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日中民衆間の連携をどう形成するか

はじめに

「中国農村交流ツアー」に関する報告の最後として、ツアーの目的に立ち帰って考えてみたい。目的は、中国における「三農問題」の現状とその解決を目指す民衆次元の動きの一端に触れること、それを踏まえ日中民衆間の連携をどう形成できるのか考えること、であった。前者については、これまでの報告で、ある程度紹介できたものと思われる。では、後者についてはどうだろうか。

「反日運動」の経験から

日中間の連携と聞いて、反射的に思い浮かぶのは、やはり現代史における日本の対中侵略、戦争責任にまつわる問題である。

03年10月、陝西省西安市の大学における日本人留学生「寸劇」事件に始まり、04年夏のサッカー・アジア杯におけるブーイングや暴動の発生、そして05年4月に中国各地で続発したデモ…。ここ数年、中国では「反日」のうねりがかつてなく高まった。

こうした「反日運動」に対して、日本ではさまざまな分析が行われた。曰く、中国政府による「官製デモ」。曰く、民間団体によるネットやメールを駆使した動員。背景として、「反日教育としての愛国教育」の存在を指摘するものもあった。

ところが、こうした分析はどれも、動員する側の意図については触れながら、動員された側の問題意識についてほとんど無視しているか、少なくとも思い至っていないように見える。その背後には、中国では共産党=国家のみが主体であり、民衆は専ら受動的客体に過ぎない、との思いこみが拭い難くあるように感じられる。

一連の「反日運動」、とくに05年の事態を見る限り、中国当局に厳格な統制の構えはなく、むしろ一種の黙認をもって臨んだことは確かだろう。ただし、それは「官製デモ」とは異なる。実態として、およそ以下の過程をたどった模様である。

すなわち、民間団体の呼びかけを受け、学生をはじめ都市部の青年層から始まった諸行動が、いくつかの層を巻き込んで大規模化したことに対し、当局は、日本に対する牽制という政治的有効性と対外的悪影響を天秤にかけ、明確な態度を決めかねていた。そのため、運動が各地に拡大して社会的な影響力が懸念されつつも、封じ込めの時機を逸し、運動側が掲げた「愛国無罪」の枠内で黙認せざるを得なくなった、ということである。

国家の論理が民意を圧倒しがちな中国においても、国家と民衆は常に等号で結ばれるわけではなく、時として後者が前者の枠づけを突破することはある。そして、徐々にではあれ、その傾向は強くなっているのである。

当然ながら、中国の青年たちが日本の戦争責任を問い、歴史的反省を無にするような政治家の振る舞いを批判するのは、充分に根拠がある。

今回のツアーの訪問先となった華北平原は、殺光(殺し尽くす)、焼光(焼き尽くす)、槍光(奪い尽くす)の「三光作戦」で知られる。実際、郷村建設学院のある城村では1940年、抗日運動への弾圧として76人が殺された。晏陽初による郷村復興の実践も、この過程で中断を余儀なくされたことは、すでに触れたとおりである。また、城村にほど近い定州市北担村では1942年、日本軍の毒ガス作戦で数百人が殺されている。こうした記憶が消失することはあり得ない。

ただし、こうした民衆の記憶はこれまで、国家間関係の中で封じ込められてきた。中ソ対立の過程で対ソ包囲網を形成するため、時の指導部が対米・対日関係の改善を急いだことは有名だが、その一方、民衆の側から日本に対して戦争責任を問う動きは、中国政府によって堅く禁じられてきたのである。

封印が徐々に解け始めるのは改革開放以降だが、90年代においてすら、戦争被害者やその遺族が日本を相手に賠償請求を行うのは、簡単なことではなかった。国家は折に触れて、自らの利害の枠内に囲い込もうとしたからである。もちろん、日本の国家もまた、そうした事情を幸いとばかりに、自らの歴史的責任について等閑視を決め込んできたことは、言うまでもない。

