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【書評】『市民参加のまちづくり』

論議する場を呼びかける

市民参加のまちづくり
『市民参加のまちづくり』コミュニティ・ビジネス編―地域の自立と持続可能性
伊佐淳・松尾匡・西川芳昭 編著
創成社、2007年1月、¥2,310(税込)

1999年に始まる久留米大学経済学部の公開講座から生まれた本書は、「戦略編」(05年1月)、「事例編」(05年2月)、「英国編」(06年1月)に続くシリーズ4冊目である。編者は各々、非営利組織論(伊佐)、アソシエーション論(松尾)、開発社会学(西川)を研究領域とし、それらの観点から、いわゆる学者にとどまらず、さまざまな実践の当事者を講師に招き、本書の題名でもある「市民参加のまちづくり」を論議する場を呼びかけたという。

以前、久留米を訪れた際、地元の方から、こんな話を聞いたことがある。かつてはブリジストンの城下町として繁栄したものの、85年のプラザ合意を契機とする円高のあおりを受けて製造部門の中核は海外に移転、それに伴って「裾野」を形成していた地域経済も沈滞気味。福岡市から電車で30〜40分という地の利が災いしてか、地方都市のご多分に漏れず、中心部の商店街は「シャッター通り」の危機がヒタヒタと迫っている―。

こうした中、地元の大学としては、まちの浮沈に無関心であるわけにもいかず、何らかの取り組みの必要に迫られたものと推測される。大学が地元の商店街などと連携し、地域の活性化を図ることは珍しくないが、共同で理論的な作業にまでこぎ着けるのは、異例の試みと言えるだろう。

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本書は、第T部「コミュニティ・ビジネスを知る」、第U部「コミュニティ・ビジネスを支える」、第V部「コミュニティ・ビジネスを育む」の三部構成となっている。詳しく見ると、第T部は、九州の社会経済状況、長崎における子育てNPOの活動、宮崎での市民文化事業を中心にしたNPOのネットワーク形成、ラオスを事例とする途上国でのコミュニティ・ビジネス形成と、かなり広い枠組みで事例が紹介され、第U部では、オランダにおけるフェアトレードへの市民参加のあり方、企業の社会的責任(CSR)や社会的責任投資(SRI)を軸とした営利企業とコミュニティ・ビジネスとの関係、コミュニティ・ビジネスを支援する金融のあり方、コミュニティ・ビジネスやNPOの運営・展開を支援する中間支援機構のあり方と、これも広範囲な事例が紹介されている。さらに、第V部ではやや角度を変え、ビジネス倫理、地産地消、ソーシャル・キャピタル(社会資本)、多様な「参加」概念といった諸論点から、コミュニティ・ビジネスの構造が分析されている。

ところで、「コミュニティ・ビジネス」とは何か。実は、一義的な定義があるわけではない。例えば、2000年度版『国民生活白書』は兵庫県の調査を引き、「地域社会のニーズを満たす財・サービスの提供等を有償方式により担う事業で、利益の最大化を目的とするのではなく、生活者の立場に立ち、様々な形で地域の利益の増大を目的とする事業」としている(第1部5章2節、付注22)。

編者の伊佐氏によれば、「地域の諸課題の解決に挑むという公益的なミッション(使命)を追求する一方、営利組織の経営手法を活用し、非分配制約の下で利益の創出をも果たしていこうとする事業形態…一言で表現すれば、『お互い様精神のビジネス』である」という(「戦略編」139頁)。

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日本ではこれまで、「地域の諸課題」とりわけ金銭が絡む問題の解決は、専ら行政が担うべきとの考え方が根強かった。自らを省みても、未だに「公共」と言えば「お役所(官)」を思い浮かべてしまいがちである。

ところが、この間、「官から民へ」という上からの宣伝を通じて、こうした構図に再考を迫る動きが勢いを増している。もちろん、「官から民へ」と言いながら、その内実が「民」を「私企業」に一面化した切り捨て、払い下げに過ぎないことは、言うまでもない。ただし、そうした趨勢の裏面として、「公共=官」という暗黙の前提が揺らぎを見せ、「私」とは異なる「民」による「公共」の取り戻しが始まっていることも確かである。

