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活動報告:韓国訪問

地域生命運動を目指すトゥレ生協連合会

関西よつ葉連絡会・府南産直センター(大阪府堺市)のW社長が裏方を務める多民族・多文化の祭典「インターナショナル・ピープルカーニバル(略称インピカ)」。賛同のチケットを購入したところ、抽選で「ソウル2泊3日」の旅行券が的中した。有意義に使用すべく、生協など計2ヵ所の訪問を決定。よつ葉連絡会事務局のYさんに同行通訳をお願いし、3月7日〜9日、訪韓にこぎ着けた。

はじめに

一昨年のWTO(世界貿易機関)香港閣僚会議に合わせて行われた一連の抗議行動の過程では、韓国闘争団の創意溢れる闘いに圧倒され、こうした力の根源はどこにあるのか、大いに興味をかき立てられた。日本に帰ってから、この点を探るべく、韓国の「農」「食」について見学訪問を構想したものの、残念ながらさまざまな意味で力量に欠けることもあり、未だに実現できていない。

そんな中、今回は偶然の産物から、Yさんの個人的な面識を頼りに、いわば見学訪問に向けた「事前調査の前段階」という位置づけで臨んだ次第である。唐突な申し出にもかかわらず、訪問先の「トゥレ生協連合会」には、貴重な論議の時間を割いていただいた。

対応して下さったのは、金起燮(キム・キソプ)・常務理事、()ウク・企画管理部長、鄭燦珪(チョン・チャンギュ)・物流部長の御三方である。挨拶も早々に、よつ葉グループの自己紹介を行い、韓国の生協の歴史、現状、トゥレ生協の状況などについてお話をうかがった。

ちなみに、金氏と鄭氏はいずれも日本留学の経験を持っている。とくに金氏は、神戸大学大学院で生協と有機農業の連携、日本における産直運動の実態などについて研究し、博士号も取得された学識者である。実際、韓国の生協や農業にまつわる現状に関しても、日本の状況と対比したお話が聞け、理解を深めることができた。

韓国生協の始まり

金氏によれば、いわゆる購買生協を除き、韓国で現在展開されている生協の歴史は、70年代、ソウルなど都市における民主化運動と連動しながら江原道原州(カンウォンドウォンジュ)で展開されていた、農民・労働者・消費者らによる「自助的協同運動」に遡るという。

通称「原州キャンプ」と呼ばれたこの運動は、80年代に入って運動の転換に直面する。朴正煕から全斗煥へ、政治的には軍事独裁政権が継続しながらも経済的には高度成長を遂げ、それに伴うさまざまな問題が生じていた韓国社会。いわゆる民主化闘争・政治闘争だけでなく、それを含み込む生活の全領域を捉え、その根底にある「生命」に立脚する必要性が提起された。すなわち「生命運動」である。

「生命運動とは、大量生産と大量消費、物質万能、中央集権に対して、人それぞれに与えられている命を悟り、その命をもって普段の生活の中で協同の関係網を作り、その関係網をもって社会を変えようとするものと、簡単に言えるであろう」(※1)。

もともと韓国では農民運動の力が強く、原州キャンプもその現れと言えるが、80年代までの農民運動は、民主化運動の一環としての対政府闘争という側面が色濃かったようだ。しかし、詩人・金芝河の「ハンサルリム宣言」を象徴的な転換点として、農民運動の内部には、近代化・工業化のもたらす影響を批判すると同時に、「環境」や「食の安全」という軸から従来の農業のあり方をも問い直す志向が生じてきたという。

こうして原州キャンプでは、農民運動リーダーの主導の下、都市の消費者の組織化を通じて「生命運動」の具体化に乗り出す。86年に設立された「ハンサルリム生協」こそ、韓国における現代生協の始祖であり、これ以降、同生協の活動に学んだ人々によって、韓国各地で生協や有機農産物の産直・共同購入運動が展開されていく。

金氏はこの点について、主に「消費者の生活を守る」という問題意識から、都市消費者の主導で展開された日本の生協運動と比べ、韓国の生協運動は、その成り立ちからして、「農業を守る」「農民と連帯する」という問題意識が強かったと指摘された。

こうした歴史的背景は、一方では、WTOや米国とのFTA(自由貿易協定)といった経済グローバル化に対抗する韓国農民運動の力量に具現化されていると考えられる。ただし、金氏は今日の韓国農民運動について、やや違和感を持っておられるようだ。それは、運動の主要な方向性が街頭における対政府闘争に置かれ、農業それ自体のあり方に対する問い直し、近代的・工業的な価値観に対する反省が副次的に扱われているのではないか、との評価に基づいているように思われる(※2)。この点では、かつて原州キャンプで「生命運動」が提起され、それを支持した金氏が、「それまでの友人の多くからは似非宗教の教祖と皮肉った批判を受け」た際の構図と重なるような、方向性の違いに基づく齟齬が存在するのだろう(※3)。