その意味で、国家間の関係改善が必要だとしても、それがすべてではない。むしろ、それを一つの条件として、民衆間の交流、論議を積み重ねることを通じ、国家的利害のみに左右されない関係を形成していくことが求められている。

そのためにも、まずは民衆相互の置かれた状況、その中で生じているさまざまな動きについて、トータルに捉える努力が不可欠である。

中国認識を転換する必要

この10年で、日本における中国情報は、確実に増大した。在留する日本人は7万人を超え、毎年の旅行者は300万人近くにのぼるなど、中国と直に触れる機会も飛躍的に拡大している。しかし、その割には、日本の中国認識には、さほど変化があるように見えない。とくに、民衆次元における動向や社会意識のありようについては、溢れ返る政治・経済分野の情報に比べ、もどかしく思うことも少なくない。

中国と言えば、日本では、経済の「自由主義」と政治の「全体主義」として表現されることが多い。中国社会に現れるさまざま事象は、基本的にはこの枠組みに基づいて解釈されがちである。そこで、党=国家指導部の方針や動向が第一に扱われ、三農問題についても、指導部の取り組み如何が注目を集めることになる。

もちろん、中国が一党支配の政治体制を堅持しているのは事実であり、党=国家が内外メディアへの統制をはじめ、社会的諸力に対する厳格な管理を手放さないことと併せて、上記のような見方が継続するのも当然ではある。

とはいえ、中国社会に注目すべき変化がないかと言えば、決してそうではない。今回のツアーを通じて、この点を初めて確信した。

行仁村や工友之家、そして晏陽初郷村建設学院と、いずれも三農問題に関わる取り組みながら、各々の置かれた条件に従って取り組みの形は異なっているものの、やはり共通点が存在する。それは、共同体としての農村の維持、生活の確保と権利の獲得に向けた自発的な結合、市場化の論理に抗する自己組織化の追求など、各々の直面する難問への姿勢に現れている。いずれも生活圏としての地域に立脚し、難問解決に向けた自発的な自己組織化、共同性の確保を通じて潜在する諸力を引き出し、自立しようとする志向と言えよう。

この点を捉えるにあたり、これまで報告では、「下からの動き」「陣地戦」「持久戦」など、いくつかの形容を用いた。要するに、政治的変化を通じて社会の変化を期待するような態度とは異なっている、ということだ。

もっとも、一方で、それは単に自生的な共同性に依拠し、狭い諸関係の中で完結するようなものとも異なる。内陸の一部を除けば、すでに中国における市場化の浸透は全面的と言っても過言ではなく、そこから離脱するのは不可能に近い。自生的な共同性を対置するだけでは無力である。実際、今回の訪問先では、いずれも自生的な共同性や伝統文化を尊重し、参照例に用いつつも、新たな状況に応じた共同性の刷新を図っているように見受けられた。

これは、旧い中国農村の色合いを残しているかに見える行仁村でも、変わらない。1949年以前の中国農村は、概ね複数または単一の宗族関係を基盤とし、村の運営は有力宗族の支配に任されていた。この構図は革命後の一時期を経て、共産党による上からの集団化、すなわち人民公社として「革命的」に再編されたはずだった。ところが、80年代初頭に人民公社の解体が始まり、上からの集団性という「外皮」がなくなることによって、多くの村で現れたのは、生産請負制によって個別化された農家世帯と、それを束ねる旧来型の宗族支配であった。こうしてみると、上からの集団化は、自生的共同性を党=国家機構に組み込むことで、「権力」的に再編したものと言えるかもしれない。とすれば、現在の農村を統合しているのは、「市場」と「権力」ということになる。

全般的に農業生産が増大し、それに伴って収入も増加した改革開放の初期段階はともかく、市場化の進展につれて三農問題が深刻化するに従い、こうした統合のあり方がさまざまな農民暴動や集団直訴事件の一因として機能していることについては、すでに触れた。

