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高まる関心と深まる問題意識(上)

はじめに

昨年の11月と12月、いわゆる「非営利・協同セクター」を主題とする二つの催しが行われた。一つは「いま『協同』を拓く2006全国集会」(11月11〜12日、神戸)であり、もう一つは「C・ボルザガ氏来日記念シンポジウム:21世紀の共生型の社会デザインを模索する」(12月3日、大阪)である。前者は、日本労働者協同組合連合会(労協連)などを中心とする全国的な実行委員会によって87年から取り組まれており、今年で12回目を迎える。後者は、近畿圏のNPOによって昨年6月に結成された「共生型経済推進フォーラム」の主催によるものである。以下、各々の模様と要点について触れたい。

「福祉国家」はどこへ転換するか

「協同」を拓く全国集会については、別掲@のとおり、初日の全体集会は「非営利・協同セクター」の意義を確認する包括的な内容である。主催者発表によると、「生命・労働の尊厳を問い、地域・社会の人間的再生を」と銘打った今回の集会には、約1300人が参加したという。実際、実行委員会や協賛団体の一覧を見ると、兵庫をはじめ近畿圏の各種協同組合やNPOなどを、ほぼ網羅した構成となっている。初参加の身でおこがましい話だが、「非営利・協同セクター」に対する社会的な関心の高まりを反映したものと言えよう。

ただし、こうした関心の高まりは、決して一時的な流行や偶然の産物ではない。この間の政治・経済・社会状況こそ、背景要因をなしているのだ。

小泉政権の「構造改革」に象徴されるごとく、日本では90年代以降、経済グローバル化の外圧をテコとして、新自由主義的な諸政策が次々と推進された。その狙いは、国家(中央政府)が所得の再分配を通じて社会を統合する「福祉国家」モデルからの転換であり、企業活動に対する規制の緩和を通じて人間生活の全領域を市場における効率性に委ね、再分配に伴う支出を削減することにある。

この弊害は、すでにさまざまな場面に現れている。地方、高齢者、障害者など、「市場の論理」から見て優先順位の低い部分に対しては「自立」の名の下に切り捨てが進み、福祉、教育、雇用といった「公共」を担う部分に対しても、「官から民へ」の名の下に、「民」を偽装した「私的資本」の浸透が止まるところを知らないありさまだ。

今日の安倍政権もまた、こうした路線を踏襲していることは明らかだろう。むしろ、新自由主義的な諸政策がもたらす「格差の拡大」「社会の不安定化」に、家庭を媒介とした治安国家による個人の垂直的統合を対置したレーガン、サッチャー流の方針は、こちらの方が鮮明である。

しかし、こうした状況の中にあっても、人間が生きていく限り、その基盤となる社会は「市場の論理」や「国家の論理」のみによって覆い尽くされることはない。逆に、こうした状況であればこそ、二つの論理に対抗する「生活の論理」「社会の論理」がますます求められ、人間らしく生き、働くための根拠として、地域に対する注目が高まりを見せているのだろう。

この点で興味深い視点を提供したのが、「人間回復・地域再生を拓く協同」と題する神野直彦氏の基調講演である。神野氏は今日の日本の状況について、重化学工業を基軸とする産業構造から知識集約型の産業構造への転換という根本動向を押さえた上で、一足先に同様の現実に直面した欧州、とくに北欧の事例を紹介した。その要点は、以下の通りである。

「欧州諸国と日本との違いは、年金・医療などの現金給付と自治体が担うサービス給付の割合に現れている。日本はサービス給付が極端に乏しいが、現金給付を削減してサービス給付に振り向け、財源を有効利用する方針もない。」

「80年代に停滞に見舞われた欧州諸国では、こうした転換を意識的に行い、90年代になると効果が現れてきた。知識集約型の産業構造では人間そのものの能力が重要になるため、新自由主義の方針とは逆に、教育をはじめとする社会資本への投資を重視する。」

「社会資本への投資によって社会の需要に即した企業活動が生まれると同時に、市民の能力が底上げされることで経済成長も果たされた。これを政治の側面から見れば、中央集権に基づく所得の再分配から地方分権に基づく参加保障条件の整備への転換と言うことができる。」

「労働市場への参加保障、NPO等への参加保障など、さまざまな参加が保障されることを『アソシエイティブ・デモクラシー』と言うが、政策や給付の単なる受け手ではなく、社会への参加を通じて、市民自らが主体となる民主主義が必要だ。その条件を整備することが、中央政府の役割だ。」

もちろん、参加の保障、そのための条件整備は自動的になされるわけではなく、誰かが代行してくれるものでもない。まずは、自らの手によって、行政や金銭によって個々バラバラに垂直統合されがちな現状の支配的諸関係とは別の、水平的な協同に基づく諸関係を形成し、さらに、それらの連携・拡大・深化によって支配的諸関係を相対化するとともに、支配的諸関係の変更を迫っていく視点が不可欠だと思われる。

これに絡んで、労協連理事長の菅野正純氏は集会初日の総括として、これまで提起してきた「協同労働」という理念を踏まえ、今後の課題として、次の三点を指摘した。すなわち、@信頼と協同の中で結び合う社会をどう再生していくか、A利潤至上主義を克服する「人間の経済」をどう実現するか、B国家システムの一部ではなく、地域共同体を基盤として市民自身が担う「新しい公共」をどう実践するか、である。

