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 山口県祝島訪問 報告

原発では
ない未来の構想に向けて

山戸孝さんに聞


 去る2月11日~12日、山口県の瀬戸内海に浮かぶ祝島を訪れた。およそ10年ぶりの再訪となる。この10年の状況変化、原発建設をめぐる動き、今後の見通し、祝島の闘いの核心などについて、お話をうかがった。40年にわたって上関原発の建設計画に揺れた島の動静は、政府の原発政策の大転換に伴い、改めて焦点となる可能性がある。以下、かいつまんで紹介する。



はじめに


 山口県の南東部、柳井市の南に位置する熊毛郡上関町は室津半島の南端と瀬戸内海に浮かぶ複数の島からなっている。そのなかの一つ、地図で見るとハート形をした小さな島が祝島だ。

 祝島の東対岸となる長島の南端・田ノ浦に上関原発の建設計画が浮上したのは1982年のこと。わずか3.5キロの至近距離。海とともに生きてきた祝島の人々にとっては生きる糧を奪われるに等しい。そこで、多くの人々は原発建設反対に立ち上がった。それから40年あまりたった現在も、上関原発はできていない。それどころか本格的な工事の着工すら覚束ない状態である。

 とはいえ、その過程は平坦なものではなかった。原発建設は国策でもあるため、電力会社だけでなく国家とも対峙しなければならない。「原発マネー」を使った切り崩し、反対運動に伴う生活上の負担、推進と反対をめぐる住民間の分断など、人々の頭上には常に有形無形の圧力が加えられてきた。こうした経緯については、長らく祝島における原発反対運動のリーダーを務められた山戸貞夫さんの著作『祝島のたたかい―上関原発反対運動史』(岩波書店、2013年)を参照していただきたい。


 なかでも2000年代末から2010年代初頭にかけては、原発建設工事に向けた公有水面(海面)埋め立ての許可の失効を控え、工事を急ぐ中国電力と工事を阻む住民との間で激しい攻防が繰り返された。現場での闘いに加え、中電側からは反対運動を妨害するための「スラップ訴訟」も乱発されたが、そうしたなかでも粘り強く団結を維持する人々の姿は全国的な共感をよび、祝島への注目を高める結果となった
(※)

 2011年3月11日の東日本大震災および東京電力福島第一原発事故が発生したことで、上関原発を巡る状況は急展開する。山口県と上関町は中国電力に「慎重な対応」を要請し、中電は敷地造成工事の中断を余儀なくされる。その後も周辺の市町議会では「計画凍結」などを求める意見書案可決が相次ぎ、6月には県知事が現状では公有水面埋め立て免許の延長を認めない考えを表明。9月には当時の民主党政権・野田首相が就任会見で原発の新設について「現実的に困難」と発言。これ以降、上関原発をめぐる動きは実質的に停止することになる。

 私が初めて祝島を訪れたのは、2012年3月のこと。今回と同じく山戸孝さんに受け入れていただき、島の暮らしや反原発運動の歴史などについてお話をうかがった。折からヒジキ漁の最盛期でもあり、朝の3時ごろからヘッドランプを頼りに磯でヒジキの刈り取りにも参加した。豊かな恵みをもたらす一方で強烈な台風が襲来するなど、一筋縄ではいかない自然と折り合いをつけながら、営々と暮らしを永らえてきた祝島、その歴史の一端を体感する中で、訪れる前は小さく見えた島の姿が、帰るときには一転して大きく感じたものだ。

 それから10年あまり。原発と言えば、関心は福島のその後、あるいは福井での再稼働をめぐる動きなどに集中してしまい、恥ずかしながら上関原発についてはさほど注意を払ってこなかった。たしかに中国電力は建設計画を断念せず、2011年も以降も県に対して公有水面埋め立ての許可を繰り返し求め、県も認めてきた。折に触れ、埋め立てのためのボーリング調査なども画策され、そのたびに祝島の人々を中心に阻止行動も取り組まれた。だが、原発事故後、政府そのものが原発の新規建設や建て替えを想定しないとする方針を掲げたこともあって、自然消滅していくのではないかと、希望的観測を持っていたのも事実だ。

 しかし、周知のように岸田政権は昨年末、ロシアによるウクライナ侵略に伴うエネルギー需給のひっ迫、脱炭素化の促進などを理由に、福島原発事故後の原発政策の大転換を強行する。「GX(グリーントランスフォーメーション)実現に向けた基本方針」と称する新方針では、原発の60年超運転や次世代型原発への建て替え(リプレース)に加え、「想定していない」はずの原発新規建設も明記するなど、目を疑う内容が盛り込まれた。

 仮に今後原発を新規建設する場合、真っ先に対象となるのは上関原発だ。大間や東通など、すでに建設中の原発は存在するものの、基本的な工事は完了しており、建設予定段階なのは上関しかない。他方、新規候補地を考えたところで実現可能性は薄い。その意味で、上関原発は新たな原発政策に関わる象徴的な意味を持つことになる。そんな問題関心から、今回およそ10年ぶりに祝島を再訪した次第である。

