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活動報告―下郷農協への訪問

はじめに

よつ葉グループの中軸をなす、異業種の企業による事業協同組合「北大阪商工協同組合」。別項とも関わるが、この間、地域と協同という点でユニークな取り組みを進めている団体から学ぶことを通じて、自分たちなりの協同の原点を見直そう、との意見が出された。そこで浮上したのが、大分県中津市にある下郷農協である。農協の合併が全国的に進む中、合併を拒否して設立以来の単協を貫き、「JA」すら名乗らない。その根拠はどこにあるのか。以下、11月11日〜12日に実施した訪問を踏まえて考えたい。

厳しい条件の中で

福岡空港から高速道路で南東へ1時間、さらに日田インターから中津へ至る「日田往還」を進むこと40分、山道を何度が上り下りするうち、訪問先の下郷農協が位置する耶馬渓町大島に到着する。晩秋とはいえ、空港ではそれほど感じなかった肌寒さも、さすがに迫ってくる。

農協の設立当時は行政村だった下郷だが、後に合併を繰り返し、その地名は地図上から消えた。一昨年の「平成の大合併」を経て、現在は中津市に吸収合併されている。奇岩秀峰と清流で知られた景勝地「耶馬溪」の玄関口であり、秋には紅葉見物の観光客が引きも切らないという。

反面、四方を山に囲まれた山間地であるため、平地は極めて少ない。大島地区を中心とする比較的広い平地を除けば、水田や畑は山国川やその支流に沿って細長く続くのみ、あるいは山の斜面を利用した田畑が見られるのみで、全体として農耕にはかなり厳しい条件であることが分かる。

そうした不利な条件も影響し、下郷農協は正組合員507人、准組合員454人+19団体と、数の上から見ればたしかに小規模ではある。とはいえ、正組合員数は2000年段階の499人から、わずかながら増加している。これは驚くに値する。というのも、大分県の作成した2005年農林業センサスによれば、下郷を含む旧耶馬渓町管内の総農家数は、2000年の989人から05年には903人へと、8.7%減少しているからだ。

ちなみに、下郷農協に結集する農家のうち、専業は21%、第一種兼業は15%、第二種兼業は64%とのことである。大分県全体における構成比率では、専業31%、一兼12%、二兼56%となっているので、特に農業地域というわけではなく、むしろ二兼の割合が高いのが印象的だ。

山間地のご多分に漏れず、過疎化と高齢化の波は容易に抗いがたい。農産物の市場価格は年を追うごとに低下していく。こうした流れに対抗するためには、市場競争に身を委ねた上で、産業としての農業を維持・振興していくだけでは無理がある。地域での生活を維持していく観点から農業を位置づけ、市場の規定力を認識しながらそれに包摂されず、独自の経路を創り出していくような、非常に困難な闘いが要請される。

下郷農協は実際、長きにわたって困難な闘いを継続し、確固たる成果を収めてきた。それは、合併を拒否する矜持として、また組合員の増加として現れていると言える。

協同組合の原点を堅持

もっとも、日本の戦後史は、地方の小農を切り捨て、賃金労働者として再編してきた歴史でもある。それ故、下郷農協の闘いは決して順風満帆に進んだわけではない。むしろ苦闘の連続だった。

下郷農協は1948年、戦後の農地改革で耕作地を手にした旧小作層を基盤として設立された。中心メンバーの中には、当時の民主化運動の中で左翼的な思想や運動に触れ、共産党の流れに加わった人も多いという。その2ヵ月後には、保守的な旧地主層を基盤とする下郷第一農協が発足し、対峙関係が形成される。

旧来の人間関係が残存しがちな山村のこと、しかも「赤い農協」と噂される存在である。旧小作層の中にも後難を恐れ、第一農協に加わった者が少なくなく、地域全体で見れば、下郷農協は少数派の立場にあったという。

ただ、こうした劣勢を跳ね返すことができたのも、もともと旧小作層を基盤とした組織構成に起因するところが大きいだろう。社会的・経済的な抑圧からの解放のために、同じ立場の者が自主的に結合しあって形成されただけに、専従も含めた組合員の間には平等な関係が維持され、日常活動の中にも、「組合員あっての組合」という協同組合の原則が表現される。それは、新たな組合員を結集させる求心力ともなる。

農協の設立期から、産直運動を軸として一応の安定期に至る間の苦闘については、末尾の参考文献に詳しい。とりわけ、信州伊那谷からの開拓者に対して、地元住民と代わらぬ態度で親身に接し、それが、酪農で得られる牛乳の販路を求めた都市部への直販へ、さらに他の農産物を加えた産直へとつながっていく過程は、非常に興味深い。

