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㈱丹波協同農場をめぐって

「限界を突破するところで始まった」

やさか共同農場・佐藤隆
さんに聞く

 前号では、関西よつ葉連絡会の生産農場の一つ、㈱丹波協同農場について紹介した。丹波協同農場は 2008 年に広島県に開設された㈱世羅協同農場の後継組織だが、もともと㈲やさか共同農場からの提案の下、関西よつ葉連絡会との共同事業として発足したものだ。丹波協同農場について考える上で、やさか共同農場側からの視点も欠かすことはできない。やさか共同農場の前代表・佐藤隆さんにお話をうかがった。


理想の共同体を目指して

 「いまでこそ『六次産業化』なんて言われるけど、味噌であれ何であれ、もともと農村の暮らしの中でつくられていたものだよね。それで、冬の間は加工品をつくって、それがだんだん販路もできてくると、今度は原料もちゃんとつくろうってことになってね。そこで気づいたのが、要するにアメリカとの関係ですよ。麦も大豆もね。だから、やっぱり同じ加工品といっても、大豆や麦なんかの基幹作物をきちんと自給しないといけないんじゃないかと思ったわけです。」

 佐藤さんは、世羅協同農場を始めるに至った問題意識について、そう語る。もちろん、真意を理解するには、それまでのやさか共同農場の歴史を振り返る必要がある。とはいえ、来年には開設から 50年を迎えようとする道程の全体を追うことは浅学菲才の手に余るところである。詳しくは当事者による2冊の回顧録(末尾に紹介)に譲るとして、ここでは簡単にやさか共同農場の概略に触れておきたい。

 やさか共同農場は島根県浜田市の弥栄(やさか)町にある。ひと山越えると広島県に入る、中国山地の背骨付近に位置する山間部だ。いわゆる「平成の大合併」で2005年に浜田市と合併するまでは村(那賀郡弥栄村)だったことからも、情景を想像することができるだろう。

 佐藤さんが仲間たちと旧弥栄村にやってきたのは、広島県尾道市の高校を卒業した直後の1972年。未だ大学闘争やベトナム反戦運動の熱気が冷めやらぬ当時、既存の社会秩序に組み込まれることに抗い、生き方を模索する青年たちの取り組みが全国各地で行われていた。佐藤さんが縁もゆかりもない弥栄村にやってきたのも、生産と生活が一体となった共同体(コミューン)を建設し、それを拠点に過疎化が進む限界集落を再建しようといった理想に惹かれてのことだった。

■佐藤隆さん やさか共同農場事務所前で
 村に入った佐藤さんたちは「弥栄之郷(やさかのさと)共同体」を名乗り、自ら作った農産物だけでなく地域の自家用野菜を集荷し、広島の消費者に販売する産直運動を始める。とはいえ、農業経験は皆無に近い素人の集まりであるため、小規模な産直販売だけでは安定した経済基盤の確保は難しい。加えて、冬場は雪に埋もれる土地柄のため農業ができず、冬になれば都会で出稼ぎをする生活が続いた。

 この課題を解決したのが、今日も看板商品となっている味噌づくりである。地域のお年寄りに学び、技術研修にも出向くなどした結果、冬季の出稼ぎをしなくてもよい状況が生まれた。それ以降、和牛(短角牛)の肥育や養豚、食肉加工、椎茸栽培など事業を多角化するとともに、広島で産直のアンテナショップを運営するなど、試行錯誤を経ながらも経営基盤の確立が進んでいく。

 こうして1989年、弥栄之郷共同体は有限会社やさか共同農場として法人化する。だが、事業が多角化し経営規模が拡大するにつれて、従来のような一つの共同体としての運営は困難になり、牛肥育、養豚、食肉加工、アンテナショップの4部門が分割独立に至る。やさか共同農場の事業範囲は農業生産と味噌の加工に縮小し、体制も佐藤さん夫妻による事実上の家族経営へ転換した。

 売り上げの中心を占めていた畜産部門を失い、経営の立て直しを迫られた佐藤さんは、味噌の製造販売に力を注ぐことになる。その際、問題となったのが主な原料となる大豆の確保だ。とはいえ、生産規模を広げようにも、拠点とする集落ではさらなる圃場の拡大は見込めない。