 
(※)そうした注目を象徴するものとして、この時期に公開された二つの映画――『ミツバチの羽音と地球の回転』(鎌仲ひとみ監督、2010年)および『祝の島』(纐纈あや監督、2010年)――を挙げることができる。


「ついてこれん」人たちも一緒に


 以下、この間の上関原発をめぐる経緯や祝島、上関町の状況、今後の見通しなどについて、山戸孝さんのお話を紹介したい。

 ところで、訪問にあたっては気がかりなことがあった。というのも、数年前、孝さんが「上関原発を建てさせない祝島島民の会」(以下、島民の会)から脱退したとの情報を耳にしていたからだ。島民の会といえば、孝さんの父・貞夫さんが長きにわたって代表を務め、孝さんも事務局次長を務めてきた島の反対運動の中心組織である。一体何があったのか。

 そこで、まずはこの点について孝さんに尋ねてみた。孝さんの答えはこうだ。

 自分としては辞めたつもりはないけど、実際には別々になってますね。本意ではなかったけれども、2018年の(町議会議員)選挙のあたりから分かれてたんですよ。もっと言うと(2011年3.11)震災前後から。昔からずっと漁師とか農家で反対運動をしよった人らと、わりかし後から島に帰ってきたような人らとが、同じ反対ではあるけれど、やっぱりどこか違ってて、昔からの人は山戸貞夫についていけば間違いないという考え方の人が多かったんじゃけど、震災以降に帰ってきた人たちからすると、(島民の会)現代表は自分たちの意見を聞いてくれるみたいな。

 あと、震災の後に島に移住してくる人が何人かいたんだけど、移住者に対して否定的な感情というのも島の人の中にあるんですよね。で、どちらかというと山戸は移住者に否定的で、現代表は肯定的っていう色分けに見られがちなんですよ。だけど、実は震災の後で最初に来た移住者に住む場所を世話したりしたのは親父なんですよ。じゃけぇ、親父も移住者を排除するつもりなんかないし、外からの応援も排除しないんじゃけど、“来んでええモンは来んでええ”いうスタンスなんですよ。
 ■山戸孝さん(右)

 応援してくれるなら何でも受け入れるんじゃなくて、一緒にやることで島の運動にとってマイナスになりそうだったり、あるいは祝島の運動を利用して自分たちの勢力拡大につなげようとするところとはお付き合いできんと。だからある政治団体が祝島の運動を利用したり、自分らの集会に島の人たちを動員するようなそぶりが見えたときにはピシャっと、「それはあんたらでやりんさい。祝島は祝島なんじゃけぇ」と線引きしよったところがあったんじゃけど、そんなところからも齟齬が広がっていったように思います。

 とくに(原発建設の資材置き場がある)田名埠頭とか田ノ浦とかで(中国電力との攻防が)厳しい状況になった時に、“ついてこれる人はどんどん行け”と、逮捕されたらどうするんかじゃなくて、逮捕なんかされるわけがないとか、逮捕する方が悪いんじゃみないな、とにかく突っ走れというような人たちがおって。で、漁師さんとか“もうついていけん”という感じになってきたんですよ。たとえば抗議活動で現地に作業船が来ると、抗議の船を作業船にぶつけるぐらいの勢いで寄せていって工事を止める。それはすごいことだし、間違ってるとは言わんけど、そこまでできん人が船を遠巻きに停めとったりしたら、抗議活動が終わって島に帰ってから、酒の勢いで「船寄せんような奴は来ん方がマシじゃ」みたいなことを言ったりする。そうなると古株の漁師さんたちは“ほんならお前らだけでやれや”ってどんどん離れていく。

 そこに漁協の赤字問題で、補償金を受け取る受け取らないって問題も絡んできて、親父としては受け取りを認めたくはないけれども、総意として受け取るって意見が多数になるんなら、それは仕方ない、最終的には漁師が自分の意思で決めるべきだっていうスタンスだったのが、一部の人たちは無理やり(受け取り拒否の)委任状を書かせるようなやり方で、“こいつは怪しいから投票さすな、委任状を渡せ”みたいな形で強硬にやったんですよ。それで反発を生んで、ただでさえ島の中で分裂しているのに、さらに分裂を招くようなやり方をしてるから、これはまずいっていうんで、僕は苦言を呈したりしてたんじゃけど。

 で、最終的には選挙の話になるんですけど、2017年の暮れに、2018年2月の選挙に向けた集会があったんですよね。島民の会としての候補を決める集会で、運営委員会が決めた現代表を含む2人を出してシャンシャンで終わるつもりじゃったんだろうけれども、僕としては、今のやり方についてこれん人が実際におるわけだから、2人出すんでも、1人はいまの島民の会のやり方についてこれん人たちもしっかり巻き込んで一緒にやれるような人であり、かつ候補の2人とも高齢なんで、若手の候補を出すべきだ、と。

