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ボリビア・モラレス政権誕生の背景(中)

はじめに

初の先住民出身大統領を誕生させたボリビアの状況を軸に、ラテンアメリカにおける反米左派・中道左派政権の誕生、その根源にある民衆動向をめぐる、太田昌国さんのお話。世界史的規模での分析を行った前回に続いて、今回はラテンアメリカ規模からの分析である。(構成・文責は研究所事務局)

ラテンアメリカにおける新自由主義

1960年代、70年代から80年代の初頭くらいまで、非常に多くのラテンアメリカの国々が軍事政権下に置かれますが、こうした軍事政権下で実施された新自由主義政策との関係で、エボ・モラレスの登場を考えておきたいと思います。この点については「フリードマンとピノチェトは2度死ぬ」(『労働情報』2006年1月号)で若干触れています。

ラテンアメリカ現代史の中で非常に大きな意味を持つ出来事は何かと言えば、まず思いつくのが1959年のキューバ革命ですが、このときアメリカは非常に油断していたわけですね。

それまでアメリカが支えてきたバチスタ独裁政権は、政治腐敗と徹底的な弾圧で、末期的な状況を呈していました。そこで、若者たちが中心になって反政府運動を展開し、最終的には59年、カストロやゲバラたちが革命を成就するわけですが、アメリカは当初、深刻に考えていなかった。バチスタが悪すぎたから仕方がない、と大目に見ていた節があります。

ところが、革命政府を樹立した若者たちが根本的な社会改革を実施しようとすれば、いずれアメリカがキューバに持っていた権益に突き当たらざるを得ない。農地改革を行おうとすれば、サトウキビやタバコなど、アメリカ資本の権益とぶつかる。金融機関を改革しようとすれば、銀行をはじめ多くの金融機関がアメリカ資本の支配下にある。ニッケルなどの天然資源、これもアメリカ資本が牛耳っている。アメリカの観光客向けの賭博場や売春街を一層しようとしても、オーナーはアメリカ資本です。

つまり、社会改革を行おうとすれば、ことごとくアメリカの権益と正面対立してしまう。実際、革命政権は次々と改革を行い、アメリカの権益に手を着けていく。アメリカとすれば、そんなことをさせてはなるか、というわけで、敵対、妨害、阻止を始めました。軍事力による介入も何回か試みていますが、そうした敵対関係が以後48年間にわたって続いていくことになります。

ここで、アメリカは間違いなく「第2のキューバを許さない」という教訓を掴んだ。それで、今後どこかの国で社会不安が起きて、彼らの利益にならない政権ができたなら、なるべく早期に、徹底的に潰す。そういう方針が確定されます。

それが最初に行われたのは、ブラジルでした。1964年、グラールという民族主義左派の政権が誕生し、一定の改革路線を実行しようとしました。ご存知のように、ブラジルというのは広大な国土を誇り、人口は当時でも1億数千万人いたはずです。つまり安い労働力がある。さらに、アマゾンには鉱物資源を含めた天然資源がある。そのブラジルが、キューバまではいかなくても左傾化した場合、アメリカにとっては深刻な事態です。そこで、背後からテコ入れして、64年にグラール政権を倒す軍事クーデターが行われたわけです。

それ以降、60年代後半から70年代初頭にかけて、ラテンアメリカ各国では実に多くの軍事クーデターが行われ、軍事政権が乱立しました。その軍事政権は、外交面にはキューバとの関係を断ち、社会主義ブロックの影響力を断つ形で、キューバ包囲網を形成する。また内政面では、左翼ゲリラや左翼政党、社会運動を徹底的に弾圧します。と同時に、軍事政権を支えるアメリカや国際金融機関や帝国にとっては、軍事政権がキューバに優越していると誇示する必要があります。社会主義よりうまくいくという実績が欲しい。その指標は経済成長ですから、経済面でのテコ入れも行うことになります。

こうしてみると、いま世界を席巻しつつある新自由主義経済政策が、なぜ軍政下のラテンアメリカ諸国で実験されたのか、よく分かると思います。つまり、外国資本を積極的に導入し、成長至上主義を貫くことによって、あたかも当該国の経済全体が底上げされたように見える。そこが狙いだったわけですね。こうした政策が一番典型的だったのは、ラテンアメリカではピノチェト政権下のチリ。そして、アジアでは朴正煕政権下の韓国です。

ラテンアメリカでは、チリに典型的な軍事政権を支えるために、外国資本の積極的な導入が行われる一方、国内政策としては、いま僕らが経験しつつあるような新自由主義経済政策が先駆的に採用されていきました。まさにフリードマン、シカゴ・ボーイズの言う「小さな政府」です。公共支出を可能な限り削減し、民営化=私企業化することによって、競争原理の市場経済の中に放り込んでいく、それを通じて経済を活性化させる。そういう試みが徹底的に行われ、公務員とか福祉予算、教育、医療などへの支出が凄まじい勢いで減らされていきました。成長の果実は何よりも、導入した外国資本の返済に充てられていきます。いわゆる「構造調整政策」ですね。

