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中南米事情、まとめのための備忘録

はじめに

およそ一年にわたって続いた中南米事情の研究会。そのまとめにあたり、折から話題を呼んでいたデヴィッド・ハーヴェイの『新自由主義』を参考に、改めて新自由主義の本質について考えてみた。

ラテンアメリカの経験に学ぶ

グローバリゼーション研究会では、この間、ラテンアメリカを中心に学習・討議を重ねてきた。ご存じのようにラテンアメリカでは、このところ「反米・左派」政権が次々と成立している。また同地では、世界的に先駆けて1980年代以降、ネオリベラリズム(新自由主義)に基づく経済・社会政策が全面的に採用されてきた。

そこで私たちは、この間のラテンアメリカでの経験と闘いを通じて、「グローバリズム」と呼ばれているものの典型例(の一端)を明らかにするとともに、私たち自身が学び取るべき教訓を引き出すことができれば(正確には、教訓に少しでも近づくことができれば)と考えた。以下は、そのザックリとしたまとめである。

ただ、一口に「ラテンアメリカ」と言っても、各国における政権の性格や政策、また対抗運動の実態はそれぞれ大きく違っている。これは当たり前のことで、まず各国の民族構成が違うし、政権の基盤となるものも違う、何よりも各国によって経済・社会状況は相当に異なる。にもかかわらず、共通点も間違いなく存在するのだ。

ラテンアメリカと新自由主義

ラテンアメリカでの相次ぐ「反米・左派」政権の成立は、「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれた国際通貨基金(IMF)・世界銀行(世銀)主導のネオリベラリズムによる経済・社会政策の惨憺たる結末と、これに対する人々の全く当然の反撃が生み出したものであることは間違いない。この意味で、ラテンアメリカの経験からの学習点の第1は、ネオリベラリズムは既に惨憺たる結果をもたらした、まさにグローバルな規模で“終わった”政治・経済政策だ、ということである。

ネオリベラリズムについて、私たちは更にD・ハーヴェイの『新自由主義』を通じて共通の認識を持った。「新自由主義化は、グローバルな資本蓄積を再活性化する上ではあまり有効ではなかったが、経済エリートの権力を回復させたり、……それを新たに創出したりする上では、目を見張るような成功を収めた」(p.32)。「新自由主義化の主たる実績は、富と収入を生んだことではなく再分配したことであった」(p.222)。ここにネオリベラリズムの基本的特質が集約されている。

「再分配」とは何か? 「さまざまな形態の所有権(共同所有、集団的所有、公的所有など)を排他的な私的所有に転換すること」(同前)、すなわち貧しい者から富める者への強奪、である。グローバルな規模では、「1980年以来、『マーシャルプラン50回分以上に相当する額(4.6兆ドル以上)が周辺諸国の人々から中心諸国の債権者たちに送られた』と見積もられている」(p.226)。

身近な例を挙げよう。作家・ロシア語同時通訳者の故米原万里によれば、かつて電電公社=NTTの電話加入権は、「戦後復興期に、利用者に電話通信インフラ設備投資にかかる費用を負担させるため」のものだったという。つまり「電電公社=NTTのインフラ設備は加入権者全員による共同所有」だった。ところが、それはいつの間にか、どんな理屈でか、誰かが「タダの紙切れ」にしてしまった。それどころか、チョー儲かっているはずのNTTに対して、私たちは一口9万円(だっけ?)の寄付までする始末。これが「再分配」である。

ハーヴェイは、「このこと[富や権力の集中]こそが新自由主義化の本質であり、その根本的核心であったかもしれない」(p.164)と言う。しかし、私たちはそうした事態に、ほとんど無自覚だったというトンマさ加減である。

問題は、これに止まらない。今やネオリベラリズムの政治・経済政策は、ラテンアメリカは言うまでもなく、わが日本も含め、全世界的にその破綻と無効が明白になっている。つまり、もう“終わっている”ことはハッキリしている。ところが“死なない”のである。何故か?