 あと、町長選挙が1年半後に迫ってたんですよね。候補の1人は島民の会の代表、もう1人は上関町民の会(上関町全体の原発反対の住民組織)の代表なんで、1年半後の町長選挙を見据えたときに、申し訳ないけどどちらかは反対運動側の町長候補として残しておくべきじゃないかと。当時現職の町長は推進派だけども反対派にもある程度理解がある人だったんで、(反対派が候補を立てず無投票で)選挙にならない可能性もあるけれども、何があるか分からんし、反対派として候補を立てにゃいけんとなった時のために、どちらか1人は残っていただいて、その代わりに若くて、いまの動きについてこれん人も巻き込めるような人を選ぶべきなんじゃないかって、僕は集会で公然と提案したんですよ。ところが、司会の人はほかの人の意見を聴くこともなく、「はい、山戸君の意見は分かりました」って決を採りよったんですよ。

 言うべきことは言わにゃいけんから言ってたんですが、議論もせずにそんなふうに決を採られてしまったわけですね。だから、「分かりました。自分で言った意見の責任は自分とらんといけんから、今回の町議選挙に出ます」とみんなの前で宣言したんです。そこから大モメですよ。

 文句言う人もおったけど、「よう言うた」とか「これからは若い奴が頑張らんといけん」と評価してくれる人もおったから、島の人たちも島民の会に従う人たちばっかりじゃないんだなという自信はあったんですよ。島民の会は島の中で権威なんですが、それでも島の人たちは、島民の会が原発反対の候補として決めた2人だけでなく、そこから外れたような僕でも、いいと思えば投票してくれるという自信があったんで、実際に選挙に挑戦して、反対候補の中では最多の得票をいただいたんですよね。もちろん親父の影響は大きかったでしょうし、自分は妻が本土(長島)側の出身なのでその関係とかもあった。若いということで応援してくれた本土の人もおったみたいですね。権威に逆らういうんか、「自分たちはこうする」って言える強さがあるのが祝島の反対運動の基礎だし、良さだし、それが実感できたのが選挙の時だったんですね。

■家々が集中している港前の風景
 いまから見ればもっとうまいやり方はあったかもしれんですね。でも、それくらいしないと、なかなか状況は変わらんな、と。やっぱり権威ある島民の会が言ってるんだからそれが絶対だって思っている人たちもいますからね。外から見れば派閥争いってことになっちゃうじゃろうけど、やってる本人にすれば、思想なり信条なり思いがあった上での闘いであることはそうなんですね。

 若干注釈を加えたい。お話の中にある「補償金を受け取る受け取らないって問題」とは、上関原発計画に伴う漁業補償のことである。中国電力は2000年、原発予定地近辺に漁業権を持つ8漁協に対して総額およそ125億円の漁業補償を提示し、原発反対を貫く祝島漁協を除く7漁協との間で合意に達した。中電は全額を支払ったものの祝島漁協だけが受け取りを拒否、祝島漁協の分は県漁協の本部が管理することになった。

 県漁協は「漁協全体で合意した」との立場から、祝島漁協に対して繰り返し受け取りを要求してきたという。補償金をめぐる祝島漁協での採決は2009年、10年、12年、13年と行われ、12年までは受け取り反対が賛成を上回っていたが、13年には賛否が逆転した経緯がある。

 また、町議会選挙について言えば、2018年の選挙では、孝さんも含めて祝島から立候補した3人全員が当選。2022年の選挙は無投票当選となり、やはり祝島から3人が当選したが、孝さん以外の2人は世代交代して孝さんよりも若手となった。


「ナマクラでも厚くて折れない」闘い

 さて、お話にあるように、基本的には運動の進め方をめぐる考え方の違いから、孝さんと島民の会との間に齟齬が生じ、別々に進むことになった。率直に残念ではある。とはいえ、考え方の違いはあっても敵対しているわけではなく、原発反対という点では変わらない。議会の場における協議や連携もあるという。

 島民の会はいままでやってきた反対運動の型っていうのがあるわけで、基本的にはそれを継続していますよね。外から見て、反対運動の中心は島民の会にあるし、以前からの協力関係もあるんで、外からは島民の会にアプローチしたり、集会なんかに呼んだりとか。

 僕はどちらかというと町内への発信が中心ですね。祝島だけがよくなればいいんじゃなくて、祝島をよくするためにも上関町全体がよくならないといけん。祝島だけが原発反対を堅持していれば原発計画が止まるかって言えば、おそらく止まらんじゃろうと。これまでやってきたように抵抗することはできても、国が上関原発計画を本当にやるつもりなら、祝島だけでは絶対に無理なんですよ。やっぱり、本土側の人たちにも原発がない方がいいと思ってもらわんといけんから。
 ■島から原発予定地の田ノ浦を望む

 SNSの影響もあると思うんですけど、ここ数年は運動のあり方も直線的だったり単純化されてるんですよね。単純化した方が即興的な受けもいいし、シンプルだから強い部分もあるんですが、逆に言えば脆いんですよね。先鋭化するのも、鋭ければ切れ味はよくても折れやすい。現状はそういう方向に向かっちゃってるように思うんですよ。祝島の昔の運動は自分が知ってる範囲でも、いろんな複雑で繊細なものを内包しつつも、外に向けて発信するときには一枚岩だった。それは鋭いというよりは厚みを持った一枚だったんだけれども、いまは鋭く薄いんですよね。それは、原発問題みたいに何十年も権力と闘うときに手に持つべき武器なのかどうか。ナマクラだけれども厚くて折れないものの方がいいんじゃないか。