国によって若干違いがありますが、だいたい60年代後半、70年代初頭から80年代前半まで、約15年〜20年近くの幅で続くわけです。

基層からの問い直し

80年代後半から90年代になって、ラテンアメリカでは民主化の時期を迎えるわけですが、民主化されて「はい、よかった」では済まない。軍事政権下で膨れあがった借款、膨大な負債は、民主化の時代を生きる人々が返していかなければならない。高成長、好景気と言われた時期もあったものの、自分たちの生活はまったくよくならなかった、あのとき生まれたお金はどこに使われたのか。経済的な甚だしい不平等が存在し、絶対的貧困が存在する社会にあって、それを是正するためにはビタ一文も使われなかった、という現実が分かってくる。民主化の過程で自分たちの意見を自由に言えるようになると、あの軍事政権下の生活というものは、経済政策というものは、いったい何だったのか問い直し、発言するようになるわけです。

民主化の過程というのは、単に上から与えられたものではなく、大きな犠牲を払って獲得された主体的な過程です。自分たちの生活を支配していた軍事政権のあり方を問い直す中で、民主主義をさらに徹底する過程へとつながっていく。それは、単に自国の軍事政権だけではなくて、その背後にいたアメリカ、あるいは経済政策に積極的に介入した国際通貨基金(IMF)や世界銀行、それらがいったいどんな役割を果たしたのかを問いただす、そういう場所でもあったと言えるんですね。

ボリビアの場合、軍事独裁政権はサンタクルス出身のバンセルという大統領が中心で、1971年から80年くらいまで存在しました。およそ10年ですから、ラテンアメリカの中では比較的短かったと言えます。これを倒すため、「民主主義の春」という大衆運動が行われたのが、80年から82年にかけてです。この間も、民主勢力の登場に対しては仕返しの軍事クーデターがあったりして、揺り戻しの多い数年間だったと言えます。

ウカマウの『ただひとつの拳のごとく』というドキュメンタリー作品は、この過程を撮ったものです。ドキュメンタリーなので、画面に登場する人々の生の声を聞くことができる。ボリビアではバスやトラックが主要な交通手段なので、抗議行動として道路を封鎖することがよくあります。『ただひとつの拳のごとく』でも、農民とか鉱山労働者が、石を運んだり、道路に高く積み上げたりして道路封鎖を行っている。その彼らが口々に語っているのが、この現実をもたらしているのは国際通貨基金(IMF)であり世界銀行だ、ということなんです。たしか1981〜2年の場面だったと思います。

ウカマウの『ただひとつの拳のごとく』というドキュメンタリー作品は、この過程を撮ったものです。ドキュメンタリーなので、画面に登場する人々の生の声を聞くことができる。ボリビアではバスやトラックが主要な交通手段なので、抗議行動として道路を封鎖することがよくあります。『ただひとつの拳のごとく』でも、農民とか鉱山労働者が、石を運んだり、道路に高く積み上げたりして道路封鎖を行っている。その彼らが口々に語っているのが、この現実をもたらしているのは国際通貨基金(IMF)であり世界銀行だ、ということなんです。たしか1981〜2年の場面だったと思います。

僕はそれを見て、非常に驚いた記憶がある。たとえば、日本で一般庶民が自分たちの生活状況について話すときに、いきなり「国際通貨基金がどうした」という話にはならないはずです。ところが、ボリビアではまさに、自らの直面する問題について、庶民がそのように語らざるを得ない状況にあったわけですね。これはやはり、70年代の10年間、軍事政権下における経済のあり方が、いかに過酷なものだったか、また、その背景について、彼らがいかに正確に把握しているか、それらを示すものだと考えられます。

もちろん、それ自体は一つのエピソードかもしれませんが、さまざまな文献を通じて、また今回の旅で出会った人々との会話を通じて、単なるエピソードではないことが分かります。軍事政権下の非常に過酷な生活ゆえに、それに対する反発力の中で、過酷な生活をもたらした背景を理解する社会意識・政治意識が形成されてきたことは明らかでしょう。

[質疑応答@]

【質問】モラレス政権誕生について、個別ボリビア的背景と同時に、ラテンアメリカに共通する地域的な背景に触れられましたが、新自由主義ないし米国の支配から離脱しようという動きは、ラテンアメリカ全体に共通する志向だと考えられるわけですか。

【太田】05年11月、アルゼンチンで米州首脳会議が行われましたが、その際ブッシュは、北米とキューバを除く全ラテンアメリカを含む、アメリカ大陸規模の自由貿易市場、「米州自由貿易圏(FTAA)」をつくろうと呼びかけた。94年に成立した北米自由貿易協定(NAFTA)を大陸規模にしたかったわけ。ところが、それに対して、当選する前のエボ・モラレスとかマラドーナとか、いろんな人々がラテンアメリカ中から集まって、その目論見を完全に潰してしまった。各国の大統領も反対したんです。その意味では、米国の言いなりになりたくない、という志向は当然ある。

ただし、各国の政権にはやはり温度差もある。去年だったと思いますが、ブラジルのルラ政権とアルゼンチンのキルチネル政権がIMFからの借金を繰り上げて全面返還すると決めた際には、両国のNGO、社会運動から批判が噴出しました。「IMFに繰り上げ返還するくらいなら、もっと先にやることがあるだろう」というわけです。

