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アソシ研リレーエッセイ
「ノマド」を豊かに開いていこう


 映画「ノマドランド」が流行りました。「ノマド」(遊牧民)は自分にとって懐かしい言葉です。僕の若い頃、80年代から90年代にかけて、この言葉は「現代思想」で流行しました。もともとはフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス』の中で強調された言葉です。フランスでは1973年に出版され、読んでもよく分からない本なのにベストセラーとなりました。みんな新たなものを求めていた。そういう時代だったのでしょう。『ノマド』とは、組織や家族や土地にしばられず生きていくことを指します。「ノマドワーク」なんて言葉は今でも使われますね。PC一つで、スターバックスでも作業できるぜ!という感じです。「新しい働き方」とも連動しますね。

 というと、非正規雇用やその逆のITなどのベンチャー起業家、自己啓発本しか売れない日本(ホリエモン、ひろゆき……)では別に目新しくもなんともなく魅力的に感じないかもしれません。つまり「ノマド」は、今は幅広く普及して、惰性的な言葉になっています。しかし1973年当時のフランスでは斬新だったようです。ドゥルーズ&ガタリの評伝を読むと、『アンチ・オイディプス』によって、フランスの新左翼の内ゲバや毛沢東主義のいきづまり、閉塞する流れがフランスで断ち切られた、と書かれています。『アンチ・オイディプス』は歴史的/教科書的にはそういう位置づけの本です。

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 日本では浅田彰さんが、80年代になって、この「ノマド」と言う言葉を、輸入導入して日本で流行らせました。どれだけ流行ったかというと、バブルの頃、セゾン西部のTVコマーシャルで、「ノマドになろう」なんてコピーが流れたくらいです。ざっくりいうと当時全盛期を迎えた日本の消費社会で、その流れに乗りつつも、その流れを越えたものを見いだそう、それが新しい左翼やリベラルのスタイル、という感じなんでしょう。浅田さんは70年代末の学生のころは京大経済学部自治会で、竹本処分粉砕で経済学部長室を実力占拠していた人なのですが、何かしらのアイロニーや鬱屈で、こういうスタンスとなったのでしょう。浅田さんは、学生の頃の活動はメディアでは一切触れずに、「知的」で「クール」で「エスタブリッシュメント」な「文化スター」としてきらびやかにマスメディアに登場しました。それはつまりアイロニーに満ちた、あえてのそういう「広告」戦略で、そのときは斬新だったのでしょう。

 しかし、昔、華やかだった「ノマド」も、今では何かしら形骸化していると私は感じます。

 「ノマドワーク」とかいったって、要は低賃金で請負で働かせるための口実じゃんとしか思えないところがあります。時代が再び一巡りしたのではないでしょうか。関西よつば連絡会とかが培ってきたものが、脚光を浴びてもおかしくないと僕は思います。

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 『ノマドランド』の中の「短期季節労働」ときいて、アメリカではたとえばカリフォルニアでは大規模化・機械化されたイチゴ産業がありますが、どうしても収穫は機械化できません。手で摘まないと無理です。そこで不法移民のメキシカンが使われているという事例を思い出しました。これらキャンピングカーで移動する人たちも同じようなタイプの労働に従事しているのではないだろうか、とまず思いました。要はいくらAI、ITしても絶対残るエッセンシャルワークを、さらに搾取するために「ノマド」と言う言葉は今や使われるようになっているのではないでしょうか。足の向くまま気の向くままに、世の中を渡っていくのは魅力的です。私も大好きです。「風の靴を履いた男」とそりゃあ言われたいです。しかし、竹中平蔵とかもそういう生き方を賞賛してますし、それは結果として短期請負非正規雇用=内部の第三世界として収奪されていきそうです。

 ノマドランドの自由は、先進国の中にできた内部の第三世界と紙一重なのではないでしょうか。かっての釜ヶ崎だって、しがらみを逃れて、日雇いが魅力的だと感じてやってきた人もいたはずです。そしてかってはヤクザが収奪し、いまはもっと上品にamazonなどが収奪する。

 私は、この紙一重を「収奪」の側に落とし込ませたくないです。ではそのためになにができるでしょうか? 皆さんと一緒に考えていきたいです。

                                     (吉永剛志:使い捨て時代を考える会)



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