 最初から短期決戦で終わるんなら別ですけど、上関原発みたいに国、電力会社、権力が相手の闘いの中で、先鋭的な闘い方っていうのは、向こうの粘り強さを軽視しているように思えてしまいますね。向こうは風向きが悪いとなったら5年でも10年でも黙っておいて、ほとぼりが冷めたら何喰わない顔をしてまた攻めてくる。チェルノブイリでも福島でも、これでもう原発はないなと思ったら、10年過ぎてこんな状況ですからね。そう考えたら、うちらの持つべき武器っていうのは、鋭さはなくても厚くて曲がらない、歪まないものなんじゃないかと思いますよね。祝島の闘いはそういうものだったと思うんですが、だんだん薄くなってきてしまったという気がしてるんですよね。


 この点については、最初に祝島を訪れた際の記憶がいまも鮮明である。当時、福島第一原発事故から1年が経つか経たないかの時期にもかかわらず、四国電力伊方原発の再稼働に向けた動きが報道されていた。実は、祝島と伊方原発は50キロも離れておらず、海でつながっている。それを受け、島外から来て孝さんを手伝っていた若者が、“島でもこの動きに反対する動きを作るべきだ”と前のめりの姿勢を見せたのに対して、孝さんは島の中で合意を作ることの重要性を諄々と説いていた。このあたりが、「先鋭的な闘い方」について行けない人も含めて、「ナマクラでも厚くて折れない」運動のあり方に関わるところだろう。早くからそうした考え方を持っていたのだろうか。

 島に帰ってきたばかりの時は経験もないし、そういう考えはなかったですよ。だんだんそう考えるようになったんは、運動経験を積んでいくなかでですよね。あと、やっぱり山戸貞夫といろいろ話をするなかでですね。とくに20代のころは飲みながらよくケンカしてましたよ。僕が意見を言うと、「まだ考えが浅い」って返されたりとか。「このクソ親父!」と思ったことも何度かあったし。いまとなっては「なるほどな」って思うところもありますけどね。

■祝島独自の景観を形づくる「練塀(ねりべい)」。練った土と石を交互に積み上げ、表面を漆喰やモルタルで固めて造る。台風の襲来にさらされてきた島らしい生活の知恵。
 将来のことを考えたら原発なんかやめた方がいいに決まっているのに、なんでそうならんのか。そんなことを考えたときに、正しいか間違っているかも重要だけれども、それを伝える人の振る舞い方なんかもいろいろ影響してるんだろうな、と。

 昔の学生運動なんかでも、僕は何も知らん時は政治にのぼせ上った学生が無茶しよったくらいにしか思ってなかったけど、親父の話を聞いたり、いろいろ本を読んだりするなかで、もともとは真面目に社会のことを考えて正しいことを追求していったのに、ああいう結末になっちゃったって理解するようになったんですね。じゃあ、祝島の反対運動はどうなんじゃ、と。もし自分が推進派だったなら、反対運動はどんなふうに見えるんか。相手方の立場から自分らを見たらどうなんだろうというのは考えましたよね。

 基本的に反対運動は好きじゃなかったですから。子ども同士で遊ぶときにも、推進派の子どもの家に集まって遊ぶ時には自分が呼ばれんかったり、自分のうちで遊ぶ時には推進派の家の子どもが来なくて、後から聞いたら親に「山戸の家にはいくな」と言われたとか。じゃけぇ、原発問題っていうのはタブーで、デモは恐いもんだっていうイメージがあったから、島に帰った当初はデモにも参加してなかったんですよ。

 申し訳ないけど、今でも他所から来た人とか移住者の人とか、嬉々として祝島のデモで「原発反対!」ってやっている人を見ると、すごいなと思うんですよ。ある意味で他人事だからできるんかなと。自分の場合だと「原発反対!」っていう言葉の先に顔を知ってる推進派のおっちゃん、おばちゃんがおるわけだから、最初は言ってええんかどうかわからんかったですよ。

 ただ、やっぱり島で農業とか漁業とかで食っていこうと思ったら原発が建ったらまずい。ここ(祝島)でやっていく責任の一つとして原発反対はしていかにゃ、っていうんで、やるようになったですね。それでも、自分なりに(やり方として)よくないなと思うこともあったんで、ハンドマイクでシュプレヒコールするときには他者を攻撃しない言葉にしようと。「原発反対、きれいな海を守ろう、きれいな故郷を守ろう」。ひたすらこの三つしか言わないようにしたんです。

 正直、耳の痛い話である。私自身、福井県の原発立地などで行われる再稼働反対の集会・デモなどに参加した際に感じる、ある種の身の置き所のなさを想起させるものがある。地縁・血縁のしがらみなどから、地元の人々が自らの意見を表明しづらい状況にあるなか、多くは原発の電気を消費する、つまり構造的に原発を押し付けている側の人間がたまにやってきては、地元の声を代弁するかのように振る舞い、言葉を発する。原発を受け入れざるを得ない人々にとって、そうした振る舞いや言葉がどんな意味を持つのか。時として暴力性を帯びる可能性に思い至らざるを得ない。


