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活動報告:三里塚「実験村」訪問

空港に抗する「農」の世界(上)

4月5日〜6日、千葉県成田市で「地球的課題の実験村」による催しが行われた。「実験村」は、かつて激しく燃え上がった成田空港反対闘争を引き継いで設立されたグループである。折しも1978年5月に成田空港が開港してから、今年で30年になる。しかし、空港は未だに完成していない。予定された滑走路3本のうち使われているのは2本に過ぎず、その一方も当初の規模を縮小した暫定供用である。現在もなお、空港予定地内にある農地を守り、農業を営んで暮らす人々がいるからである。

三里塚の闘い

今となっては、かつて「三里塚闘争」とともに語られた成田空港の歴史を想起する人も少ないだろう。そこで、簡単に歴史を振り返っておきたい。1966年、当時の佐藤内閣は、新東京国際空港の建設予定地として、千葉県成田市三里塚地区および隣接する山武郡芝山町を閣議決定する。これは、予定地に宮内庁の牧場があり、戦後の入植農家が多いことから、用地の取得が容易だとの判断に基づくものだったという。しかし、事前に地元の意見を一顧だにしない独断的な決定に対し、現地の農民・住民は「三里塚・芝山連合空港反対同盟」を結成し、反対運動を展開した。また、大学闘争やベトナム反戦運動が隆盛を極めた当時の世相もあって、新たに建設される空港が軍事使用される懸念も浮上し、学生や青年労働者を中心に、空港反対運動への支援活動が取り組まれた。

これに対し、政府と空港公団(現在は民営化)は警察権力を盾にした強硬策一辺倒で対応を重ねる。反対運動は暴力的な妨害を受け、農民・住民にも負傷者が続出した。こうした中で、反対同盟は実力抵抗の意志を固め、予定地として強制収用の対象になった農地に地下壕を建設したり、迫り来るブルドーザーの前に身を投げ出すなど、果敢な闘いを繰り広げた。その模様が広く伝えられるにおよび、反対運動は単なる一地域の私権に関わる闘いではなく、強大な国家に立ち向かう反権力闘争として共感を呼ぶこととなった。

かくして、空港は予定を大幅に遅れ、しかも第一期分のみが先行的に開港された。ねばり強い闘いの賜物であることは間違いない。だが、既成事実化の波は周辺地域だけでなく、反対運動の内部にも否応なく浸透してくる。長期にわたる闘いは、当事者の農民・住民にとって極めて重たい現実である。農業の将来展望や世代交代など、生活全体を含む闘いだけに、一枚岩の意思統一は難しい。そのため80年代以降、支援団体間の意見の相違も絡み、反対同盟は三分解を余儀なくされた。

こうした膠着状態を打開すべく、政府・空港公団側から「話し合い」解決へ向けた動きが生じる。「第二期工事に関する土地問題の解決については、強制的手段は用いない」との運輸大臣声明を受け、反対同盟熱田派は話し合いへの同席を決断、91年〜93年の計15回にわたって「成田空港問題シンポジウム」が実施された(その後、「円卓会議」に引き継がれ、94年まで続く)。

もちろん、政府・空港公団は完全開港、反対同盟熱田派は二期工事断念と、双方の目標は真逆であり、「話し合い」による最終決着には至らなかった。とはいえ、運輸省が一方的な空港づくりを謝罪し、二期工事予定地への強制収用を取り下げるという歴史的な成果を得たことは、記憶されるべきである。

「実験村」の思想

「地球的課題の実験村」は、この過程で、政府・空港公団による「空港必要論」への対案として、反対同盟熱田派の中から提起された構想である。構想づくりの中心を担った柳川秀夫さんは、その問題意識について、次のように述べている。「……何百年かの歴史のなかで人間が生活しながら、大事にしてきて、作物の恵みを受けとってきた。そういう人間の積み重ねでできあがったものが土というものであって、それが農地であるわけだけれども、……そういうことが空港問題にかかわってきて見えてきた。」

「『土』という観点から世の中を見直してみると、見えてくるものがある。……ものの便利さに価値をおいて、社会の活動が組み立てられている。そういう仕組みにまでどうやってメスを入れるか。……するとそれはもう三里塚という地域の問題でも、日本という一社会の問題でもない。要するに現代の地球の問題になってくるわけです。」(座談会「成田空港問題は農の問題である」『世界』1999年11月)

つまり、個別の成田空港に向けた対案を超えて、空港に象徴される近代文明そのものへの対案を念頭に置いたものと言える。ある意味で途方もない発想だが、同じく構想づくりの中心を担った石井恒司さんによれば、こうした考えが出てきたのは、反対運動の必然でもあったという。

「闘いの歴史を振り返れば、最初のころは反対運動も、百姓が大ぜいいたから反対する理屈というのは何も要らなかったんだよね。どんどん百姓がいなくなってきて、いまほんとに少数になってきて、おまえらなぜ反対するんだという、そこの理屈をきちんとしないといけなくなっている。……空港ここまでできたからもういいんじゃないのという言われ方と、百姓を続ける言葉がなくなっちゃっていることがダブるんです。」(同前)