理由の一つは、米国の主な大学や研究機関の経済学が、今やネオリベラリズム以外は存在しないからである。米国だけではない。IMF・世銀をはじめとする国際金融機関、更には日本を含む世界の多くの国々でも、米国の大学や研究機関の出身者が政治・経済エリートとして指導的・支配的地位を占めており、その意味でネオリベラリズムはグローバルに政策決定構造の中にビルトインされているのである。これはなかなか厄介な問題だ。

新たな闘い、新たな団結

学習点の第2は、人々の闘い、団結に関する教訓である。私たちは未だに、ラテンアメリカの人々が闘うのは「貧しいからだ」と考え、日本での闘いがショボいのは「日本はまだまだ豊かだからだ」と言い訳しがちである。私たちは、いったいいつまで、そう思い込みたいのか。パート・アルバイト・派遣・日雇い・契約社員などの非正規雇用は、今や労働者全体の3分の1(アルゼンチンは4割強)。相対的貧困率は15.3%(メキシコは20.2%)。ネットカフェ難民や野宿労働者を大量に生み出し、釜ヶ崎労働者から住民票を取り上げようとする社会。これが現実なのに!

闘いのショボさ加減は、共同性・連帯感のショボさに比例する。見かけのモノの「豊かさ」に惑わされ、人間関係・共同性の「貧しさ」に気付かない限り、私たちはどこまで行っても闘えない。

そしてもう一つ。この間のラテンアメリカ各国での「反米・左派」政権の成立は、革命的転換と言ってもよいぐらいの一大転換だが、これを実現した人々の力=団結のあり様は、政党主導型や労働組合主導型、あるいはゲリラ闘争型といった、これまでのようなタイプとは明らかに異なっている。これは、ネグリ&ハート(『帝国』、『マルチチュード』)や、学習会に来ていただいた廣瀬純さん(『闘争の最小回路』)の重要な指摘である。さらに言えば、これはラテンアメリカに限った特徴ではなく、日本も含めて世界的な傾向とも言える。では、こうした新しいタイプの闘い、新しい団結のあり方とは、どのようなものか。

ネグリや廣瀬さんたちはこれを「マルチチュード」と呼ぶが、多様性の中にあるが故に(?)、非定型で解りにくい。まぁ、「連帯経済」と呼ばれたり、貧困層のインフォーマルセクターも含めた生活全体を支え合うコミュニティ活動がベースになっていると考えてよいだろう。

ただし、ラテンアメリカの人々の共同性・連帯感は、決して“生まれながら”のものでも、“永遠不変”のものでもない。学習点の第3は、この点に関わる。例えば、サパティスタはメキシコ・チアパス地方の先住民だけの組織ではなく、もともとあんな風な闘争スタイルだったわけではない。むしろ、先住民と都市インテリの双方が、チアパス地方を選び取り、団結の仕方、討議方法、闘争スタイルを、先住民としての記憶と都市インテリとしての経験をたどり、重ね合わせながら再構築したのだ。

そう、日本における共同性・連帯感は、私たち自身が再生・再構築すべき何よりの課題だということである。その場合に、“伝統”とか“歴史意識”“歴史体験”というのは、やはり重要なポイントとなるはずだ。

これについては個人的なもので恐縮だが、以下のエピソードを挙げておきたい。我が友人(46歳)が小学生時代の同窓会のサイトを見ていたら、こんな感想が載っていたという。「たまたま東京に行ったときに、靖国神社の近くを通りかかったのでお参りした。『平和を大切にしなければ』という気持ちを新たにしました」。

当然ながら、靖国神社は軍国主義の象徴であり、“平和を祈る”対象ではあり得ない。ところが、小泉は毎年毎年靖国に参拝し続け、その度に「二度と戦争をしてはいけない、という決意で靖国に参拝している」などと、到底理屈が通らない強弁を繰り返してきた。今回、上記の感想を知って、人々が小泉の靖国参拝を肯定するナゾの一角が氷解した。つまり、小泉は靖国参拝という行為を「二度と戦争をしてはいけない、という決意を表明する意味だ」とすり替えることに成功したのだ。それも、ウブな“愛国青少年”相手にではない。イイ歳をした“ノンポリの大人”相手にである。継続は力なり。これを歴史の簒奪という。

メディアとコミュニズム

補足的に、メディアに関する事項について取り上げておきたい。このテーマについては、私たちはまだほとんど討議・検討できていない。ただ、権力的な存在として、ますます人々の思考を強制し、人々の情報発受能力を奪い続けているマスメディアが大問題であることは明らかだ。