もちろん、国内政策でも微妙な違いがあることは事実です。市場原理への対応や社会主義に対する距離の取り方などですね。今回も、詳しく見たわけではありませんが、モラレス政権に対して、別の左派から「妥協路線だ」といった批判を目にしました。

この点では、広瀬純さんの『闘争の最小回路』(人文書院、2006年)が非常に参考になります。彼の分析では、モラレス政権と自立的な社会運動の間にもそれなりの違い、緊張関係があるということです。

「真実和解」の動き

これは、日本の戦後史の出発点と比較してみると、非常にはっきりします。この間、多くのラテンアメリカ諸国では、「真実和解」という言葉が当たり前のように使われています。ラテンアメリカだけでなく、民主化を勝ち取った韓国も、アパルトヘイト体制を打倒した南アフリカもそうです。つまり、自分たちが非常に辛い、過酷な状況を過ごしてきた時代に何が行われたのか、それは誰の責任だったのか、真実を知ること、あるいは責任を追及することによってしか、許しと和解に至ることができないということで、真実をとにかく追求する。責任者が生きている場合には、裁判にかける。許しが必要ならば許す。それを踏まえて、最終的には和解が必要になる。そうした段階を、現在、それぞれの社会が経つつあるわけですね。

南アの場合は特異で、必ずしも処罰は伴わず、お互いが自分のやったこと、受けた仕打ちを洗いざらい話す。それによって和解の場を作るという試みが行われました。いずれにせよ、そういう経験を経て現在があるわけですね。それに比べ、僕らの社会では62年前の段階で、僕らの父母や祖父母の世代があの戦争の責任について、そうした形で裁くことはなかった。戦勝国による裁き、つまり極東軍事裁判(東京裁判)こそありましたが、戦争の最高責任者である裕仁は免罪され、新憲法下で象徴として89年まで生きた。民衆の側は1億総懺悔という形で、戦争遂行の真実はうやむやにされ、責任者はついに処罰されなかった。

官僚や政治家もそうです。岸信介のような戦争犯罪人も生き延び、後には首相にもなった。いまやその孫が首相です。そういう日本の戦後史と比較して、真実和解という歴史過程がいかに重要であるか、さまざまな苦難を経た第三世界の歴史、とりわけラテンアメリカや南アの歴史は物語っていると思います。今日、ラテンアメリカで政治変革・社会変革の大きなエネルギーが噴出しているのは、そこに一つの根拠があると考えられます。

繰り返しになりますが、軍事政権の時代を問い直すことは、単に直接的な責任者を裁くだけではありません。最終的には、直接的な責任者の背後に隠れ、あれこれの経済政策を押し付けてきたアメリカや国際金融機関を裁く、そういう内実を含んでいると言えます。もちろん、だからといって60〜70年代のように、ゲリラや武装闘争によってそれを実行するという時代ではありませんから、一般選挙を通じて自分たちの意志を表現することになります。その結果が現在、新たな政権の誕生という形で、いくつかの国で現れているということでしょう。ラテンアメリカ規模においてモラレス政権誕生の意味を考える場合、以上のような観点から捉えられるのではないか、と考えています。=つづく=

[質疑応答A]

【質問】ラテンアメリカでは、かつては民族解放闘争のゲリラ組織もあったし、いわゆる「革命政党」もありましたよね。最近のニカラグアでも、サンディニスタの政治組織が未だに残っていて、それがオルテガ返り咲きの原動力になったと聞きました。その点で、ボリビアの場合は政党レベルではどうなんでしょうか。現状では、政党そのものが「旧体制」という時代になってしまったのか。

【太田】ボリビアの場合は、ニカラグアのサンディニスタ、あるいはエルサルバドルのファラブンド・マルティのように、かつて武装勢力で、状況の変化によって政党に生まれ変わって選挙にも参加するという、そういう組織はありません。ゲバラたちが60年代に闘っていた当時のゲリラ運動は、壊滅させられました。

モラレス政権にも副大統領にガルシア・リネラという人がいて、彼はかつて「トゥパク・カタリ・ゲリラ軍」という組織に属していました。ただ、それは規模も小さくて、ボリビア政治を動かしたというほどの勢力ではない。それに彼自身は、ずいぶん前にそこを抜けて、その後モラレスと組んだという経緯がある。だから、トゥパク・カタリが丸ごと政党になって、今回の動きの一翼を担ったというわけではありません。

そもそも、モラレス政権が依拠しているMAS(Movimiento al Socialismo)にしても、日本では「社会主義運動党」なんて訳されていますが、要するに「社会主義に向かう運動」ですから、いわゆる政党ではないですよね。その意味では、ボリビアの場合、とくに現在では、これまで支配的だった右翼政党とか中間政党はあるけれども、いわゆる「左派政党」という存在はないですね。例えば、日本で「民族革命運動党」と訳されるMNRは、中道右派です。同じく、「左派革命運動党」と訳されるMIRも、社会主義インターに加盟していることから分かるように、中道左派なんですね。


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