韓国に比べて農民運動の規定力がはるかに弱い日本でも、同様の齟齬については耳にする機会も多く、よつ葉グループにとっても他人事ではない。齟齬が没交渉につながりがちな日本に比べ、韓国の場合はどうなのか、興味深いところだが、残念ながら今後の課題とせざるを得ない。

トゥレ生協の経過と現状

話を元に戻そう。トゥレ生協連合会の設立は97年に遡るが、当時は「生協首都圏連合会」と名乗っていた。その名の通り、ハンサルリムを範例としてソウル首都圏に形成された小規模な個別生協(単協)の連合体である。

金氏によれば、当時の韓国生協はおおむね「運動の段階」にあり、生活の協同という問題意識を経済組織として持続させていくために苦闘を重ねていたという。小規模な単協では、仕入れ一つをとってもうまくいかないことが多く、経営の安定にはほど遠い状態だったらしい。そこで、ソウル首都圏の単協がいくつか集まり、およそ1年にわたる議論の末に、単協7団体による事業連合の設立が合意された。

生協首都圏連合会は、いわば「下から」形成されただけに、組合員への物品供給、組合員との関係づくりについては単協の責任と権限が貫かれ、事業連合の担当領域は主に商品の仕入れに限られた。この点は、現在に至るも変わらないという。

ちなみに、韓国の生協全体との関係で、自らの位置、特色についてどう考えておられるか尋ねたところ、「あくまで私見だが」と断りつつ、次のように述べられた。

すなわち、韓国の生協には大まかに言って、@「ハンサルリム」、A「韓国生協連帯」、B「トゥレ生協連合会」という三つの流れがある。

@は草分けらしく理念を重視し、農業志向と言える。単一の運動から拡大した全国組織である。

Aも全国組織だが、各地の単協を吸収・統合する形で形成された。システマティックで流通志向が強いと言える。

Bは首都圏限定の組織で、「よく言えば“ネットワーク”だが、外から見れば“ごたまぜ”かもしれません」(金氏)。組合員志向と自覚している。生協組合員の総数に占める各組合員の数では、@が3割、Aが2割、Bが1割、と推計できる。

以上のように、AとBはともに単協の事業連合という点では同じものの、構造としてはかなり異なっているようだ。Aが職員も含めて一本化され、連合が組合員まで把握し、単協の裁量が狭いのに比べ、Bの意志決定は単協が握り、組合員の活動も単協が担当し、連合を維持するための費用も単協の負担である。

金氏はこうした相違点に関連して、「私たちは、はっきり言って“低効率”なんです」と語られたが、日本における生協運動を知る人ほど、事業連合という言葉から思い浮かぶのはAの形態であるはずだ。経営に関するさまざまな効率から見ても、少なくとも短期的には、一元的に集中する方が生産性は上がるだろう。にもかかわらず、それを選択しなかったのは何故なのか。

金氏の答えは、「単協がそれを望まなかったから」とのことである。設立の経緯からすれば、確かにその通りだろう。しかし、それだけではない。

ハンサルリム生協の創設から20年、生協首都圏連合会の設立から10年を経る中で、韓国生協は急成長を遂げた。高度成長に伴う民衆所得の上昇、その反面としての公害や環境危機など、背景は日本の場合とよく似ている。生協首都圏連合会で見れば、97年から04年の8年間で、組合員数は2300人から3万1000人と、10倍以上に増えている。

「運動の段階」から、経営の安定に基づく「システムの段階」に到達したことは、事業連合の成功と言えるだろう。と同時に、それに伴って内外の条件にさまざまな変化が生じるのも、また確かである。よつ葉グループを見ても、事業規模が拡大し、社会的な認知度が増すにつれて、拡大そのものを自己目的化し、市場優先の価値観に同調しかねない傾向が生じるのは、不可避的と言える。

生協首都圏連合会の場合、「経営と思想の危機」もさることながら、むしろ組合員の拡大に伴って生じた食べものや生活全般にわたる「ニーズの多様化」への対応を迫られたという。そこで、04年には「アイデンティティを探るための特別委員会」を設置し、「専門家でない母親たちにより、1年に及ぶ議論が続けられた」結果、「考え方としては生協運動の中での生命思想の復活を、戦略としては生協運動の主体と領域の拡大を、またその実践の場としては地域の再発見を、お互いに確認することができた」とのことだ(※4)。

