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この間の流れと問題点について

問題点と逢着点

ふだん何かと「農」に関わる機会の多いよつ葉グループ。生産・流通に直接関連する問題はともかく、農と社会のかかわり、その現状について考え、できることなら一定の共通認識を持ちたいもの―。そんな問題意識から始めた「農」研究会だが、この間、やや「袋小路」に迷い込んだかの感がある。問題意識を捉え返し、逢着点を記すことで、現状報告に替えたい。

はじめに

地球温暖化、それに起因するとされる天候異変などをはじめ、巷では環境問題に対する関心が持続的に高まっている。「自然と人間の共生」「地球に優しい」といった謳い文句は、今では誰もが、当たり前のように使っている。しかし、その一方で、人間にとって最も原初的であるとともに普遍的でもあり、それゆえに歴史的な営為も数多く蓄積されてきた「共生」の具体例である「農」への関心は、比べようもなく低いと言わざるを得ない。

環境に危機が生じるとすれば、それは各種の災害という即時的、直接的な形だけではなく、生態系の異変など長期的、非顕在的な形でも、必ず影響が及ぶ。そして、それは、人間の再生産にとって不可欠な食べ物において顕在化するだろう。とすれば、環境問題への関心は当然にも、「農」をめぐる現状への関心とも重ならなければならないはずだが、現実には、そうなってはいない。

こうした断絶の一因として、次のように考えることができる。すなわち、いわゆる環境問題における自然は、例えば温暖化ガス削減の「切り札」とも目される「バイオ燃料」をめぐる議論に明らかなように、専ら技術的な彌縫策によって対応可能な、人間の生活活動から切り離された客観的な素材と捉えられがちである、と。

それに比べ、農業はまさに自然と人間との直接的な関わりにおいて形成される領域である。人間が働きかけた結果は、目に見える形で跳ね返ってくる。その意味では、農業における自然との関係を反省する中から、自然全般すなわち環境との新たな関わりも見えてくるのではないか。

ところが、そんな農業もまた、それこそWTO(世界貿易機関)ドーハ・ラウンド交渉をめぐる論議に示されるように、関税や補助金、あるいはさらに広く見れば、生産性や売上高に関する「数値」の問題と見なされることは珍しくない。今日の経済システムの中では、農業は工業と同じく、商品を生産するための一連の過程とする考え方が支配的である。しかし、おおむね一定の生産設備を基盤に、一定の原材料を投入すれば、それに応じた産出が予想され得る工業生産とは異なり、農の営みは自然条件や社会関係のあり方に大きく規定されている。また、生産される、と言うより「産出される」のは、有機体すなわち生命体である。さらに、自然の一部でもある人間の再生産とも直接関わっている。その意味で、単なる商品生産に集約されるものでないことは、容易に推察できる。

こうした推察は、さらに掘り下げる必要があるが、とくに考えるべきは、農を商品生産に一面化し、その危機を招くに至った今日の社会の歴史的特質、すなわち資本制についてである。というのも、農業が「劣位」に置かれるようになったのは、資本制の浸透に伴う工業生産の進展につれてであると同時に、資本制は資本の自己増殖のためにあらゆるものを消尽するシステムである以上、循環性を旨とする自然や農とは根本的に相容れない性質を持つと考えられるからである。

――と、書き言葉で表せば堅苦しい物言いになるが、研究会ではこうした一種の「直感」に基づき、それを検証するための素材を探索することになった。その際、マルクスの名が浮かんだのは、けだし、単なる思いつきではない。

「マルクスと自然」の二つの相貌

「資本主義的農業のどんな進歩も、ただ労働者から略奪するための技術の進歩であるだけではなく、同時に土地から略奪するための技術の進歩でもあり、一定期間の土地の豊度を高めるためのどんな進歩も、同時にこの豊度の不断の源泉を破壊することの進歩である。」(1)

資本制を先鋭的に批判したマルクスには、これに限らず、自然や農業への言及が見られる。しかし、自然に対するマルクスの捉え方について、これまで評価は二分されてきた。大まかに見て、一つは、マルクスの思想における自然や農業の位置づけは、非本質的で副次的なものにとどまる、とするものであり、もう一つは、逆に、自然や農業に対するマルクスの着目は決して副次的なものでなく、思想の根幹に関わる、と見るものである。

前者の多くは、資本制社会に勝るとも劣らぬ環境破壊を招いた「社会主義国家」の実態を踏まえ、それらが依拠した「マルクス主義」をマルクスの思想と等置しつつ、「マルクスにおける自然の欠落」を批判する。いわば、マルクスもまた、批判対象としての資本制との間に、「人間による自然の支配を通じた生産力の拡大」という「進歩」の観念を共有していた、というわけである。

とはいえ、「社会主義の失敗」から十数年が過ぎ、マルクスとマルクス主義との関係をめぐる検証が進む中で明瞭になったのは、両者の「等置」という点では、護教派も批判派も同じ観念を共有していた事実でもある。その意味で、通説と異なる「マルクス―自然」関係の把握に関心が向かうのも、故なきことではない。こうした問題意識から、研究会では『マルクスのエコロジー』(2)第5章「自然と社会との物質代謝」を中心に論議を行った。

著者フォスターは、「マルクスの世界観が深く、そして体系的にエコロジー的であるということ、そしてこのエコロジー的な見方が彼の唯物論に由来する」(3)との視点から、マルクスの関心を労働の疎外に一面化するのは誤りであるとし、むしろ、労働の疎外と自然の疎外という二つの現れにおいて資本制の問題を捉え、それらをトータルに克服することこそが勝義の関心だとする。その際、鍵となるのが、農業化学者リービッヒを継承した「物質代謝(Stoffwechsel)」概念である。

