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憲法第9条、守り継承すべきは何か

21世紀研究会の公開シンポジウムに参加して

2月3日、大阪経済大学で、「思想としての憲法第9条」と題し、21世紀研究会(代表世話人:田畑稔)の06年度公開シンポジウムが行われた。当研究所からは、山口が司会として参加した。

当日行われた報告は、以下の三つである。

「第9条の思想的淵源から―『戦争非合法化』論とその現代的意義」河上暁弘(中央大学人文研客員研究員、憲法学)

「『しない』平和と『する』平和」君島東彦(国際NGO「非暴力平和隊」理事、立命館大教授、憲法学)

「21世紀に改めて第9条を選び取る理由」田畑稔(大阪経済大学教授、哲学)

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河上氏の報告は、労作『日本国憲法第9条成立の思想的淵源の研究』(専修大学出版局、2006年)に基づき、憲法第9条を字義通り、あらゆる戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否定を規定したものと捉え、その思想的淵源として「戦争非合法化」(outlawry of war)の思想・運動を置き、両者の思想的な継承性を解明したものである。

S.レビンソン(法律家)やJ.デューイ(哲学者)などによって、1920年代の米国で始まった「戦争非合法化」運動の目的は、侵略戦争のみ禁止しても「自衛」の名目で戦争が行われ、戦争そのものの廃絶に至らないことから、自衛も含むあらゆる戦争を「非合法」と規定し、「法と裁判」を通じた国際紛争の解決を対置することにある。

いわば、近代国家内部において武力による紛争解決(決闘や復讐)を違法化し、「法と裁判」に集約したことの国際版であり、それを保障する制度として「義務的裁判管轄権」(強制力)を伴う国際裁判所の設立が構想された。もちろん、ここで言う強制力とは武力ではなく、法に対する世論の信頼に基づいて形成される力である。

通常、「戦争非合法化」運動は1928年の「パリ不戦条約」に結実したとされるが、同条約は、一方で侵略戦争のみを禁じ、自衛戦争を容認するかのような解釈・運用を招いた。河上氏はこの点で、自衛戦争をも非合法化する「戦争非合法化」論と、実際には大国による解釈と運用の下にあった不戦条約との間の齟齬を踏まえつつ、条約の文言には自衛戦争を除外する規定はないことから、同条約に潜在する「戦争非合法化」運動の影響を強調し、さらに、その影響が幣原喜重郎とマッカーサーという2人のキー・パーソンを通じて、日本国憲法第9条に継承された、と説く。

憲法9条に関しては、これまで「自衛戦争も放棄するか否か」をめぐる解釈論争が存在し、政府解釈が自衛戦争を容認していることは、周知の事実である。しかし、河上氏の主張に従えば、あらゆる戦争の「非合法化」という文脈で捉えてこそ、歴史的な成立根拠を踏まえた憲法9条の意義が明らかになるのである。

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君島氏の報告では、憲法9条を捉える前提として、以下の要点が確認された。すなわち、@憲法は戦争などの直接的暴力だけでなく、経済的搾取、政治的抑圧、差別、植民地支配など構造的暴力の克服に向け、日本の市民と政府の行動を要請していること、A憲法では平和をつくる主体に関して、政府でも国家でもなく、ひとりひとりの市民、その集合体としての「ピープル」を想定していること、Bこうした市民の主体的判断として、歴史的諸局面において、現行憲法に対する選択がなされてきたこと、である。

これまで日本政府は折に触れて、米国の軍事力への支援、自前の軍事力確保を追求し、それに対してピープル=市民は、さまざまな手段で対抗を行ってきた。君島氏によれば、その原理は例えば、米国の戦争に加担「しない」こと、自衛隊を海外に派遣「しない」こと―など、いわば「しない」平和主義と言える。

君島氏は「しない」平和主義の必要性を踏まえつつ、同時に憲法の理念からすれば、平和な世界、公正な世界秩序を創るための積極的な非軍事的行動、すなわち「する」平和主義が求められるという。とりわけ、国家・国家間関係が紛争解決の主体を独占してきた構図が変化し、ピープル=市民によるアソシエーション(NGOなど)が紛争の予防・解決に実効力を発揮し始めた今日、「する」平和主義の試みはさらに強化されるべきだ、と説く。

