「環境」だけでなく、農業や開発、地域自治、貿易、知的財産権、安全保障など、広範な課題と重なる。たとえば、温暖化は、水や資源をめぐる地域紛争、食料自給の解体、環境資源の市場支配などを通じ、貧困問題に関わってくる。いずれも、これまでG8諸国が主導する世界秩序によって深刻化してきた問題であり、その転換なしに根本的な解決は不可能なものだ。

そもそも、温暖化に対処する世界的な枠組みとしては、すでに国連気候変動枠組条約締約国会議(COP)が存在する。97年には京都で第3回会議が行われ、「京都議定書」が策定された。世界最大の温室効果ガス排出国である米国は、この議定書を批准していない。にもかかわらず、今回のサミットでは、米国を含むG8諸国によって、京都議定書以降の温暖化に対処する枠組みづくりが主導されようとしているのだ。

こうしてみると、サミットは何にせよ問題解決の主体と見なすことはできず、むしろ、60億の民衆の権利を無視した権力者の専横を許す制度として、正面から捉える必要がある。そうである以上、私たちの選択は、民主主義と経済的平等と平和の原則に立ち戻り、サミットに別れを告げること以外にないと思う。

【注】
(1)http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/sumit/ko_2000/faq/faq.html#1-1
(2)こうした構造調整政策が、IMF(国際通貨基金)など国際金融機関を通じて最も過酷に適用されたのがラテンアメリカをはじめとする第三世界諸国である。


200×40バナー
©2002 地域・アソシエーション研究所 All rights reserved.