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復帰」50年の沖縄訪問 報告

沖縄はいまも問いかける
国家の論理を超えていくために

 1972年5月15日、沖縄は米国の統治下から日本の統治下へと移行した。これをもって「施政権返還」あるいは「日本復帰」と呼ばれる。それから50年を経て、人々は時代の推移をどう振り返っているのか、現状をどう考えているのか。各種メディアでも様々な報道がなされた。当研究所も、これまで何度か訪問してきたが、今回はいわゆる識者ではなく、社会的な問題関心を持ちつつ地域社会で生活し、また活動にも携わるお二方にお話をうかがった。インタビューは8月25日、那覇での対面を踏まえ、9月19日のリモートで具体的に行った。以下、その概要を紹介する。

   
劣等感と反発を抱えながら
           小波津さつきさん

――親族や周囲の人たちから、沖縄戦について聞いたことは?

 
小波津さつき(以下、小波津):私は1967年生まれ、西原町の出身です。西原町は沖縄戦で相当な被害を受けましたが、私の親族で犠牲になった人は奇跡的と言えるくらい、ほとんどいなかったんですね。だから、身近な人から沖縄戦の話を聞いたことはないんです。

 沖縄戦について知ったのは、学校の授業を通じてでした。毎年6月23日
(※1)には沖縄戦に関する特別授業があったし、新聞やテレビで特集されました。子ども心に戦争はとても怖いものという印象を強く受けましたね。自分自身が沖縄戦に巻き込まれる夢を見たことも何度かあります。

 だから、「戦争は怖い、戦争はだめだ」っていうのは、広く共通認識だったと思いますね。昔から革新系が強い西原の土地柄もあるのかもしれませんが、当時は先生も反戦教育・平和教育に熱心な人が多かったんで、それが普通だと思っていました。

 (※1)1945年6月23日、沖縄戦で日本軍の組織的な戦闘が終結したとされることから、沖縄県では条例でこの日を犠牲者の霊を弔う「慰霊の日」と定め、休日としている。


――「復帰」時は5歳ですね。記憶はありますか?


 
小波津:いやぁ、ないですね。親から「復帰」以前の状況、「アメリカ統治下ではこうだった」みたいな話も聞いた記憶はないです。だから、もの心ついた時から「日本だ」って感覚があるにはあったんですが、同時に「日本じゃない」みたいな劣等感があったようにも思います。とにかく、沖縄は日本の中でも一番最後にいて、劣っているっていう感覚がずっとありましたね。

■小波津さつきさん
 西原町って米軍基地もなくて、アメリカ人もあまりいないんですよね。テレビのニュースなんかで基地にまつわる問題を知ったり、「アメリカは怖い」ってイメージもあったんですが、自分の日常の中で直接感じることはなかったんじゃないかな。

 他所の町に行くって言っても、那覇ぐらいなんですよ。しかも首里を通って那覇の中心部に行くから、基地らしい基地にあたらないんです。(普天間基地のある)宜野湾なんか高校になるまで行ったこともなかったんで、基地を実際に目にする機会はほとんどなかったですね。

 そうそう、子供のころバスで名護に行ったときに車窓から基地を目にして「広くてきれいで、緑も多くていいなぁ」と思った記憶があります。


――そういう状態が、沖縄の外に出て変化したわけですね。

 
小波津:そうですね。京都の大学に入っていろんな人と出会ったりする中で、沖縄出身だって言うと基地問題とか沖縄戦の話になりますよね。そこで話を聞いたり本を読んだりして触発されて、「ああ、そうだったのか」って、改めて沖縄について知ることになったように思います。


――当時を振り返ると、1987年の国体で知花さんの日の丸焼き捨て(※2)があって、沖縄の歴史についてもクローズアップされた気がします。

 
小波津:私が沖縄にいたときには学校で日の丸を掲げることはまずないし、君が代を歌うこともなかったんですね。音楽の教科書の最後に楽譜が載っていたけど、どんな歌なんだろうってずっと思っていたんですよ。だから、日の丸や君が代が強制されることがあるんだって事実は衝撃的でしたね。しかも、そのあとチビチリガマ(※3)調査がありましたが、それはちょうど私が沖縄の歴史について学んでいく中で、集団自決のことなんかを知るようになったのと時期的に重なっていたんですね。

 さっき言いましたけど、私は京都に来るまでは「沖縄は劣っている」という感覚を持っていたんです。沖縄の言葉も“汚い言葉だ”とか、琉球大学って国立大学で沖縄では一番の難関校なんですが、内地(本土)の人たちは本当は行きたくないけど仕方なしに受験しているとか、そんな話を耳にして。それで私は、「じゃあ、琉球大学は行かない」って反発心を抱いたり。

 そういう劣等感と反発心を持ちながら内地に来たんですけど、いろいろ学ぶ中で劣等感と反発心が逆転したって言うか、「私たちは劣等感持たなくていいんだ」っていう気持ちが強くなっていったんじゃないかと思いますね。

 (※2)1987年10月26日、沖縄県で国民体育大会が行われた際、読谷村のソフトボール会場に掲揚された日の丸の旗を同村の知花昌一さんが引き降ろし焼却した。沖縄戦をはじめ日の丸の旗の下で苦難を強いられた沖縄の歴史や現状への反発が背景とされる。

 (※3)読谷村内にあるガマの一つ。沖縄戦の際に日本軍の作戦による強制や誘導、命令による「集団自決(強制集団死)」が行われた。1987年には遺族らが入口に「世代を結ぶ平和の像」を建立したが、日の丸焼却事件後、右翼団体構成員によって日の丸焼却への報復として破壊された。


――大学で日韓問題研究会に参加されていましたね。


 
小波津:そうですね。大学で東洋史専攻を選んだのは、西洋の帝国主義の歴史に対する反発があったからだと思います。その流れで、日本の朝鮮半島に対する植民地支配の歴史に関心を持ったんですね。それは、やっぱり沖縄の歴史と重なる部分を感じたからでしょうね。


――ある会議の中で「沖縄人として日韓問題にかかわるのはシンドい」と発言されました。

 
小波津:当時、参加していたサークルの中で、ある男性による女性差別発言があって、糾弾会が取り組まれました。発言そのものはもちろん、当事者の社会的な立場や構造的な差別のあり方も含めて徹底的に糾弾するものでしたね。

 今でも発言は許せないし、問題点を明らかにする機会は必要だったと思うんですが、一方で、日本人で男性で、被差別部落出身者でもなく、障害者でもなく……と、構造的に差別者の立場に位置する人は自分を否定する以外になくなってしまう。“それってどうなんだろう”っていう気持ちもあったんですよね。

 じゃあ自分はどうなんだろうと考えたときに、自分はウチナーンチュ(沖縄人)でヤマトンチュ(本土出身者)とまったく同じ立場ではないし、劣等感と反発心がない交ぜになったところで、依然として自己卑下する部分もあれば、それを振り払うために虚勢を張る部分もあったり……。でも、朝鮮半島との歴史では日本の側にあるわけで。そのあたり、いろんな矛盾を抱えていたんだと思います。


――同じ時期、金城馨さん(関西沖縄文庫)の「がじまるの会」(※4)に参加されていました。ウチナーンチュとしてのアイデンティティを確認するためですか?