コミュニティ・ビジネスという概念への注目や実践事例の拡大は、まさにそうした文脈の中で捉えることができる。そもそも、行政サービス自体、「地域の諸課題」を解決する住民自治を、いわば「外注」したものと考えられるが、その意味では、住民主体の原初的な自治を回復する作業とも言えるだろう。もちろん、コミュニティ・ビジネスと銘打てば、自動的に何かしら新たな形態が生じるわけではないが、それでも「地域の諸課題の解決」という公益的側面を事業目的とする以上、利潤追求や規模拡大には自ずと限度がある。また、事業目的の達成には相応の継続性が必要である以上、それを確保するためには、ボランティアや寄付、助成金にばかり頼るわけにもいかない。そこで、「営利組織の経営手法を活用し、非分配制約の下で利益の創出をも果た」すことになる。

しかし、よく考えてみれば、これはコミュニティ・ビジネスにのみ限られたものではなく、多かれ少なかれ経済活動全般が、こうした内容を含んでいることが分かる。社会的企業や社会的協同組合はもとより、一般の協同組合といえども、文字通り仲間内の利益だけを追求しているわけではない。さらに言えば、通常の営利企業でさえも、事業理念に地域社会への貢献や顧客への奉仕を掲げている場合が少なくない。

それは単なるポーズに過ぎない、との指摘もあろう。だが、ポーズであれ、そうした振る舞いをせざるを得ない点は看過すべきでない。なぜなら、それは、経済活動が単独で存在するわけではなく、むしろ人間の生活活動総体の中で機能するものだという事実を示しているからである。

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この点で、第V部に収録された「市民事業の経済倫理としての商人道」(松尾匡)は、興味深い視点を提起している。

コミュニティ・ビジネスをはじめ、生活活動から乖離した経済を自らの手に取り戻そうとする動きは、この間、成功例とともに失敗例を生み出してきた。ここで言う「失敗」は多くの場合、経済合理性と目的意識性の間の矛盾に基づく「アンバランス」と捉えられがちだが、単純にそう割り切れない事態も生じている。実際、崇高な理念を掲げているにもかかわらず、成員に対する極めて抑圧的な関係や、経済合理性からも逸脱した利益至上主義が形成された事例など、耳にすることも希ではない。

松尾氏によれば、こうした事例の要因は、非営利・協同セクターの中で「市場」を否定的に捉え、そこから単なる手段として扱う傾向が強いことにある。たしかに、経済的疎外を招きがちな市場に「非営利・協同」を対置するのは重要だが、一方で、位階的な権力システムに対して市場が歴史的に果たしてきた批判的機能を看過するならば、「非営利・協同」にも権力システムや身内主義が容易に浸透し、硬直した抑圧的な関係を生む可能性が高い。同時に、市場的な経済活動を手段として切り離すことで、組織内的な統治とは無関係な恣意性が横行してしまう、というわけである。

この陥穽を克服するには、どうすべきか。松尾氏はここで、「商人道」を提起する。それは、「石門心学」で知られる石田梅岩の言葉、「実の商人は、先も立、我も立つことを思うなり」(『都鄙問答』)に示されるように、商品交換の外部からの理念的統制ではなく、商品交換そのものの中に、それを通じて達成すべき目的を打ち込んでいくことである。ここから、「事業と理念」「手段と目的」という二重基準、それがもたらす弊害を意識する視座が導かれる。先に引いた、伊佐氏の「お互い様精神のビジネス」と重なるが、「客」の満足こそが自らの経済活動の持続性を保障するとの考えは、経済活動が多様な社会関係の一部であるとの自覚に基づくものと言ってよい。これは、よつ葉グループにとっても、自らの経済活動を考える上で重要な指摘と思われる。

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かなり特化した形での紹介となったが、シリーズ全体を通じて、具体的な事例紹介に基づく各論は、まさに市民参加の社会が形成されていく現場を実感させるものとなっている。ぜひ一読を薦めたい。(山口協)


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