「原発方針の大転換」を受けて

 さて、冒頭で触れたように、岸田政権が原発政策を転換したこともあり、この間、再び上関原発が注目を浴びる状況が生まれつつある。昨年11月、県は中国電力に対して、原発建設に関わる公有水面埋め立て許可を延長する書類を交付した。延長は27年6月までとされている。依然として原発をあきらめていないようだ。こうした動きを、祝島の人々はどう見ているのだろうか。

 「島民の会」と「原発に反対する島の住民」では少し違ってくると思います。島民の会としては従来どおりの対応でしょう。基本的に祝島の運動って「守り」であり「受け」なんですよ。こちら側からこうしてやろうって攻めるんじゃなくて、向こうが何かしてくるから防ぐ、カウンターでやるっていうのが運動の基本なんですよね。そこは変わっていない。今回も、岸田政権の原発政策の転換に対して、たとえば抗議の署名をとろうとかいったアクションをとっているわけではない。むしろ市民団体とかがアクションをとろうってなった時に、島民の会がよびかけ団体の一つになるとかいうのがこれまでだと多いですよね。

 原発に反対する島の住民の一人として言うと、推進派も含めて、ある程度冷静に受け止めているんじゃないかと思います。岸田政権が言っていることが、そのまま上関原発の動向に重なって事態が動き出すと考えている人はほとんどいない。12月の議会でも町長に対して、「上関原発は進まないと思っているが、町長の考えはどうですか」と訊いたところ、「上関原発がこれで動くとは思っていない」と答弁がありました。だから、推進派もある程度冷静な見方をしています。

 去年まで(中電による)ボーリングや埋め立ての動きもあったんですが、3.11の前だったら、内部告発とかならともかく、中電が何をするにしても自分から情報を伝えるなんてことはなかったんですよ。それが今回のボーリング調査については、中電が翌日の作業の有無を反対運動側に教えているんです。「明日は作業をします」「明日はシケだから作業はしません」みたいな。

 まるで抗議してくれというようなもんですが、それなりの背景があると思います。中電としてはボーリング調査を完了してしまうと埋め立て工事に入らないといけなくなってしまう。しかし、ボーリング調査が完了できないから、埋め立て工事に着工できないって言い訳で、県に対して申請を延長し続けているんです。

 というのは、いま埋め立て工事に入ってしまったら、仮に上関原発ができなかったときに工事費用などが全部負債としてのしかかってくるわけです。3.11の前ならともかく、これから新規建設するのはすごいコストがかかります。果たしてできるかどうか分からんし、できても採算が取れるんか、中電としても内心は不安だと思います。そんな中で埋め立て工事を進めてしまえば、結果として無駄な費用を積み上げることにもなりかねない。だから、あえて反対運動側に情報を流して抗議をさせて、「自分たちはやるつもりだけれども、祝島の人たちが反対するからできませんでした」ということで先延ばしをしている。そういう見方もあります。
 ■港の傍らにある小屋には「原発絶対反対」の看板が

 僕は島に帰って反対運動に関わって20年だから、祝島の反対運動40年の中で半分くらいしか経験しちょらんですが、その経験から言っても、もし中電が本気でやろうと思ったら、こんなもんじゃないですよ。それこそ夜討ち朝駆けでやってくるはずです。あるいは、情報を伝えながら、その裏をかいたりするでしょう。


 経済産業省は2015年の試算で、原発1基当たりの建設費を4400億円と推定。そこから原発の発電コスト(1kw/時)を「10.1円以上」(うち3.1円が建設費に相当)と推計し、12.3円の石炭火力や11円の水力より安い電源と位置付けている。だが、龍谷大学の大島堅一教授(環境経済学)によれば、原発のコストには建設費や燃料費などを足した「発電コスト」と、事故対応費などを含めた「社会的費用」を合算する必要があり、福島事故の処理費などを踏まえた事故リスク対応費の増加分なども算入すれば、原発発電コストは「17.6円以上」にハネ上がるという(2018年5月17日付『東京新聞』電子版)。

 また、「英国で計画中の『ヒンクリーポイントC原発』(160万キロワット級×2基)の建設費は245億ポンド(欧州委員会の14年の想定。直近の為替レートで日本円に換算すると約3.5兆円)です」(2019年1月23日付『朝日新聞』電子版)というように、世界的にみても原発の建設費は高騰しており、福島事故の後に見直された安全対策などを加味すれば、原発1基当たりの建設費は軽く1兆円を超えると見なければならない。いくら国策とはいえ、電力会社としては二の足を踏むのも無理からぬ面がある。

 しかし、そうであるならなおさらのこと、国は現時点で唯一可能性のある新規計画として、上関原発に固執し続けるだろうことは容易に想像できる。そうした状況のなかで、祝島を含め上関町の人々は引き続き、先の見えない宙づり状態に置かれることになってしまうのではないか。