 
小波津:そうです。もともと強い劣等感を抱えていたところから、「沖縄に誇りを持ってもいいんだ」という気持ちが芽生える中で、それを確認する作業の一つだったと思いますね。

 (※4)沖縄出身者が多く暮らす大阪市大正区で、1975年から「エイサー祭り」などの取り組みを続けている沖縄出身青年たちの集まり。


――その劣等感は年代に特有のものですか?


 
小波津:そうだと思います。1990年代の終わりから2000年代の初めにかけて、安室奈美恵がレコード大賞をとったり、沖縄の高校が甲子園で優勝したり、NHKの朝ドラ「ちゅらさん」が大ヒットしたり、沖縄が日本の中で一番に輝くような出来事が起きましたけど、それ以降の世代はたぶん最初から劣等感は持っていないと思います。私より一回り年下の年代も、沖縄がリゾートとしてもてはやされた時代なので、かなり違うと思いますね。


――大学卒業後は沖縄へ帰られました。その後30年ほどの変化についてどう感じていますか?

 
小波津:う~ん、難しいですね。沖縄が日本のいろんな矛盾を押し付けられている状況は、ますます明らかになってきたんじゃないでしょうか。一方で、沖縄戦の記憶が薄れ、戦争に対する恐怖が薄れているようにも感じます。そう思うと私も頑張らないといけないんですが、沖縄は貧しいんですよ。生活に追われる部分もあって、なかなかほかのことを考えられない。そんな中で時間が過ぎて行ったって感じですね。

 ただ、そういう状況でありつつも、職場で(選挙の時に)誰に投票するかって話が出たりとか、県民大会みたいな大きな出来事の時には、やっぱり基地はだめだとか、アメリカ軍は出ていけとか、軍隊自体がいけないんだとか、そういう思いが高まって、何らかの形で問題に向き合わないといけないと(自分の中で)迫られたりはします。

 あと、母親が「しまくとぅば」(沖縄言葉)の普及活動をしていることもあって、昔よりも素直に沖縄の文化を受け入れられる状態になっているんじゃないかと思います。最近は若い人たちの中でも関心が高まっていると言われていますけど、それほど広がってはいないのが現実でもありますね。学校教育にも取り入れられている一方で、日常的にはますます使わなくなっている。関西人がうらやましいぐらいです(笑)。

 沖縄の文化を大事にしようという動きは確かにありますね。沖縄は昔から芸能が盛んだったこともあって、私はともかく、三線とか舞踊を習っている人も多いです。そういう意味では脈々と続いている部分があるし、それを大事にしていこうという雰囲気はあると思っていて、私も関わっていきたいと思いますね。


――今年は「復帰」50年ですが、中でも95年の事件(※5)が衝撃的でした。それまで押し込められていたものが一挙に噴き出してきたような印象があります。

 
小波津:そうですね。あの事件の時には本当に怒りしかありませんでした。多くの県民が同じ気持ちで、県民大会に出ざるを得なかったのではないでしょうか。その怒りは今でも続いていると思います。

 仲井眞知事が予算と引き換えに辺野古を承認した
(※6)時の怒りも大きかったと思います。「やっぱり沖縄は金で動く」と思われるのは悔しかった。だから沖縄の経済界も次の知事選挙で翁長さんを押したんです。今回の知事選で玉城デニーさんが再選されたのも、その気持ちの持続が大きいと思います。

 逆に若い人たちは、こう言っていいのか、「為政者の立場」でものを見るようになっているような気がします。ネットで流れている沖縄の悪口をそのまま受け取ってしまうこともあったり、本土化しているように感じますね。

 (※5)沖縄本島北部で1995年9月4日、3人の米兵が小学生6年生女子を拉致し集団強姦する事件が発生。沖縄県警は米側が拘束した3人の身柄引き渡しを求めるも、米側は日米地位協定を盾に拒否。人々の怒りを呼び、10月21日には8万5000人が参加する県民大会が開かれ、地位協定改定や基地撤去の叫びがこだました。

 (※6)2006年の県知事選挙で当選した仲井眞弘多氏は、自民・公明の推薦を受けながらも辺野古新基地建設に関する日米合意の見直しおよび普天基地間の県外移設を公約に掲げ、2010年の再選時にも同様の立場を示していた。ところが2013年末、東京で安倍首相(当時)と会談し、沖縄振興予算の確保と引き換えに辺野古の埋め立て承認を表明。2014年の県知事選挙では、辺野古新基地建設反対を掲げた翁長雄志氏に10万票の大差で落選した。



二度と戦場にしないために
              瀬戸隆博さん

――沖縄で暮らすようになった経緯は?

