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コラム:市民環境研究所から(35)

酷暑のカザフに残った利権外交の寒々しさ

8月中旬以降に中央アジアの仕事を終えて帰国すると、毎年ならば、酷暑から開放されてほっとするものであるが、今年の中央アジアは気温もせいぜい40度Cくらいであった。乾燥しているから、40度なら京都の30度よりもはるかに過ごしやすい。関空に到着するなり湿度90%の空気に、一気に体力の消耗を感じた。帰宅すると、日本の8月がいかに酷暑であり、雨がまったく降らなかったと、これくらいの暑さで文句を言うんじゃないよと、同情されるよりも叱られた。
 その暑さの中で、8月末に小泉首相がカザフスタンとウズベキスタンを訪問するのだが、コメントはないかと知り合いの新聞記者から電話があった。日本の最高責任者がカザフを訪ねてくれるのであるから、カザフに入れ込んでいる民間人としても喜ぶべきなのかもしれないが、前回に本欄で書いたように、靖国神社に参拝する首相に手を振る気もない。
 しかし、1991年末に中央アジアが独立した直後に、欧米の主要な国々の首脳がカザフスタン首都のアルマティを我先にと訪ねている。アメリカはゴア副大統領、ドイツはコール首相、フランスはミッテラン大統領といった面々である。当時、アルマティに足繁く通っていた日本人がほとんどいなかったので、筆者を日本の代表のように誤解するカザフ人から、「なぜ日本の総理大臣はカザフに来ないのか。日本は中央アジアを大事にしていない。カザフには地下資源がいっぱいあるが、その開発に日本は乗り遅れてしまうよ」と非難されたものである。
 この気位の高さがカザフとカザフ人の特徴であり、大統領から庶民までが同じである。欧米の首脳が我先にとやって来たわけは、地下資源もさることながら、崩壊したソ連邦がカザフに配備していた核弾頭が1260発もあり、この破壊兵器をいかに処分するかが世界政治の最大の関心事であったからである。日本の外務省に、カザフに日本大使館を早急に開設すべきであると進言したが、当時の外務省は、ソ連が崩壊して14の国が誕生した、全部に大使館を置けないから、まずはウズベキスタンである、との意見だった。
 世界唯一の被爆国と常々言っている日本が、核兵器を心ならずも保有することになったカザフに大使館を開設するべきだ、とろんなルートを通じて表明した。それが功を奏したなどとは思ってないが、1994年にウズベクとカザフに大使館が開設された。しかし、日本の首相が訪問することはなく、首相経験者として故橋本龍太郎元首相が2005年にアルマティでの国際会議に出席されたのが最初であった。
 小泉首相はアラル海などの環境問題に日本は多いに支援すると出発前にはプレスリリースしていたが、結局はウランと石油の利権を得ることだけが目的の訪問でしかなかった。カザフで日本語教育に取り組んで、日本語を話せる若者を何百人も育てている知人に電話を入れて、小泉がそちらに行っているがニュースがあれば教えてくれと頼んでみた。ところが、この日本びいきですら小泉訪問を知らなかった。カザフを最初に訪問した日本の首相(引退間際の)は、カザフの人々に知られることはなかったようである。単なる利権外交の寒々しさが、酷暑の両国に残っただけである。 (石田紀郎)


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