 推進派もやっぱり「受け」なんですよね。現状では望んでもすぐに原発ができるわけでもないし。ただ、原発推進と言い続けることで、国や電力会社から何かしら引き出せるものがあるから、推進の旗を降ろすわけにはいかない、というところは明確にあります。もちろん、本気で推進を唱えている人はいます。とくに年配の人なんかは、立場は違うけど反対運動と同じように何十年も積み重ねてきたものはあると思います。一方で、若い人たちなんかは、現実的に考えて(新規建設は)無理なんじゃないか、でも反対したからってお金が落ちるわけじゃない。だから推進の旗を降ろすわけにはいかんって。

■炊いたヒジキを釜から揚げる
 悲観的な見方になりますが、原発推進で進むのも難しいし、かといって原発ではない方向、例えば再生可能エネルギーとか自然を生かした観光とかに転進することもできずに、結局このまま先細っていくっていうのが、一番可能性の高い予想図ですね。もちろん、僕としてはそういうふうにしたくはないから活動もしているし、発言もしているわけですけど、町全体がこのままなら、にっちもさっちもいかなくなって、合併してもらいたいけれども受け入れてくれるところもない、状況によっては夕張市のように自治体破産、財政再建団体になってしまう、そんな想像すらできてしまうんですね。


「次の次の世代」のために

 お話の中にある「再生可能エネルギーとか自然を生かした観光とか」に関して言えば、2010年ごろに島民の会の中から「祝島自然エネルギー100%プロジェクト」計画が打ち出され、賑々しく始動した記憶がある。同プロジェクトのウェブサイトには「まず祝島自らが、原発ではなく、自然エネルギーで自立(自律)できることを実践的に示しつつ、瀬戸内に最後に残された貴重な自然や、豊かな食を提供してくれる海と山、そして千年続く祝島の文化や伝統こそが、これからの地域社会づくりであることを、身をもって世に問いかけたいと考えます」とある。文字どおり、島内で使うエネルギーをすべて自然エネルギーで賄うとの目標の下、島外の支援者も巻き込みながら島の経済的自立を展望する、遠大な構想である。従来の運動が「受け」だとすれば「攻め」の運動展開であり、福島原発事故を受けた世論の変化とも重なって、それなりに大きな注目を集めていた。現在はどうなっているのだろうか。

 現在は休止状態ですね。最初にいただいた寄付金なんかは、太陽光パネルの購入や設置に使ったりしたし、そこから上がる売電収入については島づくりに回していくってプランもあったんですけど、そのまま取り組みを続ければ島の中がモメるだけだから休止しています。島にとって避けられない波風なら仕方ないですけど、必要のない波風を立ててしまうくらいなら、呼びかけに応じて支援していただいた方々には申し訳ないけど、今は眠らせておこうと。

 希望としては、世代交代が進んで、僕らの動きに否定的じゃない世代が中心になれば、また動き出す機会はあると思っています。

 僕としては、必ずしも自然エネルギーありきではないんですよ。むやみに山を切り開いたり、使える農地を占領したりする事例もあるし、太陽光パネルの廃棄の問題とかもそうです。じゃけぇ、批判される面もあるのも分かります。大事なのは、それも含めて島のみんなで議論して決めていくことだと思うんですよ。ただ、現状では意見の違いが人間関係のミゾを生んでしまいがちなんで、いくら自分が正しいと思っても相手の感情を逆なでするような形になったらまずいなと思っています。

 祝島は離島ということもあって本来はオフグリッド(電力会社の送電網[グリッド]に接続されておらず[オフ]、電力を自給している状態)でエネルギーを自給する方が、現状でエネルギーを買うために外に出しているお金も島に戻るわけだから、経済的にも理想なんじゃけど、進め方によっては島内の分断を招くことになるんなら、いまは無理に進めない方がいいんじゃないかと。じゃけぇ、できることを進めていくしかないですよね。最終的に自分たちの代でできなくても、次の世代、次の次の世代で実現していけるんであれば、それに越したことはないし、その下地をつくっていくことができれば、それでいいのかなと思いますね。まぁ、次の次の世代がおるのか怪しい部分もありますけど、祝島も上関町も。

 祝島の人口は2023年2月末現在で293人。以前訪れた2012年が478人なので、減少傾向は紛れもない事実である。総人口に占める65歳以上人口の割合を示す高齢化率は8割近い。上関町全体で見ても、1965年までは1万人を超えていたが、やはり長期的に減少傾向にあり、1995年では5248人とほぼ半減し、2015年には3151人、2023年2月末現在では2362人となっている。かつての訪問時にはUターン、Iターンの方も何人か見られたが、現在はどうなっているのだろうか
(※)

 (※)参考までに、「『ハートの島』が直面する大きな問題。女性が立ち向かうと決めたのは、小学生の“一言”がきっかけだった」(2023年3月24日付『BuzzFeed News』)には、島にルーツを持つある女性が今年から始めた「祝島定住応援プロジェクト」の模様が紹介されている。


 Uターン、Iターンの人も来るけど、トータルとしては自然減の方が多いです。Uターン、Iターンの人たちも、ずっとおるわけはでないですから。いったん来られたけど、また出る方もいらっしゃるし。あと、ずっと住む人だけが偉いのかっていうのもあって、とくにUターンの人らは、住民票は外に置きながら年の半分くらいは祝島にいるって人もいますしね。じゃけぇ、極端な話、祝島の住民票はゼロでも、年の半分は祝島にいるって人が100人いれば、考えようによっては100人の島とも言えるわけですよね。昔に比べると土着の意味合いがだいぶ薄まってきてはいると思うんですけど。
 ■釜揚げしたヒジキを網に広げていく