 
瀬戸隆博(以下、瀬戸):私は1968年、神戸生まれです。最初に沖縄を訪れたのは1989年、大学3回生の時に先輩に誘われてセミナーに参加しました。大学で日本史を専攻し、歴史の教員を目指していましたが、それまで沖縄のことはほとんど知らず、関心もありませんでした。でも、実際に戦跡を回って沖縄戦の体験者のお話を聞いたり、米軍基地を目の当たりにしたことで衝撃を受け、自分は何て無知で無関心だったのか、恥ずかしい気持ちになりましたね。

 その後、大学で知り合った小波津さんと一緒に、卒業後に沖縄に移りました。当初は教員になるつもりで沖縄県の採用試験も受けたんですが落ちまして、就職活動をしてコープおきなわに勤めることになりました。

 同僚はほとんど沖縄出身なんで、沖縄戦の話とか基地の話もよく話題になり、親族や親戚に体験者を持つ方もいました。自分としても沖縄に暮らす以上、何らかの形で関わり、深めていきたいと思っていたので、その点は環境に恵まれたと思います。
 ■瀬戸隆博さん

 コープおきなわに入った年に「戦跡ガイド養成講座」っていう生協の取り組みがあって、自分の担当している組合員に南部戦跡を案内できるようになろう、職員自らが勉強することが大事という趣旨で、その講座に参加したのが具体的なアクションの始まりでしたね。

 同僚もそうですが、組合員の中にも社会的関心が強くて、自らガイドをされている方もいらっしゃいましたし、職員と組合員で「フェンス」という名前のサークルを作って、伊江島の阿波根昌鴻さん
(※1)の「ヌチドゥタカラの家」を訪ねてお話をうかがったり、休みの日に基地を回ったり戦跡を回ったり。自分の問題関心と重なり、一緒に考え、動く人たちが周りにいたのは、幸運だったと思っています。

 (※1)1901年~2002年。1950年代から米軍による強制的な土地収用に反対する非暴力直接行動に取り組む。1984年、自宅敷地内に資料館「ヌチドゥタカラの家」を建設し、県内外からの訪問者に反戦平和の思いを説き続けた。著書に『米軍と農民―沖縄県伊江島』(岩波書店、1973年)『命こそ宝―沖縄反戦の心』(岩波書店、1992年)など。


――ヤマトンチュ(本土出身者)が沖縄戦について沖縄の人にガイドをするのは、複雑なものがありますね。


 
瀬戸:最初、問題に向き合うときに、最初いろいろとためらうことはありましたね。ヤマトンチュだっていう自分の立場について気にはしていたと思います。ただ、周りの人たちは、むしろ喜んでくれましたね。一般には、沖縄のことに口を突っ込むヤマトンチュが非難されることもあるようですが、私の場合はまったくそんなこともなく、その点でも恵まれていたと思いますね。

 いま振り返ると、立場とかポジショナリティ
(※2)を自覚するのは大事なことかもしれませんが、それにこだわりすぎると、むしろもっと大事なことを見落としてしまうような気がします。逆に今はそこを強調することはあまり意味がないと思っています。恩納村で沖縄戦の歴史の調査に携わるようになってから、はっきりとそう思うようになりましたね。

 沖縄戦のことや基地のことについて、誰もが考えてもいいはずだし、誰もが考えないといけないことだと思います。それを「ヤマトンチュだから本当のところは分からない」と立ち止まったところで、対等な目線で対話することもできませんよね。本土と沖縄という関係の中で自分が抱えている責任は、やはり考えること、変えていくことだと思います。本土と沖縄の歴史その歴史を受け止めて、どう考え、行動していくことにこそ責任があると思います。贖罪意識だけでは解決しないと思います。

 職場のサークル以外では、基本的には戦跡ガイドの関連で、全県的な団体「沖縄平和ガイドの会」があって、もっと深く学ぼうと思って参加しました。そこが「沖縄平和ネットワーク」
(※3)に変わって、もっぱらその関係で動くようになりましたね。

 (※2)「政治的権力的位置」(野村浩也)ないし「所属する社会的集団や社会的属性がもたらす利害関係に関わる政治的位置性」(池田緑)などと定義される概念。本土と沖縄の関係のように、個々人の思想信条とは別に、歴史や社会の中で否応なく「踏みつける側/踏まれる側」といった立場に置かれるが、それは変えることもできる。

 (※3)https://okinawaheiwanet.jimdosite.com/



――現在のお仕事について、具体的に紹介してもいただけますか。


 
瀬戸:現在は恩納村の村史編さん係というところで仕事をしています。きっかけは、生協の先輩である川満彰さん(※4)の紹介です。川満さんは沖縄の歴史や現状について関心が深く、生協を辞めて名護市の教育委員会で沖縄戦史の調査に取り組まれました。現在は沖縄国際大学で教鞭をとられています。

 沖縄ではいろんな分野で市町村史が刊行されています。とくに沖縄戦を対象としたものについては、各自治体で刊行されています。ただ、恩納村については沖縄戦を主題にまとめたものがなくて、これまで村史の一部分としてわずかに触れたものしかありませんでした。そこで恩納村が村制100周年を迎えるのを機に、村史編さん係が設置されることになったわけです。

■恩納村史 第3巻 戦争編
 中心となるのは、やはり証言を集めて記録することです。まず当事者からの聞き取り。それから恩納村でどんな戦闘があり、どんな結果がもたらされたのか、基本的な構図を各種の記録や文献をもとに調べて、それをまとめていく作業が一つ大きな柱です。

 もう一つは、現場となったところを確認する現地調査です。ただ、今年3月に恩納村史の第3巻『戦争編』を刊行できたんですが、残念ながら現地調査は限られたものにならざるを得ませんでした。

 恩納村には恩納岳に連なる山々があって、沖縄戦の際には地元住民だけでなく他の地域の人たちも避難していたところです。一方で遊撃隊=護郷隊
(※5)の拠点でもあって、本来なら現地調査をして、当時どういうことがあったのか、より詳細な手がかりも得られたと思うんですが、いまここは米軍基地「キャンプ・ハンセン」の演習場になっていて、米軍関係者以外は一切立ち入ることができません。『戦争編』の前に『自然編』を出した時には一部だけ調査できたんですが、演習場全体に不発弾が落ちている危険な場所なので、ごく一部しか許可されませんでした。

 おそらく現在も遺骨が残っているはずだし、沖縄戦関連の遺構や遺物もたくさん残っていると思いますが、そこが結果的に調査できなかったのは、本当に辛いです。近い将来、演習場の返還まではいかなくても、少しでも現地調査ができるような機会が訪れてほしいと願っています。

 いずれにしても、沖縄戦の傷跡が残っているであろう所にさらに上塗りする形で戦争のための演習が続けられているのは、とうてい許し難く、忸怩たる思いがします。自分としても少しでも状況を変えていければと思っています。いま南西諸島の軍事強化が急速に進み、もう一度沖縄を戦場にしかねない動きが激しくなっています。キャンプ・ハンセンは米軍の演習場ですが、自衛隊も恒常的に実弾発射演習を行っているんです。こうした平和へ向かうのとは真逆の事態が進んでいることを伝え、二度と戦争を起こさない、島々を戦場にしないという決意で向き合っていきたいと思っています。

 (※4)1960年~。著作に『陸軍中野学校と沖縄戦:知られざる少年兵「護郷隊」』(吉川弘文館、2018年)、『沖縄戦の子どもたち』(吉川弘文館、2021年)など。

 (※5)1944~45年、スパイ活動やゲリラ戦を専門とする陸軍中野学校出身の将校を隊長として、少年兵で構成されたゲリラ部隊。米軍の沖縄上陸時に遊撃戦を担い、本土決戦を先延ばしにするため、沖縄本島北部を中心に10代半ばの地元出身の少年らが召集された。第1護郷隊は名護市の多野岳を、第2護郷隊は恩納村の恩納岳を拠点とした。



――聞き取り調査で、とくに記憶に残ったものは?