 そんな窮状に助け舟を出したのが、同じ弥栄村にある門田(かどた)集落である。1970年代末に集落全体で生産組合を組織し、早くから集落営農に取り組んでいた。農業機械の共同使用にとどまらず、すべての農地を生産組合に集約し、作付け計画から耕作まで全体で行う態勢も備えていた。折から水田転作による大豆栽培に関心を持っていた門田集落と、大豆生産の拡大を求めていたやさか共同農場との利害が一致する形で、94年には門田集落でやさか共同農場による大豆の試験栽培が実施される。想定を上回る収穫量が得られたことで、96年からは集落営農による大豆栽培が始まった。これ以降、門田以外の集落にも大豆栽培が拡大し、安定した原料の確保が可能となった。


共同事業の二つの目的

 「そういう経験をしていますから、集落営農型で進めていく限界も感じたんです。そこには都会で暮らしている消費者の人たちがいないじゃないか、と。かつては広島でアンテナショップもやっていたし、そこから宅配の会社もできたけど、自分たちの産直として自立するまでにはいかなかった。しょうがないかなと思いながらも、都市生活者とのつながりを日常的にできるような生産現場というのは、やっぱり捨てきれない。でも、ここでは無理なので、それで山陽側に出ていった、と。」

 佐藤さんの言う「そういう体験」とは、2004年に生じた一連の出来事を指す。まず、8年にわたり集落営農で行ってきた大豆の有機栽培が、行政の指導の下で特別栽培のエコ大豆に特化されることになった。また、有機栽培大豆を原料とした加工品を製造するため、行政とJA(農協)の肝いりで開設され、やさか共同農場が担っていた公社加工施設での製造実務が村議会の決定によって競争入札へと移行、やさか共同農場は撤退を余儀なくされる。いずれも、村の農業の中でやさか共同農場の比重が増したことに対する反作用だが、大きな転機となったことは間違いない。(ちなみに、その後、加工施設は外部の業者が実務を担うことになったが、うまくいかず操業停止となった。)
 ■現在は使われることもない公社加工施設

 ここで佐藤さんは、やむを得ない経緯であったとはいえ、やさか共同農場の事業が行政との関係に偏りすぎ、結果的に自縄自縛に陥っていたことに気づく。とすれば、そこからの脱却には何が必要か。そう考えたとき、改めて生産と消費、村と町の暮らしが結びつくことの重要性を見出したという。

 もっとも、当初から関西よつ葉連絡会との共同事業を考えていたわけではなかった。広島県世羅郡世羅町にあった国営パイロットファームの畑地を借り、大豆をつくり始めたのが 2007年。当初は弥栄村から通ったり、獣害対策のため車中泊をしながら作業に取り組んだが、その中でいくつかの問題が見えてきたという。とくに大きいのが、生産を支え、一緒に取り組んでくれるような消費者とのつながりがなければ、単に農場だけをつくっても機能しないことだ。ここで求められたのが、関西よつ葉連絡会との連携である。

 関西よつ葉連絡会は当時、しまなみ海道の生口島に肉牛肥育の瀬戸田農場を持つほか、広島県庄原市東城町「東城愛農有機の里」など広島に付き合いのある生産者・団体もいたことから、㈲広島生き活き農産を立ち上げ、広島での宅配展開を試行していた。佐藤さんは、生産・加工・流通を一体として取り組んでいることに「同じ志」を感じ、共同事業の具体化が進むことになった。

 こうしてみると、世羅協同農場には①中山間地における自前の穀類生産、②生産と消費の連携という二つの目的を実現するための役割が期待されていたことが分かる。しかも、それはやさか共同農場だけではなく関西よつ葉連絡会の期待でもあった。前号では、この点についてきちんと取り上げることができなかったので、ここで改めて強調しておきたい。


共同事業の終焉

 「ところが始めてみるとなかなかね……」。佐藤さんは、そう語る。前号で触れたように、これは関西よつ葉連絡会から世羅協同農場に参加した近藤さんも同じ意見である。ただ、その中身はやや異なる。

