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連載 ネパール・タライ平原の村から(122)
一枚の写真が語りかけるもの②

ネパールの農村で暮らす、元よつば農産職員の藤井牧人君の定期報告。その122回目。



 しばらくの間、現地で暮らした12年を下に、亡き妻ティルさんの生活史に重ねながら、ネパールの急速な近代化の一断片を書き留めたいと思います。

 今ここにある一枚の写真(下参照)。学生時代のティルさんが真ん中で、クラスメイト2人と写っています。ネパールで使われるビクラム暦2047とペンで記載があり、西暦に変換すると1990年、本人が19歳頃です。3人とも表情が硬いのは、前号でも書いたのですが、当時はカメラを所有する人が村に1人しかおらず、写真撮影は貴重な楽しみだったけれどカメラを向けられることに慣れておらず、誰もが緊張してしまったとのことです。

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 3人は色違いの似たようなカーディガンを着ています。これも地元で手に入る衣服の選択肢が限られていて、だいたい同じような恰好だったとのこと。ティルさんは紺のスカートをはいていて、他の写真でもよくみかけるのですが、中高生の制服が学生になっても2枚しかないオシャレ着の1枚だったとのことです。白のTシャツには、ネパールにないココヤシと海に帆船が絵描かれています。これは、天然ガス・石油産出国ブルネイにグルカ兵として駐屯し、今は都市ポカラの新興住宅地に居を構える、プンマガルの親戚からのお土産だったとのことです。

 なぜブルネイなのか。それは1962年、英領マラヤ連邦の英国軍グルカ連隊がブルネイ動乱制圧に動員され、以来ブルネイ王室が英国軍の退役グルカ兵を再雇用した歴史に由来します。ティルさんらプンマガルを含む山岳民族マガルは、かつて英国に優先的に雇用されたグルカ兵として知られます。インド、シンガポール、返還前の香港など、旧英国領の陸軍や警備員として雇用を受けていた事実を古い写真の中にみつけることがあります。

 写真の背景には、大きな丸太が積まれ、蔓が伸びた緑の濃い葉が壁のように覆っています。丸太は有用な建築材サラノキで、緑の葉の植物の壁は恐らくヤマノイモです。キャンパス周辺で撮った写真と本人が言っていましたが、当時の写真に意図した自然風景の被写体はないけれども、どこも草木が自ずとそこに存在していたことが分かります。

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 ところで、クラスメイトの2人は誰か、今どうしているかとティルさんに聞いたことがあります。

■1990年カワソティ。中央がティルさん
 「入学後に撮った写真で名前は忘れた。1人はグルン人でもう1人はバフン(高位カースト)の子。2人とも数ヶ月したらキャンパスには来なくなって、教室から女学生は徐々に減っていった。女子は結婚する(させる)のが早かったから。でも父は私が勉学に励むのを拒むことはなかったわ」。

 ティルさんの父親もまた、英国独立後に分割されたインド軍雇用のグルカ兵でした。外貨獲得、海外出稼ぎ労働者の先駆けでもあり、最前線で命がけで闘うことが評価されたグルカ兵。ネパールの農山村に教育をもたらし、従来の枠組みを超える存在であったと同時に、1815年に大英帝国がインド統治にグルカ兵を雇用して以来2世紀にわたって、大国支配の一翼を担う存在でもあったのです。

               (藤井牧人)



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