 
瀬戸:いろいろありますが、とくに元護郷隊の方のお話ですね。護郷隊に召集された恩納村出身者は地元でなく、別のところで護郷隊員として戦ったのすが、多くの方が既に亡くなられていました。その中でも数少ない出身者の一人、仲田豊好さんにお話をうかがったんですが、最初は非常に躊躇されていたというか、「何を聞かれるんだろう」と身構えてらっしゃる感じを受けました。通信隊ということで、訓練の時から暗号を覚えたり、入ってくるいろんな情報を解読する役割だったそうです。

 それで、「どんな情報があったんですか?」と訊いたんですが、口に人差し指を当てて「シーッ」の動作をされるんですよね。「いきなりはまずいか」と思って、いったんほかの話題に変えて、モールス信号の話なんかをしながら、頃合いを見計らって、また「どんな命令があったんですか?」と尋ねても、やっぱり「シーッ」ってなるんですよね。あの手この手で聞き出そうとしましたが、結局できませんでした。

 元護郷隊の方々は、隊の歌「護郷隊の歌」を覚えてらっしゃって、聞き取りの時に歌う方が多いんです。良くも悪くも少年時代の思い出として記憶に刻まれていると思うんですが、仲田さんは歌の話になると表情を曇らせて、「もう忘れた……」「覚えてるけど……」と言葉を濁されました。おそらく、とても嫌な記憶があるんじゃないかと思います。

 あと、戦争に負けたと知ったときに、大泣きに泣いたというんですよ。話をうかがった皆さんは「戦争が終わってほっとした」みたいな方が多くて、そういう反応は珍しいんですね。より深く軍国主義教育が浸透した結果かと思うんですが、その一方で、到底勝てっこないのに無理な戦争をして、自分たちもさんざんな目にあったと、当時の戦争指導者を強烈に批判されていました。いまになっても自分が戦争に行ったことを整理しきれない、戦場でのいろんな体験がグラデーションのように記憶の中に堆積しているんだろうな、と思ったのが印象深いですね。

 あとは、『沖縄スパイ戦史』
(※6)にも出てらっしゃる瑞慶山良光さん。お話を聞いた機会が一番多くて、つい先日もお会いしたんですが、私が初めて戦争体験についてうかがったのが2016年でした。当時はやや陰を感じるというか、気さくに話はしてくれるんですが、言葉が重い感じだったんですね。いろいろ思うところがあるんだなと推し測ったんですが、その後、村史の証言編でお話しいただいたり、映画にも出られて本にも収録されたり。90歳を前にして、自分の体験を話す機会がある、それを聞いてくれる人、理解してくれる人がいる、そんな経験をされたからか、がぜん元気になられたんですね。ほかの方々は、しばらくぶりにお会いすると、やっぱり歳相応に衰えを感じたりするんですが、瑞慶山さんの場合は、この6年でまったく変わらず、「僕はこれを伝えるために100歳までやるから」と言われていました。

 お話を聞くのは当事者にとって辛い記憶をこじ開けることでもあって、時折私自身申し訳なさを感じることもありました。でも真剣に向き合い、しっかりと残していくことに伝え、そのことを体験者が理解していただいた上で、体験者がいろいろと話す機会になったことは、よかったと思っています。一方で戦争体験を話すことはできないと、断られることもありました。

 (※6)護郷隊を中心に沖縄戦におけるゲリラ戦やスパイ戦を扱ったドキュメンタリー映画。三上智恵、大矢英代監督。2018年公開。映画に収まりきらなかった証言や追跡取材も含めて文章化した『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書、2020年)も。


――仲田さんの「シーッ」という動作は、どういう意味を持っているんですか


 
瀬戸:あくまで推測ですが、ご本人の中で戦争がまだ終わっていないんじゃないでしょうか。上官からは通信の内容を秘密にしろと厳命されていたし、戦後になっても誰にも話してこなかったわけで、体験を聞かれたのもほぼ初めてでしょう。10代半ばの少年時代に上官の命令を必死で守ろうとして、それが70年以上経っても続いているような……。

 護郷隊が課された任務の特殊さもあるのかもしれません。金城幸昭さん(東村出身)にうかがったんですが、護郷隊の重要任務として橋の破壊があったそうです。川にかかっている橋を壊すことで米軍の進撃を食い止める、ゲリラ戦の基本ですね。10代の若者なので、「やっちゃえ、やっちゃえ」みたいな感じで次々と壊していたらしいです。ところが、戦後になっていろんな人から話を聞くと、住民避難に大きな影響を及ぼしていたことが分かったんですね。食料や荷物を馬車に積んで避難していたのに、橋が落とされてしまったから泣く泣く捨てていかざるを得ず、後でものすごく苦労した、と。そんな話を聞いて、金城さんは「当時は住民のためだと思って一生懸命やったつもりだけど、それが住民を苦しめる結果になってしまったんだねぇ」とおっしゃって、嗚咽されていたのを覚えていますね。

 金城さんは記憶力も抜群で、いろんなことを話してくださったんですが、「あんな旧式の武器で戦争をよくやったね」って、武器も物資も兵力も乏しい中で危険な任務をさせられたことを強調されていました。


――沖縄平和ネットワークなどの活動も継続されていますか?

