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アソシ研リレーエッセイ
敬意―「反貧困」から零れ落とされたもの


 使い方に注意を要する言葉として、前号の「ノマド」に次いで「反貧困」を取り上げたい。「反何々」という言葉には通常、その何々に「反対する」という意味がある。それでは、「反貧困」は「貧困に反対する」ということなのか。意味不明である。貧困は「あってはならない状態」だから何とかしなければならない。この理屈には同意できる。しかし、貧困に「反対する」べきなのだろうか。そして、そもそもそれが可能だろうか。もし不可能ならば、そのような標語を唱和することに問題はないだろうか。

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 2013年度から某大学社会学部の非常勤講師として「社会学特講―釜ヶ崎から世界を見る」という科目を担当している。釜ヶ崎がどういう地域かという話題を皮切りに、非正規雇用や野宿者襲撃事件に代表される社会的排除の原因と帰結、それらの背景にあるマネーゲームなどの経済問題を相互に関連付けながら解説する。毎回、お題を定めて学生にコメントを書いてもらい、それらに次の回で私がさらにコメントを加える。ある程度は相互批判的な議論ができていると思う。期末レポートを読んで真理を突いた表現にやりがいを感じることもある。しかし脱力感に襲われることも多い。

 その最大の理由は、多くの受講者が貧困やホームレスの状態にある当事者を、教化の対象と見なしているところにある。それらのような「あってはならない状態」に留まることは許されない、だからその状態から一刻も早く救出しなければならない、というのだ。そして、そのような状態を強いられている当事者が「あってはならない存在」に読み替えられていく。ある意味、貧困やホームレスに真剣に「反対している」わけである。もちろん自己責任論を克服したうえでの話である。

 言い訳がましいかも知れないが、私の意図は別のところにある。それらのような「あってはならない状態」を生み出さずには維持できない社会の中に私たちは生活している、つまり自分自身が社会問題の当事者であるという事実に気付くことである。他者を教化の対象とみなしている場合ではない。自分自身が何者なのかという問題なのだ。いつも初回あたりで、「この科目には『社会学』という名がついているが、決して自分自身を棚に上げて他人の営みを観察対象にしようというものではない」と釘を刺しているはずなのだが。私の力不足であろうか。

 本当に「あってはならない」のは何か。誤解を恐れずに言えば、それは貧困やホームレスの状態そのものよりは、そうした状態を強要する何者かの行為であろう。端的に言えば、社会的多数派のネットワークが行う搾取である。反対するべき対象がこれであることは論を待たない。「ブラック企業大賞」のような取り組みは象徴的である。ただし、自分自身がそのネットワークの中にいるのか否かが問われる。もし中にいる可能性がありながら反対を唱えていたら、無責任との誹りは免れない。「反貧困」よりも「反搾取」の方が標語としては誤解が少ないはずだが、私にはその言葉を唱えられる自信を強く持てない。

 もう一つの論点がある。貧困やホームレスの状態は本当に「あってはならない」のか。「そうだから、本人は脱出すべきであり、周囲が支援すべきである」と主張する者がいる。この主張には、それらがどうにも甘受できない最悪の状態との前提がある。そこに当事者の意志や思想を読み取る余地は完全に抹消されている。「貧困」を最初からそのように定義するなら、「貧困」に関しては問題ないかも知れない。しかし、この前提は「ホームレス」には該当しない。より悪い状態を避けるために選択した人も実際いるからだ。そして何より重要なことに、社会的多数派の搾取ネットワークとの関わりを完全に絶とうと思えば、否応なしにそれらの状態に近付かざるを得ない。それらの状態こそ他者を搾取していないという点で絶対的な正義である。ただし、煩悩を持つ生身の人間にはほぼ実践不可能である。だから「反搾取」は標語として非現実的である。

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 以上のような逡巡を経た末に「反貧困」という言葉が使われているのであれば、その意味不明さこそが意味深長である。ただし、やはり大切なポイントが抜け落ちている。それは、本人の意志に反してとは言え「反搾取」を一瞬でも実践した当事者への敬意である。

                          (綱島洋之:大阪市立大学)



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