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「よかったねえ」も「風情があるね」も許されない時代

美しくない日本

春雷が鳴り、雨は降ったが、桜は満開のままでずいぶんと長い間楽しませてくれて散って行った。一気に新緑の季節がやって来て、野山の草木も田畑の作物も生き生きとしだし、野菜自給素人農民としては多忙な毎朝である。

砂利を敷き詰めた50坪ほどのガレージを2年かかりで畑に転換した我が農場では、化学肥料に頼らない野菜栽培が順調に進んでいる。この広さに野菜を目一杯植え付けると、2人家族では食べきれない。消費を支えてくれていたのは、市民環境研究所の活動を支えてくれる女性陣であった。ところが、その内の2人がこの春に大学院を修了して東京に就職したため、新たな消費者を発掘し、有り余る野菜を食べてもらっている。生産と消費のバランスを取るのはなかなか難しいが、「おいしかった」の一言でまた出荷しようと思う。

昔はこんな関係がいっぱいあったのだろう。たとえば、風呂を毎日沸かすのは大変だから、お互いの忙しさを思い計って隣同士での貰い風呂が生活の中に定着していた。そんな風習は田舎でもなくなった。ほんの10年、20年前までは当たり前のことであったものが、今では異常となることの如何に多いことか。

桜の花の少し前に、一人の独居老人が自宅で死亡していた。特別の病名は付かないが、身体全体が衰弱していた。この頑固な老人は病院に入ることを拒み、6ヶ月前に亡くなった妻と生きてきた自宅で暮らしていた。訪問看護を受けながら、食事は配食サービスに頼っており、昼食配達係が老人の死を見つけてくれた。老衰による死であり、自宅での往生であった。

しかし、現代社会では本人の満足とは関係なく、独居老人の自宅死は「事件」である。通報を受けた所轄署から刑事2名と警官2名がやって来て、周辺関係者への事情聴取と貴重品や薬などの家捜し、窓やドアの施錠状態の調査は5時間に及んだ。幸いに隣家の主人が親切に助けてくれたので、それでも早めに事件でないと判定された。今の時代、畳の上で往生したいというのは許されない時代であることを知った。

この経緯を田舎住まいの知人に話していたら、田舎では草も燃やせないという。彼が住んでいる田舎は高速道路沿いである。刈り取った草と枯れ枝を畦道で燃やしていたところ、高速道路を通過するマイカーやトラック運転手が火事と間違えたのだろうか、携帯電話で次々に警察と消防署に火災発生と通報した。お陰で、知人はずいぶんと警察にとっちめられたそうである。草やモミガラを燃やすのは農作業の一つであり、立ち上る煙は田舎の風物詩であった。しかし、ゴミ焼却によるダイオキシン発生問題から野焼き一般が禁止され、剪定枝葉も燃やせない時代なのである。

畳の上で死ぬことも、煙たなびく田園風景も、今は昔。「よかったねえ」も「風情があるね」も許されないゴツゴツした「美しくない日本」を実感した春である。(石田紀郎)


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