 
瀬戸:いろいろ足を突っ込んでいまして、ガイド関連のほかには「ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会」(後述)、それから「那覇まちまーい」(※7)で朗読劇をやっています。「白梅学徒の沖縄戦」(※8)をテーマに、元学徒隊の中山きくさんの体験記などを基に脚本を作り、ガイドのメンバー5~6人で演じて、修学旅行生に聞いてもらう活動をしてきました。残念ながら、このところコロナで止まっていますが。

 ガイドの活動は、基本的に他府県から修学旅行、平和学習で来た子どもたちに説明するものですが、逆に県内の子どもたちを相手にする機会が少ないのが悩みどころです。ただ、村史編さん係に勤めてから、恩納村の子どもたちに話をする機会ができました。その点はありがたいと思っています。

 村史の戦争編が刊行されたんで、その活用の仕方を考えています。村史とか市史って、だいたい各図書館に1冊ずつ収蔵されて、後は忘れられてしまいがちなんです。『戦争編』の専門委員長の吉浜忍先生
(※9)は「発刊はスタート、活用するところまでやらないと意味はないよ」と常々言われていました。その通りで、どう活用するか、村内の学校教育、社会教育に役立てたいと思っています。コロナでこの2~3年動きづらかったですが、今年は恩納村を勉強してさらに沖縄戦全体を勉強する形で動く学校も出てきたので、いいことだと思います。

 平和を学ぶことは、過去のことを知り、学び、考え、生き残った体験者、命を奪われた人たちの死にざまをありったけの想像力を駆使して、次の戦争を止める力をつけること、絶対に戦争をしないこと、戦争をやろうとする政府を、推進する側の「ウソ」を見抜き、を次の世代に受け継ぐことだと思います。アジア2000万人、日本国民310万人の命を奪う戦争を経験した日本人がやらないといけない記憶の継承の本質はここにこそあると思います。

 (※7)「まちま~い」とは「まちめぐり」の意。地元ガイドによる沖縄の歴史や文化の説明を聞きつつ那覇のまちをめぐる、那覇市観光協会の取り組み。

 (※8)白梅学徒隊は沖縄県立第二高等女学校の四年生で編成された部隊の名称で、沖縄戦で日本軍の看護のために従軍させられ犠牲になった女子学徒隊の一つ。

 (※9)1949年~。沖縄戦研究者。沖縄国際大学教授、沖縄県史編集委員会委員長など歴任。編著『沖縄戦を知る事典』(吉川弘文館、2019年)、単著『沖縄の戦争遺跡:〈記憶〉を未来につなげる』(吉川弘文館、2017年)など。


――そうしたお仕事、活動を踏まえ、沖縄の現状をめぐって様々に懸念があると思います。


 
瀬戸:いままた沖縄で戦争をしようとしているんじゃないか、そうとしか思えないような動きが進んでいるわけですよね。具体的には辺野古の新基地建設もありますし、米軍基地が自衛隊と共用する形で使われようとしていることが判明したり、さらに南西諸島にレーダー基地を作り、ミサイル基地を作り、弾薬庫を作り、奄美や馬毛島も含めて一帯が要塞化されつつあります。まさに77年前の状況を彷彿とさせます。実際に沖縄戦体験者の話を聞く時にも、皆さん「怖い」と言われます。「沖縄戦を忘れたら、また地獄になるよ」と。だから、自分としても、そんな動きをどうやって食い止めるか、そのための力にならないといけない、それが一番の課題ですね。

 最近で言うと、石垣島で紛争が起きたときの住民避難用にシェルターをつくる計画が新聞に出ていました。石垣市長は「歓迎する」なんて言っていますが、人工のガマ
(※10)をつくるようなものですよね。こんな時代が来ちゃったんですよね。対中脅威論を煽って軍備を増強しながら、シェルターにお金を使って安心を得ようとする。こんな愚かなことを許していいのか。腹立たしい限りです。私も沖縄に来てから30年が過ぎて、とくにこの7~8年は仕事を通じて沖縄戦に深く関わってきた中で、これだけ酷い状況になるとは思いませんでした。この流れを何とか止めないといけなと強く思います。

 現状を考えるときに、私自身の自省の意味もこめて言わせていただくと、これまでの平和学習が戦争の芽を摘み、根を断つことにつなげることができなかったのかもしれないと思っています。「中国脅威論」、「台湾有事は日本有事」など、あたかも戦争が起きるのが前提、ミサイル配備は当然といった好戦的な状況になっていることに残念な思いがします。

 こういう中で、「島々を戦場にしない」「沖縄戦を二度とくりかえさない」ということで結束し、次の戦争をとめるために今年1月に結成された「ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会」
(※11)にも携わっています。ぜひ、戦争を止める、徹底した外交努力、対話の道を探る、このことを日本全体で声を上げてほしいと思います。

 (※10)沖縄で多く見られる、琉球石灰岩による自然洞窟を指す。古来から遺体を安置し風化させる風葬などに使われ、沖縄戦では住民や日本兵の避難所あるいは野戦病院として利用された。

 (※11)http://nomore-okinawasen.org/ 賛同人には週二回メルマガを配信。



――沖縄の社会全体の反応はどうですか?


 
瀬戸:辺野古を日米共同の基地として使う計画が新聞ですっぱ抜かれたり(※12)、南西諸島が急速に軍事拠点化され、目の前に沖縄戦が向かっているのが明らかにもにもかかわらず、県民全体としてはまだ危機感が弱いと思いますね。土地規制法(※13)も沖縄を狙い撃ちにした稀代の悪法であるにも関わらず、その重大さはまだ浸透していません。民間港が演習で使われることも、戦争への地ならしであるにもかかわらず、その関心は薄いといえます。

 とはいえ、とにかく戦争を止める、絶対に島々を戦場にしない、沖縄が攻撃の場所にされないようにする、そのことを強く訴え、動くことが大切だと思います。

 今回の知事選も、「命どぅ宝の会」でいくつか公開質問を出したり、意見提起をしたりしたんですが、当選されたデニーさんも南西諸島の軍備強化については、なかなかはっきり見解は示していません。もともと「オール沖縄」は辺野古新基地建設反対が一致点なんで、今回の知事選に勝ったのは本当にいいことですが、それで安心したらだめだと思いますね。

 社会全体で見ると60歳以上は危機感が強いです。やっぱり世代によって相当に違いがあって、小波津の話にもありましたが、若い世代の人たちは政府の言っていることは正しい、辺野古建設も仕方ない、と。現場に行ったことも見たこともなくてもそれを鵜呑みにしてしまうような傾向が強いんですね。

 ただ、同時に若い人たちの中でも、沖縄戦に強い関心を示したり、自分たちの歴史として学ぼうとする動きも出てきています。沖縄国際大学などでは沖縄戦のゼミや一般講義で受講生を募集するとすぐ満員になるそうです。その意味では、沖縄戦の歴史と、それが再び繰り返されるかもしれないような現在の状況とをリンクさせて、そこから辺野古や南西諸島の動きをみていく、そうした可能性はまだまだあると思います。