こうして98年に準備会を設立した「実験村」だが、当初は「シンポジウム」の流れを踏まえ、政府・空港公団をも含めた枠組みが想定されていた。実際、構想を具体化する「検討委員会」の事務局が、運輸省の空港課内に置かれていたほどだ。しかし、政府・空港公団は当然ながら、「実験村」を反対同盟への懐柔策とする考え方から離れられない。そこで、最終的に反対同盟熱田派内の有志を中心とする自主的な取り組みとして発足することになったという。

ともあれ、「実験村」では発足以来、次の「三つのプロジェクト」を柱に、活動を行っている。

@北総大地夕立計画 三里塚・芝山を含む千葉県北部の北総地域では、空港や関連施設の建設によって里山が破壊され、森や林が失われた結果、かつては頻繁にあった夏の夕立が激減し、土地と水の循環が切断されてしまった。これに対し、北総大地に夕立をとり戻すべく、百年計画で森を甦らせる目標の下、空港近辺に山林を借りて「夕立の森」と名づけ、木々の手入れや森づくりを行っている。

A麦・大豆畑トラスト 食生活に不可欠でありながら国内自給率が低い小麦と大豆を、会員を募って有機・無農薬で輪作している。いずれも在来種による自家採種を継続。約二反の畑で、播種から草とり、収穫まで、条件に応じて参加し、収穫物は会員で分け合う。大豆は味噌に、小麦はうどんに加工するなどの試みも。

B地域自立のエネルギー モノの循環の視点から地域自立を考えべく、再生可能な自然エネルギーの地域自給を追求する試み。三里塚名産サツマイモを貯蔵するイモ穴にヒントを得て、床下の地中に蓄えた空気を循環させる「エアコン」を、実験村の拠点である木の根ペンションに設置。ヒマワリを栽培し、種から油を採る実験も。

20年目の三里塚

ところで、私が初めて三里塚を訪れたのは、およそ20年前、学生時代のことである。当時は未だ、空港に反対する全国集会が春と秋に開催されており、少なくなったとは言え、ヘルメットをかぶった「闘争スタイル」の人々が集まっていた。もちろん、70年代の行政代執行闘争や開港阻止決戦のような華々しい闘いは終焉を迎えていたが、二期工事の用地内で行われる集会に向かう道々には支援団体の団結小屋が点在し、ジュラルミンの盾を持って居並ぶ機動隊の姿も含め、いかにも「三里塚」との雰囲気を醸し出していた。

こう記すように、当時の私の関心は、反権力闘争の歴史を継承した、いわば「機動戦」としてのあり様に集中していた。そもそも、興味を持って現地に行くようになったのも、大学に入ってさまざまな社会問題に目を開かれ、関連する書籍などを乱読するうち、三里塚関連のものに行き当たったからである。とくに驚かされたのが、安保や反戦など、いわゆる指導部や組織が確立された政治闘争ではない、農民・住民の自然発生的な抵抗運動が鋭い政治性を帯び、瞬く間に全国的な闘争の集約点になっていったことであり、にもかかわらず、運動の根底部分は集落に基づいた農村の諸関係から離れていないことであった。

適切な表現かどうか分からないが、農地に塹壕を掘って立てこもったり、下肥(糞尿)をわが身に浴びて機動隊に立ち向かうといった戦術も含め、表面的に近代的な政治言語で整理される部分とは別に、近代的なるものによって社会の奥底に抑圧されてきた「土俗的なもの」が一挙に噴出してきたような感触を覚えたものである。その故かどうか、その後も集会や援農などで何度か現地に足を運び、その都度工事の進行に伴って変わり行く風景に衝撃を受けた。

もっとも、その後ほどなくして、熱田派ではシンポジウムや円卓会議といった動きが中心となり、その結果を踏まえて反対運動を終える農家も現れ、定期的な現地集会は開かれなくなった。私自身も現地から足が遠のくようになったが、これは、物理的条件の故と言うよりも、「機動戦」的な枠組みを含め、それまでの三里塚闘争の枠組みに囚われていたことから、シンポジウムや円卓会議をめぐる動きについて、根本的には消化できなったためだと思われる。

「農的価値」「共同性の復権」「循環の回復」など、シンポジウム・円卓会議から「実験村」へ至る過程では、さまざまな言葉が現れた。現在なら、こうした言葉の意味するところについて、自分なりに理解できるような気がする。しかし当時、それらは近代的な思想言語による整理のように感じられ、むしろ三里塚が体現してきた土俗的な肉体言語から離れたものと思われたのである。外部の傍観者であるが故の偏った思い入れ、そう言う以外にないが、20年を経て、歴史的経過の中で変わるものと変わらないもの、変化を受容しながら継続していく伝統のあり様などについて、ようやく思い至ることができたということだろう。

前置きが非常に長くなってしまったが、次号では「実験村」のシンポジウムや三里塚の現状などについて紹介したい。(山口 協:研究所事務局)


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