いかに「組合員のための農協」という理念を掲げても、経済的な裏付けを欠けば「画に描いた餅」に終わる。条件の不利な山村では、特定の品目に特化した大規模生産を行おうにも限界が大き過ぎる。しかも、流通を外部に委ねてしまえば、市場競争で有利な産地に太刀打ちするのは困難だ。

こうした中、下郷農協は直販・産直という形で市場とは別の流通経路を模索し、農産品の加工によって付加価値を与えた。地元で行われている農業は、大規模流通では弱点となる少量多品種生産だが、産直方式では産品構成の多様性として、利点に転化する。また、小規模であるが故に農薬や化学肥料に依存する必要がなかったことも、後々になって大きな利点となった。

こうしてみると、率直にその先見の明に驚かされる。よつ葉グループもまた、時代状況や初期条件は異なるものの、同様の実践を経てきただけに、なおさらだ。もちろん、だからといって、下郷農協に何か特別な能力が備わっていたわけでも、最初からすべてを見通した上で事業を展開したわけでもなかろう。

むしろ、条件が不利な分だけ組合員が持つ能力を余すところなく結集し、その力を適切に投下したが故のことだと思われる。これは、やはり組合員が共通の目標の下に結束した協同の関係なしにはあり得ず、それを可能にする民主的な運営抜きにはあり得ない。

協同組織と地域

今回の訪問は、実は下郷農協の主催する「農協まつり」に合わせたものである。今年で51回を迎える農協まつりには、農協の歴史にとって重要な事件が関わっている。1951年、共有林の伐採をめぐる地主特権層との争議にGHQ(連合国軍総司令部)が介入し、当時の組合長以下30名が逮捕される「鎌城山事件」が発生した。この際、組合員を元気づけようと農協の食堂で行われた余興会が、農協まつりの発端だという。

現在では、農協組合員に限らず、地域や近隣の老若男女が集う祭典として定着している。全国でも数少ない「農業協同組合立」の下郷診療所を含め、下郷農協が地域に占める役割の大きさを直に感じることができる。

一般に、協同組合は組合員の利益を目的に財や力を供出し、自主的に運営されるアソシエーションである。つまり、一種の「仲間内」組織であり、組合員とそれ以外(員外)との間には資格の違いがある。とはいえ、協同組合それ自体が単独で成立するわけではなく、特定の地域やそこでの人間関係など、すでに存在している社会関係の中で形成され、営まれるものである。

したがって、アソシエーション「内」で育まれる諸関係は、アソシエーション「外」にある諸関係の影響を不可避的に受ける。「外」にある諸関係が権力的なものだったり、市場主義的なものだったりする場合、それが「内」に浸透し、アソシエーションの変質を招くことにもなる。

しかし反面、そうであるが故に、「内」で形成される諸関係が「外」に影響を与え、その変化を促す可能性を孕んでもいる。言い換えれば、「内」に存在する諸関係が平等・互恵・協同・公正といった普遍的な質を保持していればこそ、それは「内」を守るだけでなく「外」へと広がり、アソシエーションが位置する地域のあり方を変えていくことにもつながるのである。

下郷農協と地域との関係で言えば、産直や農畜産物加工などによる農業支援や雇用創出、あるいは診療所やデイケア施設などのサービス提供、さらには農協まつりなどの催しは、もちろん組合員の利益を目的にしていても、同時に地域全体への貢献ともなっていることが分かる。それは、下郷農協がこれまで維持してきた価値観が、「内」と「外」を貫く普遍的な質を保持していたことの現れと言えるだろう。

今日の課題

ただ、時代の推移に伴って事態は常に変化し、それは新たな課題を呼び寄せる。下郷農協もこの間、次のような難問との格闘を迫られている。

@経済危機からの再生
 横山金也組合長によれば、下郷農協は90年代に入って経営危機に見舞われた。その遠因は、95年のWTO(世界貿易機関)発足に象徴されるように、農産品貿易の自由化が一層進み、国際的な価格競争が激化したこと、また、バブル崩壊を契機とした日本経済の停滞に伴い、消費の落ち込みが長期化したこと、などを指摘できる。ともあれ、下郷農協では、96年をピークとする売上げの急減という形で危機が表面化した。