 「難しかったのは、一つは無農薬とか有機とかいうことにこだわりすぎたよね。そりゃ、できればいいんだけど、やっぱり減農薬とか省農薬という選択肢も含めて、例えば減農薬・省農薬で全体の何割、(耕作)条件のいいところでは無農薬・有機で栽培するとか、柔軟に考えればよかったんだけど。まずは方針ありきですから(笑)。そういう意味での技術的な問題点はありましたね。」

 前号で見たように、近藤さんは世羅協同農場が行き詰まった原因として、農地が拡大できなかったことだと総括している。想定していた二毛作がうまくいかない以上、面積を広げて収量を稼がないといけないものの、それができなかったというわけだ。この点についても、佐藤さんの考えは異なっている。
 「でも、どういう農業をイメージするかによるけど、土地利用型で面積拡大の農業、これを中山間地でやるのはそもそも無理があるわけで。それなら北海道行けよ、という話。だから、結果として面積を広げる場合でも、やっぱり開墾した畑地と、いわゆる水田の転作と、両方を含めて考えないと、中山間地では。逆に言えば、その土地に適したものをつくるという風に考えないと。」

 そう考えると、水田つまり地域の農業とは切り離された世羅協同農場の状況が問題だったということだろうか。

 「いや、世羅の場合は広島生き活き農産もあったし、そういう消費者との関係を、もう少し、3年ぐらいかけて生産基礎をつくって、農業体験ができるベースができれば、と思っていたから、地域と一緒にというのは考えなかったですね。あそこらは、みんな二種兼(二種兼業農家)だもん。だから、田舎だけど農村じゃなくて町ですよ。」

 単に農業生産の拡大だけではなく、消費者との関係を深めることも合わせて事業全体の方向付けをし ていくということだろうか。事実、広島生き活き農産の会員向けに生産体験や交流の機会を設けたり、農業塾を開設して受講生を募るなど、消費者・都市とのつながりを積極的に推進しようとしたことは間違いない。とはいえ、最終的には兵庫県丹波市への移転を選択する結果となったのも、また事実である。

 これも前号にあるように、近藤さんの話では、丹波へ移る前年の13年あたりには役員会で「もう限界かな」という話が出されていたとのことだが、やはり佐藤さんの受け取りは異なる。

 「僕はあまりその記憶はない。逆に「何を言い出すんだ」と思ったくらいだったから。というのは、人か組織か、あるいはその組織が立っている場なのか、ときにどちらかが先に行ったりするけれど、どちらかがずっと線を引いているんですよ。だから、やるとかやめるとか、そんなことはないの。こういう世界に入ったら常に、どちらかが動き続けるんですよ。限界もクソもなくて、それを言い出せば最初から限界なんで、限界を突破するところで始まってるんだから、限界って言うならずっと限界ですよ。

 もう一つの道があったとすれば、近藤さんがよつ葉を離れて、個人としてやるという道ですよ。その中で、実際には組織との関係を重視したんだと僕は理解しているんですよ。いまでもその二つ以外に道はなかったと思ってます。」

 ここで思い至るのは、一つは共同事業の孕む課題である。個人事業でない限り、運営や方向性をめぐって齟齬や対立はつきものだ。その上、各々来歴や基盤も異なる事業主体による共同事業となれば、さらに意思一致が難しいことも想像がつく。だからこそ、真に両者の意思が一致した際には、各々が単独で行う以上の飛躍が可能となるのだが。

 もう一つは、組織と個人の関係である。やさか共同農場と佐藤さんの関係は事実上一体であり、両者の間は基本的に矛盾がない。しかし、近藤さんと関西よつ葉連絡会との関係は、そうではない。それは単に登記上の代表取締役か否かではなく、自分が何を担うのか、個々の持ち場なのか、それとも組織全体なのか、といったあたりの違いだったと考えられる。そうした観点から見て、近藤さんは最終的に、世羅協同農場という個々の持ち場ではなく、関西よつ葉連絡会の中での生産農場に責任を持つ形で、組織全体を担う立場を選択したことになるのだろう。

■深穴仕立ての加工用トマト
 現在は地理的に離れ、日常的にお互いの考えをやり取りできる状況ではないとはいえ、そんな佐藤さんから見ると、近藤さんにはまだまだ突破してほしいところがあるという。