 私も平和学習の中では、再び沖縄が戦場になる危険性に触れています。ややもすると「政治的だ」と言われたりもしますが、やっぱりそれぐらいは言わないとだめだろうという気持ちでやっているので、そんなところでも落差を感じたりしていますね。

 (※12)2021年1月25日、『沖縄タイムス』と『共同通信』は、陸上自衛隊と米海兵隊が2015年、普天間飛行場の「代替施設」の名目で建設中の辺野古新基地に陸自の離島防衛部隊である水陸機動団の常駐を極秘合意していたと報道。南西諸島の軍備強化に向けた動きの一環とみられる。

 (※13)軍事基地や原発、国境離島ほか安全保障上重要な施設の周辺などの土地利用を規制する法律。民間の活動が監視、制限され、沖縄ではほぼ全域が規制されるとの懸念が強い。2022年9月20日に全面施行。


――県知事選挙ですが、玉城さんの勝因は?


 
瀬戸:確かに自公推薦候補に統一教会問題など敵失があったことは確かですが、やっぱり全体としては、一期目にコロナとかいろいろある中で、辺野古のことも含めて“ブレずにやってくれた”という評価があるのではないかと思います。報道で出ていましたが、辺野古一本に絞らず、生活の問題なども主張したことが功を奏したのも確かでしょう。

 オール沖縄が再編の段階にあって、抜ける方もいて苦しい状況だっただけに、勝ってよかったなというのが正直なところですね。ただ、国との対抗関係の中で使える手段をすべて使ったのかな、というところは感じます。

 以前の国政選挙や県民投票で結果が出ても国は工事を強行し続けているんで、正直「反対疲れ」の状況もあったと思いますが、国政選挙、県民投票でも反対の民意を示してきただけに、新基地建設を容認する候補には入れるわけにはいかないと考えた人も多かったと思います。ただ、20代~30代と50代~60代では投票の傾向がかなり違うんで、今後どう影響してくるのか、厳しく問われる4年になるかもしれません。

 戦後77年、レーダー施設、弾薬庫の建設、ミサイル配備、自衛隊の増強など、南西諸島の軍事強化がこれまでになく進み、緊張が高まり、もう目の前に戦争が近づいています。県知事として県民の生命、財産を守るため、絶対に沖縄を戦場にしない、島々で戦争をさせない、戦争につながることを一切拒否し、職務を全うしてほしいと思います。

 一方で、知事は米軍や自衛隊を交えた都道府県主催の大規模災害訓練、通称「ビッグレスキュー」の沖縄で開催することに前向きになっていますが、耳障りのいい「災害に備える」ことを名目にした戦争準備体制の整備であり、やるべきではないと思います。政府が“住民用のシェルターの整備を検討する”なんて言っているのは愚の骨頂ですよ。シェルターで生命、財産が本当に守れるのか、冷静になって考えればわかります。それに、避難計画だって全く現実的ではない。あんなもので住民が避難できるはずもありません。

 たとえば国民保護法に基づく試算によると、石垣市では市民避難に「9.67日」、航空機延べ435機が必要だとの試算がありますが、全く現実離れした想定です。ビッグレスキューしかり、シェルターしかり、結局は沖縄が戦場になることを前提に政治と行政が動いているわけですよ。沖縄戦で「軍官民共生共死」
(※14)を強いた状況と全く変わっていません。

 このことについて県は明確に見解を出していませんが、シェルターよりも外交、徹底した話し合い、人的交流、相互支援など、軍事による安全保障ではない方法を沖縄独自で展開し、知事はその先頭に立ってほしい。こうした形で二度と沖縄戦を繰り返さないことを内外にアピールし、実際に行動してほしいと思います。

 (※14)地上戦を前にした1944年11月、 沖縄の日本軍は県民に対して「軍官民共生共死の一体化」の方針を提起した。軍人、公務員、民間人つまり沖縄にいるすべての人間は日本軍とともに生き、死ぬべきだ、との意味である。膨大な数の民間人犠牲者を生んだ南部撤退、いわゆる「集団自決(強制集団死)」といった惨劇の背景と考えられる。


――西原町立図書館には新川明さん
(※15)が蔵書を寄付した文庫があるそうですね。今年は「復帰」50年ですが、新川さんと言えば「反復帰論」で知られます。いま、どう受け取られていますか。

 
瀬戸:4月~5月には新聞やテレビなどで触れたものはありましたが、改めて「反復帰論」が問い直されたり、深められたりしているかと言えば、正直、一部にとどまると思います。言葉として「反復帰論」を耳にしたことはあるけれども、その内容は何なのか、どういう問題提起だったのか、よく分からない人も多いんじゃないでしょうか。年上の知り合いでも、そういう人は少なくありません。

 一方で、直接「反復帰論」とは言わないでも、たとえば70年代に金武湾の反CTSの運動
(※16)とかありましたが、それ以降も連綿として環境保護の運動は続いています。そういう中にも影響はあるのかもしれません。もっと言えば、辺野古とか高江(※17)の運動なんかにも通底しているものがあるんじゃないでしょうか。

 さきほど小波津が言いましたが、しまくとぅばに関する関心の高まりもそうかもしれません。実は恩納村史の一つとして『言語編』を出す計画があります。しまくとぅばと言ったときに、何か一つの中心があるわけではないんです。たとえば、(琉球王国の都)首里のことば=しまくとぅばではなくて、地域にある言葉の全体を指しています。実際、恩納村でも地域によってびっくりするぐらい違っているんです。言葉や伝統行事を通じて地元や自分たちの足元を深掘りすることに関心を示す、そんな若い人たちは増えつつあるように思いますね。

 (※15)1931年~。ジャーナリスト、思想家。沖縄タイムス記者、会長などを務める。著作に『反国家の兇区―沖縄・自立への視点』(初版:現代評論社、1971年、復刊:社会評論社、1996年)、『沖縄・統合と反逆』(筑摩書房、2000年)など。「反復帰論」については別記参照。

 (※16)1970年代初頭に沖縄本島東海岸の金武湾で進められていた石油備蓄基地(CTS)建設および埋立に反対する運動。沖縄だけでなく本土の反公害の住民運動とも結びついて闘われた。

 (※17)1990年代後半から、沖縄本島北部の米海兵隊基地・北部訓練場でヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)の建設が計画され、東村高江を中心に反対運動が取り組まれた。