これに対して行仁村では、上からの集団化を単に「権力」的再編としてではなく、各種の共有資産の形成という実質として受容した模様である。それ故、この段階で宗族支配に基づく自生的共同性はいったん解体され、改革開放に伴う「市場」の浸透に対しては、集団化の実質として獲得された共有資産が一種の防波堤として機能している。

もちろん、「市場」と「権力」は消失したわけでも、衰退しているわけでもない。基本的傾向として、前者が拡大基調にあることは疑えず、後者については、再分配機能の強化と相まって、党=国家の再浮上も考えられる。しかし、それらを規制する力として、村全体の持続、村民の福利といった目的意識に向けて自生的共同性が刷新され、村内諸関係が組織化されていることは疑えない。言い換えれば、アソシエーションの内容が機能しているのである。

工友之家や晏陽初郷村建設学院では、この点はさらに鮮明である。前者は、実態はともかく法・行政の範囲では「存在しない」領域に属するため、既存のシステムに依拠して問題解決を図ることはできない。発端においては、出身地を軸とする地縁・血縁的な結合関係から始まるにせよ、民工問題が拡大・深化するにつれて、それは徐々に課題に即した普遍的・自発的な結合へと移行し、問題解決のために資金・技術・労力を提供し合いながら、相互扶助の関係を形成するようになる。同時に、そうした過程で、当事者だけでなく、問題に関心を持つさまざまな人々や内外のNGOといったアソシエーションが、やはり自発的に参集し、さらに広範囲なネットワークが形成されていく。

また、後者の場合は、「農村復興」という明確な目的意識に基づき、各地の関心ある農民に対して合作社をはじめとした諸アソシエーションの形成に向けた思考や技術を提供すると同時に、それ自体が地元の村にとってアソシエーショナルな媒介機能を果たしている。

もちろん、これらは中国全体から見れば、現時点では「九牛の一毛」だろう。しかし、グローバル化の影響に伴って従来の社会制度が変容を見せる今日、最も切り捨てられがちな層の中から、既存の制度に頼るのでも、上からの制度変更だけに期待するのでもなく、自前で問題解決を目指し、それに向けた結合関係を形成しているという事実は、決して見過ごしてはならない。

翻って日本を見れば、国家による所得の再分配政策、それを補完する“会社共同体”を通じて比較的安定したものと考えられた社会システムは、この間、急速に変化し、高齢者、非正規労働者、障害者、地方都市など、社会的に弱い立場に置かれた領域に対する再分配が縮小する一方で、優勝劣敗の市場主義に委ねられる傾向が顕著である。その意味で、日本と中国が直面している根本的な問題状況は、歴史的経緯や社会的背景の違いこそあれ、むしろ質的な共通性を強く感じさせる。

さらに言えば、日本では、それなりに安定した社会制度が存在しただけに、未だにその復活を待望する傾向が強く、自前で社会建設を行おうとする志向は薄い。これに対して、中国は安定した社会制度の形成途上にあることから、否応なく、社会的な需要に基づく自発的な結合によって制度を確立していく必要に迫られる。とくに農村部では、これまで都市偏重の諸制度によって、そもそも自前で社会建設を行わざるを得なかった経緯もある。制度の不在が深刻な諸問題を生んでいることは疑えないが、制度の枠組み自体を問い直す点で、逆に日本よりも発想の幅は広いと見ることもできる。

いずれにせよ、三農問題を中心として、中国の民衆生活に大きな矛盾が生じており、その最大の規定要因として、一党支配に基づく政治―経済の歪な関係が影響していることは確かだが、それだけでは事柄の半面に過ぎない。むしろ、そうした現実を自らの手で、少しずつでも変えていこうとする動きが存在すること、また、その中でさまざまな創意や新たな関係性が育まれていること、こうした側面を含み込み、内在的に今日の中国を見ていく必要がある。そうであってこそ、国家と国家の関係に収斂されない、民衆と民衆の連携を展望するための端緒を掴むことができるのではなかろうか。=おわり=(山口協:研究所事務局)


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