アソシ研リレーエッセイ
年の瀬に実家の押入の掃除をしていたら、一枚の写真が出てきました。父が撮ったもので、撮影した年、日付、時間は忘れてしまったのですが、その時の父親の掛け声や家族の笑い声は覚えていて、つい見入ってしまいました。
こんなことをしていたら時間ばかり過ぎて終わらないなと思い直して作業を始めたら、次は40年ほど前に高校の修学旅行で福島県会津へ行ったときに買った張り子の赤べこが出てきて、猪苗代湖や磐梯山へ登ったことを思い出し、また手が止まってしまいました。あの頃は、福島の原子力発電所で事故が起こるなんて思いもしませんでした。
■ ■ ■
福島第一原発事故が起こる前、アメリカのスリーマイル島原発事故(1979年)や旧ソ連のチェルノブイリ原発事故(1986年)など海外で深刻な原発事故が起きました。しかし政府は、日本の原発の安全基準は厳しく、日本の基準ではあのような事故はありえないといった文言を宣伝し、世論の動揺を抑えてきました。地震が多く、巨大地震が来れば津波が襲ってくる海岸線に五十四もの原子炉が現在も並んでいます。
原子力事故の中でも、商用原発が事故を起こして住民が住んでいる地域を放射能で汚染したのは、スリーマイル島原発事故、チェルノブイリ原発事故、福島第一原発事故で、事故後、スリーマイル島原発は2019年をもって1号機を閉鎖することを決定し、チェルノブイリ原発では半径三十キロ圏内は立ち入ることが厳しく制限されています。
では福島第一原発はというと、放射性物質で汚染された場所を除染し、強制避難を解除して住むという他の原発事故とは違う方法をとっています。そこで暮らしていた人々にしてみれば、除染が済んだからといって、街並みが変わり、家も家財道具も廃棄され、思い出も消えてしまった故郷が、原発事故前と同じ居心地を感じることができるのでしょうか。
太平洋に面した東北4県のうち、岩手県にだけ原発がありません。なぜかなと思っていたところ、1980年代初頭に、岩手県三陸地方、田野畑村の明戸海岸に原発の誘致話があったことを京都新聞の記事を読んで知りました。
■ ■ ■
この原発の誘致話で、田野畑村は二分されました。東北地方は他地域と比べて雇用機会が乏しく、地域内での雇用市場の形成が弱かったことから、高度成長期の前半をピークに出稼ぎが多い地域として他を圧倒していました。このような経済的状況の中、「原発が建設されれば補助金が出ますよ」と行政や電力関係者から言われると、出稼ぎに行く負担が減って暮らしが楽になるからと、心ならずも誘致に賛成してしまうのも無理もありません。福島第一原発事故を経験し、被災地のたどった経過を見てきた時点から非難するのは簡単ですから。
これに反論し、原発建設反対運動の中心にいたのが岩見ヒサさんです。大阪から戦後まもなく田野畑村役場のそばにある宝福寺の住職と結婚し、この村で暮らし始めました。その頃田野畑は無医村で、看護師の資格を持っていた岩見さんは保健婦の資格も取り、村内に点在していた戦後開拓地を歩いて通いました。
岩見さんの著書『吾が住み処ここより外になし―田野畑村元開拓保健婦のあゆみ』(萌文社、2010年)によると、第二次世界大戦後に、食糧増産、復員軍人、海外引揚者、戦災者の就業確保を目的とした開墾が実施され、田野畑の開拓地で暮らす女性たちは、電灯もない極貧の中で、開墾という重労働に従事しながら幾人もの子どもを育ててきたそうです。そのような女性たちに寄り添いながら、出産・育児の指導や料理教室の開催など、岩見さんは、開拓保健婦として無医村の暮らしを支えました。
開拓保健婦として長らく働いてきた保健所の定年後に降ってきたのが原発立地の動きだったのです。事故が起きたら村は終わりだと唱えた岩見さんに賛同した人が連なり、原発建設反対運動を続けました。岩手県ではその後、原発が建設されることはありませんでした。その経緯に、この一人の女性とそれに連帯した村の人たちの存在があったことを忘れないでいたいと思います。
(河村明美:㈱よつ葉ホームデリバリー京都南)