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コラム 南から北から
私たちが牛飼いをする理由


 この原稿を書いている今、台風14号が接近していて、外は荒天となってきました。毎日、朝から晩まで働きっぱなしの夫も家にいて、初めて家族3人で一日一緒に過ごしています。

 前に、夫がTwitterに投稿した飼いヤギの動画が少し注目され、色んな方からメッセージが届き、リツイートされました。その中に、「この方は酪農家。牛は繁殖させて屠殺場に送るけど、山羊は「飼い山羊」で終生飼養? それともかわいいと言っているこの山羊もいずれは屠殺場に送るんでしょうか? 酪農家のこの感覚が理解できない。いずれ殺す命をこうして晒して可愛いと言えるのが、あなたたち酪農家なんですよね」というものがありました。

 夫はその方にメッセージを送りました。

 「牛もかわいいです。半分家族です。厳密には屠殺場にはまだ送った事はないですが、その時は間違いなく心が締め付けられる思いをするでしょう。ただ、需要があるので僕たちは売り、屠畜します。ヤギも肉としての需要が高まれば、肉として売るかもしれません。僕らはどこかで動物をモノとして割り切っているのかも知れませんね。他の動物を屠り喰らうのは、太古の昔より多くの生物が営んできた業ですが、見方によっては残酷で、その行為を放棄したい貴方達の気持ちも理解できます。しかし僕は心の痛み<社会的使命感、収入なのです。これは実際に需要があるので僕の中で正当化されています」。

 しかし、夫はしっくりきていない様子でした。その方にも「綺麗ごとばかりで嫌悪感しかない。見える景色が違いますので理解し合える事はないと思う」と言われました。私も、「牛を売ったり、屠畜するときに辛くないの?牛好きなのによくできるね」と、よく言われます。そこで私たちは、このことについて考えてみました。

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 なぜ私たちは牛飼いをしているのか。どんな気持ちで牛飼いをしているのか。需要があるから? 行き着いた答えは「好きだから」でした。私は、生きものを育てるのが好き。私たちは繁殖農家で、子牛を売るのが仕事です。セリに出すのは寂しいですが、「頑張ってこい!」という気持ちで送り出します。

 以前働いていた能勢農場では肥育をしていて、育てた牛を食肉用として屠殺していました。食べるために太らせることが辛く、悩み、自分の中に矛盾を抱えながら仕事をしていた時期もありました。病気で死んでしまうこともあり、本当に辛かったです。それでも続けた理由は、やっぱり牛が好きだからでした。ひどい畜産の現場もありますが、せめて、生きているうちは食肉としてではなく、生きものとして大切に飼いたいと思うようになりました。

 一方、夫の「好き」は少し違います。牛そのものもそうですが、放棄されて価値のなくなった山から、価値を生み出す仕組みを作ることが好きなのです。

 人間が放棄された山の木を少し切り、芝を植え、適正な頭数の牛を放牧する。すると牛が雑草を踏み食べ、やがて芝が優勢になり半永久的に粗飼料として利用できる草地となる。糞尿も大地の栄養として利用され分解される、糞尿を処理する機械も手間も必要ありません。生まれた子牛を売ることで、私たちは生活し、関わる人間を幸せにできる。その一連の仕組みが彼には魅力的に映っているようです。

■「なんで私を飼っているの?」
 同じ「働いてお金を得る」なら好きなことをしたい。様々な生き方、考え方があります。外からの声に惑わされず、他を尊重する気持ちを忘れず、私たちにとっての「充実した暮らし」が何かを考えていきたいです。

   (松本木の実、松本拓也:高知県室戸市在住)




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