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市民環境研究所から

コロナから地球全体のあり様を


 何週間なのか1ヶ月以上なのかも忘れるほどの曇天雨天が連綿と続いている。このところ雨の合間をぬって犬と早朝の散歩をしていたので、今朝もそうだろうと起き出してみると、雲一つない青空が広がっていた。犬も筆者も心軽く、琵琶湖疎水沿いの小道を6000歩以上も歩いてきた。

 あと一週間もすれば梅雨明けとなりそうだが、コロナ感染は第二次増大期に入ったようである。東京は300人近くも日々増加しており、この過密都市はどうしようもない段階となったが、大阪も昨日は60人近くが新たに検出され、京都も30人近いという。正念場はこれからであり、酷暑の中でのマスクによる防止策は続けられるだろうか。

 その上、安倍内閣は「Go Toトラベル」とかを打ち出したと思ったら、議論初日に「東京は除外」と決めたという。なんとも思いつきだけの対策連発だが、安倍政権を支持する人が3割もいるのだから、理解しがたい日本社会である。

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 それにつけても、我が身に自信がなくなるほどの4ヶ月であった。5月は何をしていたのかと尋ねられても、五月晴れも連休も思い返せない。3月に傘寿に至り、ボケが加速し出したことは本人が一番分かっているが、それよりも、会議も集会もデモの予定も何も書き込まれていない手帳の月日が100日以上も続いて、節目節目がない毎日であった。

 そんな周辺状況の中でも、多くの知人友人がこれからの社会、国家、世界のあり様を語り始めてくれている。新型コロナ事態の上に、九州地方を襲った集中豪雨が覆いかぶさり、救援活動、ボランティア活動も困難を極めているという。現代社会を分析し次の展望を開く論理と心構えがないならば次の時代はないぞと、人間社会からだけでなく、地球という生きた世界から、厳しい声が迫っていると、鈍感な老人にも聞き取れる。

 その議論を、この期に仲間だけではなく多くの人々と語り合える場が必要であるが、今は出会うことさえままならないコロナウィルス支配環境下にある。筆者らの市民環境研究所の事務所にも来客はほとんどない。通りかかった知人が窓が開いていたからと立ち寄ってくれたりするだけで、会議が開催されることもほとんどない。

 人類は文字を持っているのだから、肉声が聞こえなくとも議論は深まるものだと叱られそうであるが、会話も口論も言葉を交わしながら、言葉を訂正しながら、時には腹を立て、時には談笑しながら、自己変換しながら、結論が出せなくとも討議の道を続けていけるから意味があり、楽しいのである。

 いくらtele(遠隔)をつなぎ合わせる技術があると言っても、面談を越えるものはないだろう。だから考えが深まらないなどと自分勝手なことを言うつもりはないが、イライラしながらの4ヶ月であった。

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 そのイライラの原因の一つに、この30年間、春に訪ねていたカザフスタン・アラル海への旅が当分できないことがある。中央アジア諸国も新型コロナ禍は広がり続けており、最大都市のアルマティでは大阪並みの感染があるという。数十年間トップを占めてきたナザルバエフ元大統領も感染したらしい。外交官以外、出入国はほとんど不可能だという。

 カザフとは無縁の友人から電話があり、「カザフでは新型コロナよりも強力な毒性のある肺炎が発生したと日本のテレビで放送していた」と教えてくれた。慌ててカザフの友人に電話をしたり、ネットで調べてみたら、在カザフスタン中国大使館が発表した情報であった。真偽のほどは不明であるが、カザフ政府、世界保健機構、フランスの政府機関もこの内容を否定しているらしい。

 ただし、新型コロナ被害が拡大していることは事実なので、中国政府がなぜそのように判断し公表したのかを調べねばと思っている。世界第4位の湖面積を有したアラル海は10分の1に干上がり、旧湖底沙漠で発生する砂塩嵐が集落を襲っている。防砂林育成のため、日本の「りそな アジア・オセアニア財団」の支援で実践している植林はコロナ騒動で半年以上も遅れた。現場を歩き、現場で相談しながら次の一手を模索してきた筆者らの進め方も新型コロナに拒まれている。地球全体のあり様を考えなければ、新型コロナは許してくれないのだろうか。

                        (石田紀郎:市民環境研究所)


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