 ただ、土着の強さは依然としてあって、それが祝島の反対運動の強さを支えてもいると思います。ずっと島で暮らしていくからこそ譲れんもんがあるわけじゃないですか。それが強さであったり、文化でもあるし、祝島で生きる意味だと思うんですよ。だから、祝島で年に2ヶ月くらい過ごして、祝島のことが大好きだっていう人もいるだろうし、そういう人にもどんどん来てもらいたいけど、最終的に島の未来を決めるのは常にいる人だろうという思いもあるわけで。

 昔からおるんですよ。わざわざこんな不便な島にずっと住まんでも、もらえるもんだけもらって、広島にでも移って暮らしとったら一生食うには困らんじゃって。でも、そういう生き方をしたいかっていうと、それでええんかっていう。


「選択的土着民」の思想

 言うまでもなく、そうではないからこそ、これまで祝島の多くの人々は原発や原発に象徴される金銭や便利さを受け入れず、自然とともに生きてきた島の豊かさに将来をつなごうとしてきたのだろう。そうした祝島の暮らしのあり方は、島外の少なからぬ人々の共感も呼んできた。もちろん、そこには当事者でない立場からの過剰な思い入れもあっただろうし、多くは都市に住む人間ならではの一方的な理想化があったかもしれない。だが、それだけではないはずだ。とくに福島原発事故を経て、そうした共感はかなりの程度定着したと思われる。私たちの「豊かで便利な」生活が、実は誰かの犠牲の上に成り立っている。そんな状況を子や孫の代まで続けられるはずもない。むしろ、破綻の予兆はそこかしこに見え隠れしているではないか。そう気づいたとき、どこに出口を求めるのか。原発が象徴するような未来を思い描くより、私たちの過去の暮らしから未来へ向かうヒントを探ってみるべきだと思うのだが。

 人生の選択肢としてこういうところがあると知ってもらうのはいいと思うんですよね。実際、祝島に何十万人の人が住めるわけでもないし、こういう生き方をしたいっていうのが圧倒的多数の価値観かって言われると、そうではないだろうと思いますね。でも、「田舎暮らしバンザイ」みたいなのとは違った意味で、マイナスの現実も踏まえながら、ここで生きていくという生き方が世の中にはありますよという提案はあってもいいと思いますね。

 自分も祝島出身じゃから帰ってきたけど、祝島に縁も所縁もなく育って、例えば震災を機に祝島のことを知った時に、じゃあ祝島に移住する気になるかって言えば怪しいでしょうね。でも、自分の場合は祝島に生まれ育って、子供のころから知ってるおっちゃん、おばちゃんがいるし、島に帰ってきてから、いろんな人と良くも悪くも濃い関係を作っているなかで、ここが好きだからここにおるっている感覚はありますね。それこそ、島を出ようと思えばいつでもできるし、もっと若ければ大阪や東京で働くっていう選択肢もあるなかで、それでも人口何百人かのこの島に帰ってきたっていうのは、ここじゃないと得られんもんがあるっていうような感覚があるからだと思いますね。

 むかし、うちの親父は「運命的土着民」と「選択的土着民」って言葉を使ってたんですよ。生まれ育ったのがここで、出たとしてもほんの少しで、ここにいるしかないからいる。それが「運命的土着民」。そうじゃなくて、ルーツは島にあるけれども進学や就職で島を出て、都会に暮らしたり海外に行ったこともある。祝島の人は船員とかで海外に行く人もいたんですよね。でも最後に暮らすのはここだっていうのが「選択的土着民」。祝島の場合は選択的土着民が多かったのが、原発反対が多数派になった一つの理由じゃないかと。

 運命的土着民は地域の権力構造というか、地域の顔役、議員や自治会長、民生委員、エライさんの言うことを聞いとりゃええって流される面が強いんですよね。上関町全体で言うと本土の側はその傾向が強いんです。でも祝島の場合、中学を出たら、ほぼ進学か就職で島を出にゃならんし、場合によっては出稼ぎで原発に行って被ばく労働をした人もいたり。いろんな経験を積んだ上で祝島で生きようと思って帰ってくる人が結構多い。だから、権力とかエライさんの言うことに疑問を持つことができたと。あるいは、ほかにも選択肢があるんだって知ってる人がいたから、最終的に原発反対の人が多くなったのではないか、というのが親父の考えだと僕は理解してます。

 いまとなっては、テレビや新聞だけじゃなくてネットでもいろんな情報がとれますから、昔とは違うかもしれないけど、上関町に原発が来た当時の状況だと、そういうことが言えたんだろうなと。だから、やっぱり外の世界を知った上で考えることが大事なんだと思いますね。もちろん、外の世界を知ったからといってみんながみんな祝島を好きになるわけではないですけどね。実際、田舎の凝り固まった部分がどうしても嫌だとか、隣近所で晩飯まで知ってるような関係には耐えられんとか。それで、もう島には帰らん、という人もいます。でもそれはそれで、選択ができるのが一番じゃないでしょうかね。