「非営利・協同セクター」に対する関心の高まりとともに、当該セクター内部における問題意識の深化を窺わせるものであった。

「協同」から「公共」を形成する

2日目は、各地で取り組まれている具体的な事業・活動を対象に、4つのパネルディスカッションと9つの分科会が開催された。地域、労働、社会的排除、教育、文化、農、環境、国際連携など、領域は多岐にわたる。私はこのうち、「協同の価値―新しい公共とコミュニティビジネス」と題するパネルディスカッションに参加した。

先に触れたように、「官から民へ」の再編が進行し、それに伴って生活の場たる地域においても「公共」のあり方は急速に変化している。そうした状況を踏まえ、各々の地域・立場における取り組みの紹介を通じて、「非営利・協同セクター」が担う「公共」の内容、その可能性を探る試みである。

別掲Aのとおり、NPO、協同組合、行政などパネラー6名からなされた報告の中で、とりわけ興味深く感じたのは、次の三つの事例である。

【藤田氏】生協職員だったが、「協同」の実感が少なく、ノルマに追われる日常に疑問を感じ転身。仲間との議論、事業全体への関与など、充実している。

指定管理者制度の導入以降、学童クラブ、保育園、コミュニティ・センターなど公共施設の指定管理者に応募し、20ヵ所で事業を設立した。指定管理者制度については、公共部門の切り捨て、住民サービスの低下などの懸念がある。実際、受注が多いのは外郭団体や営利企業だ。市民も依然として、サービスの単なる受け手という意識が根強い。

しかし、だからこそ、住民の需要を掘り起こし、積極的に働きかけることによって、利用者が主体的に運営に関われるよう、やるべき余地は多い。仕事の確保と同時に、利用者との協同を基礎として、地域からの自治を育んでいく可能性は充分ある。

【宮垣氏】農薬で絶滅寸前のコウノトリを守るため、多様な生物が生存可能な農業環境を復活させようと、「官民」が一体となって取り組んできた。そうした実績によって、「豊岡」という地域に注目が集まり、親環境型企業の誘致など、地域の経済も活性化し、人口縮小に歯止めがかかりつつある。

しかし、それ以上に、コウノトリを守るためには、単に農業や環境の再生だけでなく、それを可能にする地域の協同的な関係が不可欠だということ。コウノトリの減少は、実は、そうした関係の衰退だったということに気がついた。どの地域にも、かつてはそうした関係があったし、いまもその根っこがあるはず。地域が一丸となって、それを再生していくことが、未来につながると思う。

【長ア氏】市職労委員長として、当時は嘱託だった公民館職員の正職員化に取り組む。しかし、職員も市民も、公民館の存在意義には無関心だった。

市民が公民館に意義を認め、それを活用するために正職員化を支持する、というのが筋。そこで、職員の能力を底上げすべく、市民に必要な公民館のあり方について徹底的に議論した。当初は「腰掛け」程度だった職員の意識も徐々に変化し、自ら考え企画し、実践する中で、やる気が出てきた。

こうした活動を職員自ら記録し、報告書にしたことで、市役所内部での注目が集まり、正職員化につながった。現在では、行政や地域、まちづくりの課題を正面に据えた講座などを開き、地域住民が主体的に公民館を活用する状況が生じている。

※  ※

藤田氏は行政の外部から、宮垣氏は行政の内部から、長ア氏は両者の中間的な位置から、三者の切り口はそれぞれ異なるものの、共通点が窺える。それは、各々の地域社会に潜在する需要を引き出すことを通じて、「行政→住民」として固定されがちな関係に風穴を開けたことであり、それによって住民に地域社会への登場を促し、住民と行政の双方向的な関係を形成していく過程の中に「公共」というものを位置づけていることである。

行政の再アソシエーション化

各パネラーの報告を受け、昼食を挟んで質疑と討論が行われた。質問は予め用紙に記入するとのこと。私は、「非営利・協同セクター」が「新しい公共」を担う意義、その必然性を承知した上で、以下のように記した。

「国家や行政の新自由主義的なリストラを促進しようとする側から見れば、切り捨てた部分を自主的に補完してくれるのだから、ありがたい話でもある。一時的に補完物となることを否定すべきではないが、“下請け”に固定されないためには、いかにして『非営利・協同セクター』の原理を社会の主流にしていくのか、という視点が欠かせないと思う。その点について御意見をお願いする。」

恐らく、報告された諸実践に関わる具体的な質問が多く出されるはず、との想定から、あえて「変化球」を投じた次第だが、蓋を開けてみれば、質問用紙を提出したのは私だけ。パネラー諸氏もやや面食らったようで、「行政との関係はパートナーシップで」「それぞれが得意分野を生かしていけば」といった「役割分担論」に傾く嫌いもあった。

しかし、その中でも、核心に迫るような意見はいくつも聞くことができた。

「むしろ『官から民へ』を逆手にとり、本当の『民』が主権者として力をつけていく好機と考えるべきだ」。「営利企業よりも私たちの方が市民の利益になることを示す必要がある。私たちの力量も問われている」。「社会と地域をどうデザインするか、そのための幅広い協同が求められている」。

そもそも、市町村の行政機関はアソシエーションとしての住民自治に関わる諸機能を代行する側面を持つが、国家との関係で脱アソシエーション化の力が不断に働き、権力システムの「下請け」に陥りがちである。その点を踏まえれば、今回の集会で紹介されたさまざまな実践例は、協同労働の理念に基づく市民のアソシエーション形成によって、地域の中に人間らしい労働・暮らしの場所を確保するだけでなく、脱アソシエーション化された行政機関に対する影響力の浸透を通じて、その再アソシエーション化を展望するという意味でも、注目すべき豊かな内容を保持していると言えるだろう。=つづく=(山口協:研究所事務局)


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