 「一次生産には少なからず共通している点があるけど、生産・モノづくりに従事する中で自分も作ったり作り替えたりしていかないと、これがなかったらやっぱり粘れないよね。自分が変わったのか、能力的にも高まったか、先が見えるようになったか、いらん恥は捨てたか、そういう自問自答を常にしていかないと。必死にもがくよね。それが価値があるんで、結果がついてくるかどうかは分からないけど、そうやって生きていく以外ない。だから、もっと組織の仲間を信じて頼って、でも自分の自負心だけは鍛えていってほしいなと思いますよ。」

 弥栄之郷共同体からやさか共同農場を貫く50年近い歴史の中で、佐藤さんがつかみ取った一つの確信だろう。


世羅協同農場からの連続性

 2014年に世羅協同農場が丹波へ移って以降、瀬戸田農場の撤退、広島生き活き農産の清算を経て、関西よつ葉連絡会は広島での展開を終結する。やさか共同農場との事業面での連携も御破算となった。

 「生産者と流通とか、そういう一定の距離間の中で交流会をやるとか勉強会をやるとか、固定化された関係の方が、振り返ってみれば簡単だったなと、あの時は思いましたね。距離感が縮んだ時に、見なくてもよかったものが見えてしまったんじゃないのかな、と。」

 一方、やさか共同農場では 2014年、佐藤さんが代表を退き、新たな体制が出発する。

 「早く世代交代した方が、(次の体制が)ちゃんとするまでに時間がかかったり、紆余曲折あっても、僕も未だカバーできるし、そう思って早めに退いたんですけどね。自分たちを振り返っても、もっとめちゃくちゃだったし(笑)。」

 もちろん引退したわけではない。いま佐藤さんが主に従事しているのは、島根県益田市と浜田市金城町のパイロットファーム、世羅協同農場の跡地を使った穀類栽培、やさか共同農場の事務所向かいの畑(有機JAS認定圃場)1ヘクタールを使った加工用トマトの栽培だ。

 世羅では味噌の原料や麦茶に加工する大麦、大麦の裏作にキャベツとソバを栽培しており、大麦とソバは無農薬栽培を続けている。加工用トマトの場合、世羅では支柱を立てて吊っていたが、いまは人件費が合わないこともあり、地這いで行っている。

 「流れで見ると、弥栄で試験的にやっていたことを世羅ではもう少し規模を増やしたり、もう少し機械化したりしたけれど、今度はその成果も含めて弥栄でやっているわけ。簡単に言えば、一つの畑では一つの作物しか作らない。生産していないときは土づくりということで少し起こしておくだけとか、その圃場がその作物に徹底的に向いた条件にしていくと。その一番極端なのが加工用トマトの専用圃場。初めて見る人の中には、けっこう驚く人もいるね。」

 実際に拝見したところ、管理機しか入れないくらいの高畝をつくった上で、直径・深さ各々20 センチくらいの穴を掘って底にトマトの苗を入れ、マルチをかける。すると、日光を求めて苗が生長しようとする際にも、穴が支柱代わりになって倒れないという。畝が高いので排水もよく、ある程度生長した後には穴に堆肥を入れ、施肥と主茎の固定を同時に行う仕組みだ。

 「どうせこれまでのやり方でうまくいかなかったんだから、ベースから変えないと、ということでね(笑)。」

 身振りを交えて自らの工夫を語る佐藤さんからは、楽しさが伝わってくる。現状を所与のものとして受け入れるだけではなく、常に頭と身体を働かせて主体的に状況をつくっていく、そうした姿勢はまったく変わらない。

 「だから、(世羅から)つながっていると言えばつながっている。(やさか共同農場の職員は)みんな加工は一所懸命するけど、原料生産の汚れ仕事はあんまりしたがらない。大豆なんか草だらけにしてしまって、仕方がないから大豆や麦の原料生産の方をもう少しテコ入れしないとと思って、ここ数年、毎日いろんな計画を考えたりして、"初心に帰れ" じゃないけど栽培方法なんか見直したりしてますよ。」

 とはいえ、さすがに佐藤さん 1 人では手に負えない。そこで白羽の矢を立てたのが、海外からの人材だ。やさか共同農場は2016年、初めてタイからの外国人実習生を受け入れた。2018年に受け入れたベトナム青年3名が佐藤さんの実働部隊だ。