祝島が突きつける問い

 お話をうかがった翌日、わずかばかりだが孝さんの仕事を手伝うことになった。

 一つは、あらかじめ釜揚げされたヒジキを網に広げ、天日干しの下準備をすること。もう一つは、干したサヨリの袋詰めだ。いずれも港の傍らにある作業小屋で行うが、もともとは80年代に漁協の女性グループがはじめた仕事だそうだ。

 作業を行うのは孝さんのほかに女性3人。高齢の方2人に比較的若手の方1人である。私が組んだ方は、島出身だが長らく島外で暮らしてきたという。島に帰る前は兵庫県の明石市にいたが、一番思い出深いのは京都府の宇治市だったそうだ。盆・正月や墓参などで定期的に島と往来し、実家の維持管理をしてきたこと、昔からの顔なじみもいて心安いことなどから、島に帰って晩年を過ごすことにしたという。こうしたUターンも少なくないそうで、考えてみれば腑に落ちる話である。

■一夜干ししたサヨリは慎重にまとめて袋詰め
 ちなみに孝さんによれば、祝島の人が島外に行く場合、東京など関東圏は少なく、関西圏が多いという(御自身も大学時代は大阪府茨木市に住んでいた)。島民の深層心理に中に何かあるのかもしれない。

 それはともかく、基本的には以前訪れた際と同じく、島の陸と海で採れた自然の恵みにひと手間を加え、島外の消費者に届ける作業が生活の中心である。

 主力となる産品は、まずはヒジキ。釜揚げと乾燥と二種類あるが、島外には乾燥ヒジキが中心だ。次に枇杷の葉を乾燥させた後に炒ってつくるビワ茶。これも祝島特産である。さらに干しダコとゆでダコ。加えてサヨリの一夜干し。内臓を除いたものとそのままの二種類がある。

 もちろん、そのほかにも祝島近海では多様な魚種が水揚げされるが、定期的に一定量を確保するのが難しかったり、加工設備が必要だったりと、試行錯誤の末に現在のラインナップに落ち着いたそうだ。

 とはいえ、先行きには懸念もあるという。例えば、サヨリは船2艘で網を曳く漁法が基本だが、魚価の下落で2艘曳をする漁師が減っているらしい。さらに言えば、そもそも漁師の高齢化が進んでいるし、かと言って必ずしも次の担い手がいるわけではない。孝さんが「次の次の世代がおるのか怪しい部分もありますけど」と言ったように、人口減少と高齢化の影響が否応なく拡大しているのである。

 こうした状況こそ、原発を受け入れる、というより受け入れざるを得なくなる大きな背景であることは言うまでもない。しかし、いったん原発を受け入れれば、もはやそこから離れることも、それ以外の道を模索することも難しくなる。

 上関町の場合、原発が完成していないため立地自治体のような状況ではないものの、それでも原発関連の交付金は下りている。ただし、現状ではこれ以上の積み増しを期待することはできず、人口減少や高齢化などによる財政難を克服するような状況にはなっていない。それゆえ、推進派としては依然として原発建設への期待をつなぐことになるわけだが、かといって現状ではその見通しも覚束ない。仮に建設されるとしても何年先になるかわからず、現にある窮状への即効性のある対策にはならない。

 本来なら、ここで原発とともにある将来の展望を断念し、別の道を模索すべきなのだろうが、推進派としては過去40年にわたる営為を自己否定することにもなり、いまさら別の道を探すことも難しいのが実際のところだろう。

 そうだとすれば、次のような、あまり考えたくない仮定が思い浮かぶ。すなわち、上関町の過疎化や財源不足への即効性ある対策として、従来の発想の延長線上で原発関連ではあるが原発ではない別の施設を誘致し、それにまつわる交付金を獲得しようとする方針である。この点で言えば、周知のように北海道の寿都町は、原発から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分地選定に向けた文献調査に名乗りを上げている。

 とはいえ、瀬戸内海に面した上関町と寿都町では地理的条件や近隣自治体との関係も異なる。長らく原発の賛否で揺れてきた当該地域にとって、「最終処分地」の名称は高すぎるハードルだろう。それに比べると、「中間貯蔵施設」ならば、建て前上は一時的な“仮置き場”に過ぎず、発電に伴う事故を考慮する必要もないため、原発に比べて危険性は大幅に低いと主張できる。原発関連施設である以上、国からも中国電力からも、これまでの経緯との兼ね合いで文句を言われる筋合いはないだろう。相応の交付金を期待できることは言うまでもない。

 もちろん、これは勝手な想像に過ぎないが、各種の状況からくる一般的な推論の帰結でもある。そんなことにならないために、私たちは何ができるのか。都会が物質的な繁栄を謳歌するのと裏腹に地方は過疎化に追い込まれ、都会にとって必要だが危険性の高い施設が金銭をダシに地方にばかり押し付けられる。そんな世の中でいいのだろうか。それとは異なる、どんな未来を構想していくのか、どう実現していけるのか。今回もまた、祝島から多くの問いを突きつけられる訪問となった。

                                                    (山口 協:当研究所代表)
  


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