沖縄訪問の記

 8月23日から26日にかけて、駆け足ながら沖縄を訪問した。簡単に報告したい。

コザ――戦後沖縄の縮図

 23日(火)、那覇空港に到着。沖縄物産企業連合の田場さんによれば、コロナ禍も3年目となり、一昨年、昨年に比べて観光客は戻ってきたものの、それでもコロナ前の6割ほどだという。観光は沖縄の産業の柱だが、関連業者のすそ野が広く、影響も大きいとのこと。とくにレンタカーは、観光客の減少で固定費削減のため過剰台数を減らしたところ、観光復活で少ない台数に殺到して取り合いとなり、価格が高騰しているそうだ。

 那覇バスターミナルから路線バスに一時間ほど揺られて中部の沖縄市(旧コザ市)に到着。いまもコザと呼び習わされている。戦前は農村地帯だったが、戦後の米軍統治下で嘉手納基地が建設されると、その門前町として沖縄本島内外から人々が集まり都市へと変貌した。ピークは1960年代末から70年代初頭、米国がベトナム戦争の泥沼にはまり込んでいた時代だ。

 ベトナム派兵の拠点として、嘉手納基地には米国から兵士が送り込まれ、兵士たちは明日死ぬかもしれない恐怖を紛らわそうと酒色に散財を重ねた。米兵相手の「Aサイン」バーやライブハウス、買春宿などが軒を並べ、夜な夜な喧騒に包まれたという。他方で米兵による乱暴狼藉も後を絶たず、腹に据えかねた人々は1970年12月、米軍統治下の沖縄で唯一の対米反乱「コザ暴動」に決起し、80台以上の米軍関連車両を焼き討ちにしてもいる。

 いわば、戦後の沖縄の縮図ともいえる街である。 とはいえ、米兵たちで溢れ返っていた街の記憶も、いまや遠い昔。近隣の地域で開発が進み、大型商業施設が建設されたこともあって、中心部にある商店街はシャッター通りとなり、活気は失われている。わずかに、胡屋十字路から嘉手納基地第2ゲートに向かう「ゲート通り」には現在も英文の看板や派手な配色の店舗が散見され、かつての繁栄を偲ばせる。

■嘉手納基地第2ゲート
 米軍前提で栄した街が衰退するのは、必ずしも悪いことではないのかもしれない。しかし、決して基地がなくなったわけではない。むしろ、機能としては強化されている。街を歩けば、頭上には「キーン」「シュゴー」と爆音を立てて訓練の戦闘機が飛び交う。しかも、遠い彼方ではなく、不気味なほど近く見える。フェンスを見るまでもなく、否応なしに基地の存在を突き付けられる瞬間だ。

 ちなみに、ゲート通りの中ほどにある沖縄市戦後文化資料展示館「ヒストリート」は、名称どおりコザ華やかかりし時代の貴重な資料が展示されている。コザの歴史を知るには、とても見応えがある。一見をお勧めしたい。


辺野古――継続する人々の力

 24日(水)、コザから路線バスで2時間ほどかけて辺野古に移動する。キャンプシュワブの第一ゲート前で行われる、辺野古新基地建設に向けた埋め立て用の土砂搬入に抗議する行動に参加するためだ。通常、土砂の搬入は午前9時頃、昼12時頃、午後3時頃の3回に定式化されている。終日はもちろん、都合に合わせて参加することも可能だ。私の場合は朝イチのバスでも9時に間に合わなかったが、10時半あたりに第2ゲート付近で搬入があったため、計3回の参加となった。

 私が訪れた水曜日、参加者は12~13人だった。皆さん80歳近いか超えているそうだが、平日の昼間に動ける人となると、そうなるのも無理はない。曜日ごとに来る人が決まっているらしい。皆が持ち寄って昼食を囲む。「水曜日はいつもごちそうなんですよ」とのこと。私もおすそ分けにあずかった。

 県道を挟んでキャンプシュワブの対面には、抗議行動参加者用のテント小屋が20メートルほど連なっている。参加者たちはここから、埋め立て用の土砂を積んだダンプカーの到着に合わせて出発し、15分ほど前から搬入用ゲートの前に陣取る。後ろには基地に雇われた民間警備員が整列。その前で、参加者たちはプラカードを掲げつつ歌を歌ったり、シュプレヒコールを上げたり、体操をしたり。そうこうするうちにダンプカーが近づいてくるので、声を合わせて抗議のスローガンを繰り返す。ダンプカーはしばらく立ち往生を迫られる。5分ほど膠着状態が続くと、傍らに待機していた機動隊が割って入り、「速やかに移動してください」と迫る。「どかないよ!」「あんたらこそ帰れ!」などと応じていると、「警告します」などと言いつつ腕に手をかけるような状態になるので、そうなったら自主的に道路の反対側などに移動する。これが一連の流れだ。

 ■辺野古、座り込み排除にかかる機動隊
 かつてはテコでも動かず、「ごぼう抜き」されながら抵抗していたようだが、コロナ禍の中で感染リスク等にも配慮し、機動隊と接触を減らす形にしたという。いずれにせよ、1分でも1秒でも土砂搬入を遅らせることが目的である。

 こうした抗議活動は、辺野古の海岸を拠点とした時代から数えて、すでに18年を迎えている。時間の長さだけではない。2018年に安倍政権が強行するまで、長らく土砂の投入を阻んできたし、投入されてしまったとはいえ、土砂は今年8月段階で「埋立全体に必要な土量で考えた場合、約12.3パーセント」に過ぎない(沖縄県「辺野古新基地建設問題Q&A」)。まさに「継続こそ力なり」と言えるだろう。

 3回目の行動の前にビデオカメラを構えた人たちがやってきた。時事芸人のプチ鹿島さん、ラッパーのダースレイダーさんだ。ネット番組で沖縄県知事選挙の特集をするため、主要な争点の一つである辺野古新基地建設問題を取材に来たとのこと。およそ1時間にわたって抗議活動のリーダー格である高里鈴代さん(女性運動家)のインタビューをした後、座り込みの現場にも訪れ、即興のラップなどを披露し、参加者の喝采を浴びていた。

 揶揄したり茶化したりする人ばかりではない。その何十倍、何百倍もの人々が、真摯に問題に向き合うべく、これまで辺野古を訪れてきた。そうした人々を引き寄せているものこそ、先に触れた「継続した力」なのである。