こうした君島氏の主張は、国際NGO「非暴力平和隊」(Non violent Peace force)に関与してきた自らの経験に基づくものである。これはもともと、訓練を受けた非武装の多国籍の市民チームが紛争地域に介入し、そこで非暴力的な民主化運動、人権運動などを行う人々に付き添うことで、殺戮や紛争の暴力化を予防しようとする試みだが、活動の進展に伴い、今日では、非暴力的介入にとどまらず、現地の市民を主体に、人道的危機や暴力的紛争を生み出す地域の社会構造の変化に向けた環境を形成することが課題となっている。

平和とはオーケストラのようなものであり、「しない」平和主義も「する」平和主義も、政策提言型NGOも実働型NGOも必要だ、―これが君島氏のメッセージである。

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田畑氏の報告は、自身の論文「21世紀に改めて憲法第9条を選び取る理由」(季報『唯物論研究』第97号、2006年8月)の要点を詳述するものである。

「戦後レジームからの脱却」を唱え、改憲を公約に掲げた安倍政権は「時代にそぐわない条文として、典型的なものは憲法9条だ。日本を守るという観点、国際貢献を行っていく上でも9条を改正すべきだ」と明言している。

田畑氏は、こうした言説に対して、「狼が来る」式の護憲論、つまり、かつての戦争の惨禍に基づく直接的な反省を担保とするだけでは、第9条をめぐる「対抗的ヘゲモニー」を形成できない、とする。具体的な政治過程に即した攻防の重要性は言うまでもないが、むしろ「思想としての憲法第9条」という陣地を確保した上で、21世紀の現実・展望を踏まえて第9条の意味を捉え返し、なぜそれを選び取るのか、普遍的で積極的な理由を自覚すべきだ、と述べる。

この点で田畑氏は、久野収の「憲法第9条の思想」(『憲法の論理』筑摩叢書、1989年)における「三つの次元」、すなわち@第9条を生んだ思想、A成文そのものの思想、B現実問題を解決していく思想、との考え方を紹介しつつ、「思想」にこだわる意義について言及した。

第9条改憲派は、「9.11」や北朝鮮の脅威などを引き合いに、20世紀的な「国家」こそ「現実」と喧伝する。しかし、それは20世紀的国家間体制の変容によって惹起される反動でしかない。21世紀の世界では、紛争の主体・影響範囲は「脱国家化」の兆しを見せており、紛争解決の枠組みもそれに即したものとならざるを得ない。その意味では、第9条の思想を正面から受け止め、それを実践的に反転することこそが、むしろ「現実」を反映したものとなるだろう。

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以上、いずれの報告も、憲法9条について、1945年以降の日本ないし今日の政治情勢という限定された言説空間から解き放ち、普遍的な相の下に捉え直す試みと言える。これをどのように具体化し、継承していくのか。改めて課題が鮮明になった。

なお、シンポジウムの参加者から下記の意見が寄せられたので、合わせて掲載する。(山口協)

日常生活と「する」平和主義

シンポジウムに参加しながら、用事のため、論議の場に加わることができませんでした。この場を借りて、私の問題意識を述べたいと思います。

君島氏の日本国憲法の捉え方、「思想としての憲法」「世界の中の憲法」「構造的暴力を否定する憲法」、さらには「『しない』平和主義と『する』平和主義」という視点、どれも共感できるものとして聞きました。ただ一つ、強い違和感を感じたのは、「する」平和主義のモデルの中核にNGOによる平和活動が挙げられている点です。

私の考えでは、人々が「する」平和主義に深く関わる活動は、日常社会に強くはびこっている構造的暴力に対する闘いだと思うからです。政府が陰に陽に進める戦争政策への反対運動も、日常的な社会の中で遭遇する構造的暴力に対する人々の闘いを基礎としてきたことは間違いありません。

しかし、いわゆる護憲運動が「憲法を守る」運動に個別化され、専門化された結果、その運動の基礎を担ってきた構造的暴力に対する実践的批判の運動との関係が見落とされがちになってしまったのではないでしょうか。

NGOによる平和活動を軽視したり、意味のないものとは考えませんが、「する」平和主義を実現する主戦場は、憲法に記された専制、隷従、圧迫、偏狭、恐怖、欠乏との闘いの場であると思うのです。いかがでしょうか。(津田道夫:よつ葉農産)


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