 「本当は5~6人来てほしいんだけど、1回3人までしかダメって規制があって。やっているのは農業学校みたいなもんですけど、僕が考えていることを実現してほしいわけです。基本的に3年が1サイクルで、今年の 10月で3年になります。彼らの生活は乱さないように、技術はしっかり教えるということで、大豆も麦も大体期待した通りの結果になっていますね。」
 ■ベトナムからの実習生たちと

 佐藤さんは、「やっぱりベトコン(の孫)は根性あるよ」と言う。ベトナム反戦運動を知る世代だけに思い入れがあるのだろう。(ちなみに、もともと「ベトコン」とは米軍が敵対する南ベトナム解放民族戦線を指した通称だが、実習生の役割から見ると「ベトナムの近藤さん」を思い浮かべてしまう。)

 佐藤さんが言うように、実習生は3年が期限となっているが、2019 年の入管法改定で在留期限の上限が5年の「特定技能」枠が新設された。

 「でも、彼らの目的を考えると3年が限界だと思う。農業の場合、基本的には同じことの繰り返しだし、まだ 20歳そこそこの若者だよ。それ以上というなら、定住できるようにしないとね。受け入れる時から、帰国して農業をやろうという実習生を選択するし、いまいる3人も農家出身ではあるけどさ。ベトナム側にも会社をつくっていて、本来はベトナム法人と僕らの受け入れ側とやり取りがきちんとできればいいけれども、なかなか帰国した実習生の受け皿になっていない。」

 「ベトナム側の会社」とは、四国の無茶々園グループが中心となって設立したファーマーズユニオンベンチャー(FUV)を指す。無茶々園とやさか共同農場は、生活クラブ生協と連携し、物流の共同化を通じた生産の共同化を目指す枠組み㈱西日本ファーマーズユニオンに所属している。


生産と消費の連携はいまも

 以上を踏まえると、世羅協同農場を設立した際の二つの問題意識に関して、中山間地における自前の穀類生産という点では、共同事業の終結後も一定の連続性を見ることができる。一方、生産と消費の連携という点では頓挫したと言わざるを得ない。

 「まぁ、その後はやるすべもなかったしね……」

 しかし、農業生産および加工の現場として見た場合、やさか共同農場はすでに全国の消費者団体と関係を確保しており、味噌をはじめ生産物は高い評価を受けている。一つの証左として、毎日新聞社が主催する全国農業コンクールの第61回全国大会(2012年)で、佐藤さんはグランプリを受賞した。事業的にも成功しており、後継体制も確保された。

 その意味では、あえて自ら直接消費者との関係を持とうとしなくても、むしろ生産団体として特化すべきだと、考えられるのではないだろうか。

 あるいは、生産団体の枠組みに収斂してしまうことは、中長期的に見て、生産団体としても展望を見失う可能性があるということなのだろうか。

 「採算ベースに乗るか乗らんかだけで言えば、生産だけに特化した方が早道かなというのは、一面ありますけどね。しかし、そこには経済合理性がどんどん大きな比重を占めていく、不採算部門は切っていくということになるわけで。そうじゃなくて、これからの農業・農村の先を見たチャレンジという意味では、やはり都市生活者との連携というのは欠かせませんよ。」

 つまり、佐藤さんは依然として生産と消費の連携をあきらめていない。のみならず、次のような構想を思い描いているという。

 「共同体の旗を立てて、"地域とともに" と言ってきた以上、"奈落の底まで動かんぞ" と思いましたけど、そろそろ拠点を移さないとだめだね。時代の流れもそうだけど、ここの集落の自治という意味での力が、年齢と人数の両面で落ちてきたから。やっぱり歴史の歩みというのか、時間がかかりすぎちゃだめね。それを考えると、拠点を移した方がいいと思うんだよ。」

 やさか共同農場の所在地は、住所表記では「弥栄町三里(みさと)」だが、生活空間としては「横谷(よこや)集落内笹目原(ささめばら)地区」となる。しかし、いま笹目原地区に暮らしているのは佐藤さん夫妻の2人のみ、横谷集落全体でも3世帯しかいないという。

 「維持するのは大変(笑)。生産現場というか山村としての存続については、僕も始めた以上は責任もって最後まで皆さんを看取るつもりだけど、それはあくまで僕の生き方の一部であって、やさか共同農場のこれからはもう少し物流の面でも利便性のいいところを考えた方がいい。