最近の事例として「光市母子殺人事件」を考えてみよう。この事件は、マスメディアによって重大事件と「認定」された。正確には、そう感じさせられた(ここが重要)のだ。その結果、人々は皆“お茶の間陪審員”となり、メディアが提供する「全ての証拠」を基に、悲痛な顔をしたキャスターやコメンテーターの見解に、自発的に同調していく。ここで「死刑!」の評決が下されれば、実際の裁判もそれ以外あり得ない。裁判権はいつの間にか、マスメディアの掌中に握られ、被疑者の弁護人たちは、刑事弁護の初歩的な原則すらメディアにお伺いを立てなければならない。さもなくば、今や「極悪弁護人」として処罰の対象なのだ。こんなマスメディアと私たちは、どう向き合うべきなのか。もはや壊すしかないのか。それとも国家的な規制を要求すべきなのだろうか。

世界的に見れば、CNNやマードックのスターTV(フォックスTV)などは、まさに「帝国」のメディア権力としてグローバルに君臨している。これと対抗関係にある一つは、言うまでもなくアルジャジーラだ。そしてもう一つ、ベネズエラのチャベス政権のメディア政策がある。これがなかなか興味深く、注目に値する。

チャベス政権のメディア政策では、今年5月、民放テレビ局RCTVの電波使用許可の更新が認められず、地上波放送を終了させられたという問題がある。これは、チャベス政権によるメディア弾圧として大々的に取り上げられた。曰く、表現の自由、あるいは報道の多元性に対する非民主的な弾圧である、と。批判したのは敵ばかりでない。ブラジル国会も、アムネスティやヒューマンライツ・ウォッチなどの名だたるNGOも同様の論調で非難し、国際キャンペーンを展開した。

だがそうか。電波あるいはメディアは私物化=私的独占の対象なのか。これは一つには、フジテレビはライブドアに、TBSは楽天に私物化されてよいか、という問題であり。もう一つは、電波およびメディアの放送権・編集権は私有物=私的独占の対象となってよいか、という問題である。

「たしかに電波の国有制は、何らかのかたちで国家への権力集中を招く危険性のある制度であるかも知れない。しかし、それでもなお、そこで私たちが向かうべきは、電波の私有化=民営化ではなく、むしろ電波のコモン化、すなわち、電波のコミュニズムであるということは言うまでもない。」(廣瀬純「政党化するマスメディア」『インパクション』159号)

チャベス政権のメディア政策が注目に値するのは、この点である。同政権は、民放局RCTVに替わって同周波数帯を割り当て、新たな国営TV局TVesを開設し、その理念を次のように説明した。「この新たなチャンネルにおいては、周波数の持ち主は、放送コンテンツの持ち主ではありません。そうではなく、独立プロダクションの開かれた参加こそがそこにはあるのであり、そのことによって〈論調の一本化〉をなくすことが目指されることになります」。

つまり、国家は周波数を所有するが、放送コンテンツ(放送権・編集権)を独占せず、独立プロダクションとの間でコモン化する、と言っている。これは画期的と言ってよかろう。少なくとも“皆様からの受信料で成り立っているNHK”とは明らかに異なっている。これに対して“弾圧されたRCTV”をはじめとする反チャベス派のメディアが、更に世界中のメディア資本が、猛烈に反発したのは、ある意味で当然である。

彼らにとって、電波やメディアがカネで買い取り可能な、私物化=私的独占の対象であることは譲れない原則であり、そこには当然、放送権・編集権の私物化もセットされていなければならない。何故なら、そのようにしてメディア資本は、「表現の自由」や「報道の多元性」を独占し、権力を行使できるからである。「表現の自由」や「報道の多元性」が元来、人々に開かれた共有物であるとは、彼らは思いつきもしない。

こうしたチャベス政権のメディア政策の前提となっているのは、ベネズエラ各地に存在する共同体メディア運動であり、これこそが2002年の反チャベス・クーデターを打ち破る大きな力の一つとなった。この点でも、人民のメディアと呼べるようなものを何一つ持ち得ていない日本の状況とは、決定的に異なっている。(福井浩:元・兵庫いきいきコープ)


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