南部――強いられた「死」の重み

 25日(木)、沖縄戦で数多くの犠牲のあった南部戦跡を訪れるため、那覇バスターミナルに向かう。途中、沖縄県庁の前を通りかかると、県知事選挙の出発式の真っ最中。ただし、自公推薦の佐喜真候補だった(残念)。那覇から40~50分で糸満バスターミナル。ここでバスを乗り換え、ひめゆり平和祈念資料館に至る。

 入り口を入ると、沖縄戦の際に野戦病院として使われたガマ(自然壕)を前に慰霊碑(ひめゆりの塔)が建てられている。当時、ガマには陸軍病院に動員された沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒と教師らが避難していたが、米軍の攻撃で多くの人が犠牲になった。資料館には彼女たちの遺影や遺品、生存者の証言映像や手記が展示され、当時の惨状が生々しく迫ってくる。二校の同窓会によって1989年に設立され、昨年リニューアルされた。沖縄戦の実態を知る上で欠かせない施設である。

 この辺りから摩文仁にかけての一帯は、旧日本軍が民間人を道連れにして絶望的な後退戦を重ねた結果、まさに屍累々を地で行く状況を招いた。それを象徴するのが、ひめゆりの塔から20分ほど歩いた米須地区にある慰霊碑「魂魄の塔」だ。戦争終結の翌年、民間人が周辺に散乱していた3万5000体あまりの遺骨を納めて建立したという。もちろん、すべての遺骨が漏れなく収集されたわけではない。いまなお近隣では遺骨の収集活動が続けられている。

 ところが、辺野古新基地建設の埋め立て工事に使う土砂を調達するため、この付近で土砂の採掘が行われようとしているという。戦没者の遺骨が混じっている土砂を、新たに戦争のための基地に使うなど、人道上とうてい許されることではない。遺骨収集ボランティアの呼びかけに有志が応じ、この間、全国の自治体で国に対して断念を求める意見書の採択が行われている。

■糸満市米須、土砂採掘の鉱山
 実際にどんな状況なのか、炎天下の中を訪ねてみた。ほとんどはサトウキビや花卉類を栽培する圃場となっているが、中にいくつか採掘現場らしきものが点在している。本土のように山を切り崩して土砂を採取するのは違い、沖縄では琉球石灰岩でできた平地を掘り返して土砂を採取する。緑の景色の中に白色が点在する光景となる。問題となっている鉱山らしき現場に行きついたものの、看板もないため確証のしようがない。それでも雰囲気は分かる。改めて、魂魄の塔との近さを実感した。

 大汗をかきながらひめゆりの塔前のバス停に戻り、平和祈念公園・沖縄県平和祈念資料館に向かう。追悼行事などの際にニュース映像で取り上げられる「平和の礎」のあるところだ。平和祈念資料館は沖縄戦に関する展示とともに戦後の戦後の統治下の状況、60~70年代の復帰運動、復帰以降の基地問題など現在に続く歴史が網羅されている。

 平和の礎には犠牲になった一人一人の名前が彫り込まれ、抽象的な「多数」ではなく具体的な個々人が否応なく強いられた「死」の重みが迫ってくる。


沖縄――国家の論理に抗する

 那覇へ戻った後、瀬戸・小波津の二人にお話をうかがう。学生時代、通っていた大学は共産党系の青年学生組織の一大拠点だったが、それとは異なる考えの人々が肩を寄せ合う小さなサークルに集っていた仲間だ。大学を出て以降、1996年に沖縄を訪れた際に会ったきり、四半世紀ぶりの邂逅となる。

 インタビューでも質問したが、私はある会議の中で小波津さんが発した「沖縄人として日韓問題にかかわるのはシンドい」という言葉を折に触れて思い出してきた。朝鮮半島と日本との歴史的関係の中で、沖縄は植民地主義者日本の一部と見なされるのも確かだが、元をたどれば沖縄は日本の植民地主義の最初の対象でもある(アイヌもそうだ)。当然、日本と一体化した立ち位置には立ちようがないにもかかわらず、その点を明瞭に打ち出すのは難しかったのだろう。当時、私自身は、そんな彼女の抱えた「矛盾」に気づくこともなかった。ただ、発せられた言葉の質感にただならぬものを感じ、折に触れて思い返してきた。

 瀬戸さんからは、大学を卒業して引っ越す際の荷物整理で、一冊の本をもらった記憶がある。日本近現代史、思想史を専門とする鹿野政直の『戦後沖縄の思想像』(朝日新聞社、1987年)だ。この中で、1950年代はじめに琉球大学の学生たちが作った同人誌『琉球文学』の活動が取り上げられており、米軍統治下での沖縄の青年たちのラディカルな思想と活動が印象に残った。

 それらか数年後の1996年、『琉球文学』同人の一人、新川明氏の『反国家の兇区』が復刻される。いわゆる「反復帰論」の主要な主張を収めたものだ。時あたかも前年に起きた少女暴行事件を受け、日本と沖縄との関係が問い直されていた渦中である。一読して、鋭い問題提起に衝撃を受けた。

 「私は、沖縄が歴史的、地理的に、日本に対して所有してきた時間と空間、それによって形成された独自の地位は、国家としての日本の限りない否認の上で求められる闘いの可能性と展望に、政治的にも思想的にも決定的な位置を占めるものと考えているだけに、そのような闘いの可能性を国家としての日本の中に溶解して怪しまない思想的、政治的流れに対しては、力の及ぶ限りこれを撃ち続けたいと考える。」(「〈復帰〉思想の葬送」、上掲書所収)

 「反復帰」は単純に「独立」とは重ならない。日本、米国という国家に翻弄されてきた沖縄が、同じような国家を作ってしまっては元も子もないと新川氏は言う。その意味で「反復帰」は「反国家」、内なる国家幻想との闘い、国家に抗する地域の論理でもあるだろう。

 「復帰」50年の今年、かつて地元雑誌を舞台に展開された多彩な論者による「反復帰論」が復刻された(沖縄タイムス社編『「反復帰」を再び読む』)。

 瀬戸さんへのインタビューの中で「いままた沖縄で戦争をしようとしているんじゃないか」との発言があった。そうした、歴史に裏打ちされた肌感覚を、残念ながら本土に暮らす私たちは共有できていない。そうした意味でも、「反復帰論」の問題提起は(それに対する反論も含めて)、依然として参照されるべき道標であると思う。

                                                                  (山口 協:当研究所代表)




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