■無農薬のタカノツメ 総面積は1ヘクタールに及ぶ
その点、金城(かなぎ)はインターも目の前だし、山林を造成して施設を広げるような立地条件もあるし。そちらに拠点を移せ、移せって言っているんだけれども……。チャレンジするのはワクワクするし、僕なんか借金も財産だと思っているんだけどね(笑)。」

 弥栄町に隣接する金城町は、同じく山間地とはいえ高速道路「浜田道」のインターチェンジがあり、弥栄町と比べて交通の便ははるかによい。先にも触れたが、佐藤さんは現在、金城町のパイロットファームを借りて穀類栽培を行っている。

 「金城に拠点が移れば、世羅とも物流の関係がつくりやすくなる。そうなると、逆に益田が飛び地になるけど、事業的に成り立たんわけではないから、そうなったら益田は誰かに任せて、弥栄、金城、世羅と、広島の方を向いた体制づくりの方へシフトしていくんじゃないのかな、と。」

 かなりの大仕事になるのは間違いない。仮に佐藤さんが音頭をとるとしても、実行し、その結果を引き受けていくのは現在の経営陣である。一般に、自らの手で道なき道を切り拓いてきた創業世代は常に攻勢を好み、託された状況を維持する点に比重を置きがちな後継世代は冒険を嫌う。「借金も財産」と捉えるより、できるだけ借金をしないことが課題となる。「広島の方を向いた体制づくりの方へシフトしていく」かどうか、やさか共同農場にとっては正念場となるのかもしれない。


「仲間がいてうらやましい」

 お話の最後に、近藤さんへのメッセージをうかがった。

 「近藤さんには頑張ってほしいな。せっかく数年ではあれ一緒にやって、いまも近藤さんがああして、これまでの世羅の経験を活かしながら丹波協同農場でやってくれてるんだから。それなりにやってるんだろうけど、やっぱり日本の場合水田がベースなんだから、集落と結びついていろいろやる余地があると思う。今度は近藤さんが教える立場に立って、よつ葉で配達をしている若い人なんかに自分の経験を伝えてほしいな。」

 ここで言われる「集落と結びついて」とは、弥栄町の門田集落における集落営農型の大豆栽培を踏まえてのことだろう。さらに言えば、自らの生産だけでなく、地域全体を支える視点を持つことの重要性を示唆しているようにも思われる。

 ところで、本誌前号で近藤さんは今後の展望として、中山間地における水田転作の穀類生産について栽培技術体系を確立することを挙げていた。成功すればもちろん、仮に失敗したとしても、すべて手を尽くしたと納得できれば、おそらく若者に自らの経験を伝えることにも積極的になれるだろう。

 しかし、佐藤さんとしては、もう一つ考えてもらいたいところがあるという。

 「それだけではね。うまくいかなかった状況を単に技術的に分析するんじゃなくて、そこから次に行くエネルギーを生み出す根源みたいなものがないとね。それを、よつ葉の仲間との関係の中で見つけてほしい。やっぱり人との関係の中でエネルギーを生み出す回路をもっと持ってほしいな、というのはあるよね。現状では、そうやって生まれてきたエネルギーも大半は生産活動の中に使ってしまって、それでも足らないぐらいかもしれないから。

 やっぱりもう一つ、よつ葉を鏡に、仲間を通して自分の生き方が見えてくるというのか、そこの部分ね。ぼくはいつも言うんだけど「仲間がいっぱいいてうらやましいな」と。だから、近藤さんにはそこをエネルギーの源にしてほしいですね。」

 中山間地における自前の穀類生産、生産と消費の連携といった問題意識に加え、佐藤さんと近藤さんの関係もまた、世羅協同農場から丹波協同農場へ連続しているものの一つだと思われる。

                                              (山口 協:当研究所代表)



※やさか共同農場を知るために
 弥栄之郷共同体『俺たちの屋号は「キョードータイ」島根弥栄之郷共同体の17年』(自然食通信社、1989年)
 やさか共同農場編『やさか仙人物語 地域・人と協働して歩んだ「やさか共同農場」』(新評論、2013年)



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