「資本主義的生産は、…一方では社会の歴史的動力を集積するが、他方では人間と土地とのあいだの物質代謝を攪乱する。…しかし、同時にそれは、かの物質代謝の単に自然発生的に生じた状態を破壊することによって、再びそれを、社会的生産の規制的法則として、また人間の充分な発展に適合する形態で、体系的に確立することを強制する。」(4)

フォスターは、こうしたマルクスの着目を「人間と自然との物質代謝が人間労働の具体的な組織を通じて現れる、そのあり方」(5)として捉え、「物質代謝の撹乱(亀裂)=対象的自然の疎外、人間的自然の疎外=労働の疎外」を不可避とする資本制生産を克服するためには、物質代謝を「社会的生産の規制的法則として」体系的に再確立する必要を説く。

「資本主義に対する革命は、したがって、労働の搾取という特殊な関係の転覆だけでなく、大地からの疎外の超克をも要求する。それは人間と自然との物質代謝の、近代科学と産業による合理的な規制によって行われる。」(6)

フォスターは、こうして現れる新たな社会を「地上的な基礎の上に立つ合理的エコロジーと人間の自由の世界、つまり結合(アソシエート―引用者)した生産者の社会」(7)と見なし、これこそがマルクスの目指したものだ、と主張する。

イムラーのマルクス批判

「物質代謝」を基軸とする「マルクス―自然」関係の積極的評価については、日本でも先行研究が存在しており、説得力を持って受け止められる。一方、「マルクス―自然」関係の消極的評価についても、マルクスの思想的根幹に関わる問題として批判する見解が存在する。そこで研究会では、その代表的論者として、H.イムラーの主張を検討することになった。

「マルクスは疎外された労働の革命的な排除の中に自然からの人間の疎外の止揚をも見て取っている。」(8)

イムラーはこう評価しつつも、「労働価値説」を主な標的として批判を行う。すなわち、マルクスは、自然の富を無限と捉え、労働を価値の唯一の源泉とするリカードの労働価値説を継承したことによって、自らの価値論の中で自然を単なる価値の素材としか見なし得なかった、と。

「マルクスは、自然素材それ自体、その本源的形態及び加工された形態の中にも、社会的関係が表現されており、それは価値領域に関しても決定的な影響を及ぼすこと、そして、この逆もまた真であることを見逃すことになった。」(9)

かくして、環境の側面における「社会主義の失敗」も、こうしたマルクスの「『価値なき』自然と『自然なき』価値」(10)という暗黙の前提と無関係ではあり得ない、というわけである。

周知のように、マルクスは量・質ともに異なる二商品がいかにして交換され得るか、との問題設定から価値形成の論理を展開する中で、量・質に表される使用価値を捨象した価値実体として、商品の生産に費やされる社会的必要労働としての抽象的人間労働に着目した。イムラーによれば、この段階で価値と自然とが分断されることになるが、一方でマルクスは、自然のみを完全に捨象しながら労働については抽象的なものとして残し、これによって剰余価値生産と労働力の使用価値との特権的関係が形成される、と指摘する。

すなわち、「一方において使用価値を非社会的および非価値形成的範疇であると見なしながら、労働の使用価値に対しては価値生産的性質を付与し、そうすることによって、労働力を、それ自身の再生産に必要な価値よりも大きい価値をつくり出すという、価値理論的に見れば、比類なき状態に置く」(11)という「矛盾」である。

イムラーによれば、「再生産に必要な価値はもっぱら物象的な構成要素、すなわち、労働の使用価値と外的自然の使用価値からのみ導き出される」(12)。言い換えれば、食べ物や生活環境といった自然の使用価値の如何によって労働力再生産に要する時間の多寡が決まり、労働力の価値も決まってくる。にもかかわらず、マルクスはリカードに対して、いわばミイラ取りがミイラになり、こうした要点を看過した―。これがイムラーの結論的な主張である。

◆  ◆

フォスターの著書はイムラーの著書よりも15年後に位置しており、検討の順序としては問題があるかもしれない。また、どちらも、マルクスの思想に対する相応の蓄積に基づいており、検討する側にも一定の了解が必要だが、率直に言って研究会にそれだけの力量があるわけではなく、検討が不十分に終わったことは否めない。

しかし、「マルクス―自然」関係という問題が依然として問われるべきものとして残されている点については、研究会全体の合意するところと言えるだろう。いずれ、先行研究や最新の研究を参照しながら、マルクスの主著に内在しつつ、再度じっくり取り組むことができれば、と考える。それが何時になるか、現時点では未定だが…。(山口協:研究所事務局)

【注】
(1)『資本論』第1巻、大月版全集23a、657頁。
(2)J.B.フォスター『マルクスのエコロジー』渡辺景子訳、こぶし書房、2001年(原著2000年)。
(3)同前、10〜11頁。
(4)『資本論』第1巻、大月版全集23a、656頁。
(5)フォスター前掲書、252頁。
(6)同前、279頁。
(7)同前、400頁。
(8)H.イムラー『経済学は自然をどうとらえてきたか』栗山純訳、農文協、1993年(原著1985年)、308頁。
(9)同前、327頁。
(10)同前、321頁。
(11)同前、347〜348頁。
(12)同前、333頁。

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