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連載 ネパール・タライ平原の村から(123)
一枚の写真が語りかけるもの③

ネパールの農村で暮らす、元よつば農産職員の藤井牧人君の定期報告。その123回目。



 しばらくの間、現地で暮らした12年を下に、亡き妻ティルさんの生活史に重ねながら、ネパールの急速な近代化の一断片を書き留めたいと思います。

 今回も、正面から撮影されたティルさんらが並んで棒立ちのような写真(右下参照)。一枚一枚の被写体を見ていると、家族や個人がカメラを持っていない時代に撮られた写真には、とりたてて特別な写真がないのです。だけど一枚一枚のフィルム写真には、たった一枚限りの貴重な記憶が詰まっています。

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 ティルさんがSLC学校教育卒業試験(高校卒業試験)を受けた年に撮ったというこの写真。2044とビクラム暦の記載があり、西暦に換算すると1987年4月中旬から1988年3月中旬。プンマガルの親戚ら3人と並んでいます。「一人はルクマヤディディで、もう一人はバンドゥーダイのお嫁さん」とのことです。

 以前、ルクマヤディディの90代後半の義父から「どうしても聞きたいことがある」と何度も言われたことがあります。それは、島国日本で「ホカイドという島からフンシュという島まで53.85キロ」「それを海底トンネルで結ぶと読んだことがあるがそれは事実なのか?」と。日本と同じ山国でありながら車道にトンネルのないネパール。その掘削技術の進歩に驚いているのだと理解しました。

 「トンネルは既に開通していて鉄道が走ってますよ」などと答えると、知りたかったことがようやくわかったと深く感銘されました。でも、今思うにそんなモノ、別になくても生きていけますよ、とか言っても良かったかなと。

 写真から、ルクマヤディディもバンドゥーダイのお嫁さんもティルさんとは幼馴染みだったことを知りました。今以上に、女性は婚出して相手側の家に嫁ぐのが慣例だったのですが、通婚圏の地理的範囲がほぼ地元地域であったことが容易に想像されます。そう言えば、ご近所のバッタライさんの娘が結婚した時、バッタライさんは泣き崩れていたけれども、1週間後に農作業の手伝いで娘が家に戻っていました。嫁ぎ先はバス数分の村だったようです。

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 写真の足下の乾いた大地から乾季であることもわかります。よく見ると種実を乾かし、手で引き抜いて収穫するダル豆の一種マシュローの畑のようです。背景にマンゴーの樹形も見られます。
■1987年頃のカワソティ、左がティルさん

 ところでこの写真どこで撮ったのと、ティルさんに聞いてみました。しばらく考えて「テレビも(DVD・スマホも)ない頃。友だちの家を訪ねては、いつも写真を見せてもらい、語ることが楽しみだった。写っている本人がいなくても、本人に替わって誰かに写真の解説をしたりもした。多分、この写真は(国道近くに住む)バンドゥーダイのお嫁さんの畑で撮った写真」。

 今この場所には2階建て3階建ての住宅街があり、マンゴーなど全く見当たりません。当時「写真がうらやましくて誰かに盗られて失ったのもあれば、黙って持ち帰った写真もあるから。この写真の正確な場所は覚えてないわ」と、思い出したようにあっさりそう言っていました。
                      (藤井牧人)



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