新たな運動の方向性は「地域生命運動」と名付けられたが、「地域」という場を明確に位置づけたことによって、生命に立脚した自らの運動を、組合員個々人という「点」から組合員を含めた生活圏という「面」へ、あるいは食という部分から重層的に織りなされる生活世界全般へと意識的に拡大・再編したものと捉えられる。その中で生協の果たすべき役割が、組合員を主役とする生活活動の「舞台回し」ないし「演出家」とすれば、地域に密着し、地域のニーズに即応できる単協を中心とした展開が要請されることは、言うまでもない。「単協がそれを望まなかった」という言葉は、こうした意味でもあるのだろう。

「協同」から「連帯」へ

生協首都圏連合会は05年11月、現在の「トゥレ生協連合会」へと名称を変更する。「トゥレ」とは、田植え、草取り、稲刈りなどの際に「韓国の農村社会で行われてきた伝統的な共同労働の一つであり、日本の『結い』に相当する」という(※5)。新たな方向性の確定に伴い、その内実を内外に示したものと言えよう。

この点に絡んで、金氏は一つの問題提起を行っている。「私たちは生活協同組合ですけれど、協同という言葉を乗り越えなければならない。協同ではなく連帯なのだと、私たちの内部で確認し合いました」(※6)。

何故、「協同」ではなく「連帯」なのか。詳しい内容の展開をお願いしたところ、金氏は「言葉の定義が正しいかどうかはともかく、こう考えている、ということで理解して下さい」としながら、おおむね次のような内容を述べられた。

@「協同」という言葉からイメージされるのは、共通の利益に向かって力を合わせる、ということ。生協で言えば、これまでは経済的利益が中心になっていたことは否めない。しかし、これからは、単協と連合会、単協同士、単協と組合員のそれぞれが、経済的利益による結びつきを超えて、地域における生活全般にわたって結びつく必要がある。その点で、より横断的なつながりを明確にするには「連帯」の方が相応しいと思う。

A「協同」という結びつきのあり方は、ともすれば一つのまとまりとして、例えば多様なものが一つの器に収まり、それ自体が一つの本質をなすようなものとして捉えられる。しかし、多様なものの一つ一つに本質があるはずで、それらがいわば「個」を保ちながら同時につながり合う形でなければ、既存の関係を超えられないのではないか。その意味で、「連帯」という表現を選んでいる。

非常に難解ではあるが、目指す対象の輪郭は了解できるのではなかろうか。私見ながら、@については、自発的な結合の目的を、当初の「共益(仲間内の利益)」から「公益」へと飛躍させる目的意識性として、Aについては、「全」でもなければ「私」でもない「個=共」の関係を目指す一方、アソシエーションの進展と不可分に生じる「脱アソシエーション過程」の克服を自覚化するものと受け取ることができる。ちなみに、こうした内実を表す韓国の固有語こそ「トゥレ」である。

以上の背景を踏まえ、トゥレ生協は今後、地域におけるネットワークの形成を念頭に、そこでの生協の位置づけを模索しつつ、具体的な取り組みを進める意向だという。基本的には福祉と育児、いわば生命の始まりと終わりを重点に、地域住民と共同で市場経済におけるそれとは別の選択肢を創出し、その幅を広げていくことが狙いである。

いわば、「アソシエーションの立体化、立体化を通じた地域化」(田畑稔)への動きと言えるが、北大阪商工協同組合を含むよつ葉グループと重なる問題意識を感じる。世界的に見ても、地域への定着を通じた対抗ヘゲモニーの陣地形成という課題が浮上していることの、一つの証明だろう。同時に、組合員としての地域住民が主体となった論議の中から新たな運動の方向性を導き出したこと、方向性をめぐる議論を文章化し、検討素材として公開している点には、よつ葉グループとして学ぶべき内容を感じた次第である。(山口 協:研究所事務局)

【註】
※1:金起燮「地域生命運動としての生協を目指して」 『at』第2号、05年12月、90頁。
※2:筆者が香港で言葉を交わした農民運動の活動家は、韓国における有機農業運動について、その「非政治性」に批判的な意見を持っていた。もちろん、個々人や組織によって見解は多様だろう。
※3:金起燮、前掲、同頁。
※4:金起燮、前掲、92頁。
※5:金起燮、前掲、93頁。
※6:金起燮「韓国生協運動の目的と課題」、市民セクター政策機構『社会運動』第308号、05年11月、52頁。

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