とくに産直の売上げ減少は深刻だったという。それは牛乳工場の衛生管理を契機とする一時的な問題もあったが、むしろ、これまで関係のあった生協が組織化され大型化が進んだこと、また、一般市場でも有機・無農薬や産直が拡大し、下郷農協が提供する産品の独自性が希薄化したこと、などの構造的問題を孕んでいた。言い換えれば、従来の産直システムを維持する一方で、新たに生じた状況変化への対応が遅れた、というわけだ。

加えて、食肉工場(81年)、きのこ工場(85年)、診療所(89年)、牛乳工場(95年)と設備投資を行ったものの、その回収時期が不況期と重なったことが、経営を大きく圧迫した。中でも、牛乳工場、きのこ工場、診療所は補助金なしの自己資本投資であり、打撃は甚大だったという。

かくして、98年の大分県による検査で、「累積赤字と未償却による含み損合計が約4億9000万円(自己資本比率0%)であることが明らかになり」、これを盾に「大分県及び農協系統組織は、合併か自主再建かの選択を強力に求めて」きたという。

AJA県域合併攻撃との闘い
 実は、農協の合併にまつわる攻撃は、この間、全国的に見ても強まる一方である。この点は、下郷農協への訪問に先立って行われた准組合員意見交換会での、大分県農民運動連合会の阿部会長による基調報告を通じて詳しく知ることができた。

大分県では現在、県と農協中央会の主導の下、08年4月1日に県内23農協を単一JA(農協)に統合する「県域JA」構想が推進されている。農協の合併は、以前から経営合理化を理由に行われてきたが、ここへ来て急速に強化された背景には、経済のグローバル化がある。郵政民営化に象徴されるように、この間、国際金融資本による金融自由化の要求が熾烈を極める中で、農協の信用・共済事業が次なる標的とされているのだ。

もともと、営農や関連事業に資金を調達するため、組合員の生活を支えるために確立された農協の信用・共済事業だが、農業の衰退という状況下、本来の目的を離れた形となり、JA自体が一種の金融・保険会社のような色彩を強めてきた。金融資本はこの点を突いて財務水準を問題にし、郵貯のような分割化を要求している。

ところが、JA中央はこれに対し、協同組合としての意義を示すよりも、金融・保険会社としての経営の健全性をアピールすることで切り抜けようとしている。その結果、各地の農協に対して「自己資本比率」や「減損会計」といった一般金融資本の基準を機械的に適用し、経営不振の農協を合併によって解消する方針である。

もっとも、こうした狙いがあまりに露骨で、経営の順調な農協にとっては利点がないことなどから、下郷をはじめ5農協が合併拒否や協議からの離脱を表明、合併に向けた協議は難航している。

危機の克服に向けて

以上のような内外の危機に対して、下郷農協はこれまでの蓄積を基盤に、克服に向けた歩みを重ねている。例えば、取引相手である生協との間では、現状の水準に見合った衛生、生産の体制を確保する一方、都市に直売店を含む販売拠点を設置し、各地の小規模な消費者組織との関係を再編、また宅配産直システムの新規開発など、販路の多角化を目指しているという。

また、販売や取引きを超えて消費者と緊密な関係を築くべく、99年には「産直のありかたを考える懇談会」を設置した。ここで2000年を「産直立て直し元年」と定め、それ以降、農業体験や対話交流など、「産地と生産者の顔が見える産直運動」に大きな力を割いてきたという。

さらに「経営危機をもたらした最大の要因は、役職員の意識」との反省から、経営や組織に関する情報開示に積極的に取り組み、「新春学習会」や「経営協議会」の設置、「職場綱領」の制定などを通じて、役職員の意識改革を進めているという。
 このように、意識的に自己変革を行い、かつ、経営・組織運営に具体化していること、それが効果を発揮していることについては、農協合併攻撃の中でも、地域の需要を第一に、あくまで単協にこだわる姿勢を示している点からも窺える。

◆    ◆

時間的に限られた今回の訪問だったが、「地域と協同」「生産と消費」など、よつ葉グループが直面する課題について、重要な示唆をいただいた。横山組合長、三上参事をはじめ、お世話いただいた皆さんに感謝するとともに、今後とも関係が継続され深化されるよう、お願いしたい。(山口協:研究所事務局)

【参考文献】
 ・下郷農協ホームページhttp://www.simogonokyou.or.jp/
 ・渡辺成美『協同の原点を求めて』農業・農協問題研究所、1985年
 ・奥登・矢吹紀人『新下郷農協物語』シーアンドシー出版、1996年
 ・食糧の生産と消費を結ぶ研究会『大地のきずな』第82/83号(2002年)、第84号(2003年)


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