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コラム 南から北から

季節の訪れのままに暮らす日々


 古市さんの種子島からの文章に「3月から田植えが始まる」とありましたが、山形ではまだ田畑に寒風が吹いています。今年は雪が少なくて、雪解け水も大幅に減り、農作業に影響が出るのではと心配する声がきかれます。このあと、3月末に稲の種の温湯消毒が始まり、田起こし(田んぼの耕耘)は4月に入ってから、田植えが始まるのはようやく5月も半ばを過ぎてからです。

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 白鷹町に来て来年で30年になります。静岡県の浜名湖の海ぎわの町に生まれ育ち、東京暮らしを17年。結局、山形で暮らす時間が一番長くなりました。来たころは、親世代が農業をやって、若い夫婦が町内の製造会社で働くという兼業農家が周囲に多かったのですが、今では親たちは亡くなったり、介護される身となり、田畑の面倒を見る人が本当に少なくなりました。

 我が家は当時から珍しい専業農家で、稲作と養蚕で長年生計を立てていました。当時は夫と義母でやっていた蚕の飼育に見切りをつけ、平飼い養鶏に転換したばかりでした。その後、子育てに一息ついた40歳で私も野菜作りを始め、50歳で農産加工のグループを仲間と始め、それから今に至るまで、田畑の作業、漬物や惣菜の加工作業、事務仕事、家では鶏卵の洗浄とパック詰めなど、毎日、仕事の切れ間なく過ごしています。

 一大決心をして農業を始めたわけではないのに、こうして続けてこられたのはなぜか。東京では、大学卒業後、公務員を2年やり、その後は国際連帯をめざす市民団体のスタッフとして10年働きました。雑誌を編集したり、集会を準備したりと毎日が刺激的で面白かったけど、この仕事をずっと続けていけるとは思えなかった。

 今では、春になれば野菜や豆の種を蒔いて苗を育て、夏は除草に追われ、秋には秋冬用の種を蒔き、11月までに収穫を済まして加工にまわす。季節の訪れが当たり前のように、自分の仕事も当たり前にやってくる。70歳になっても80歳になっても、その年相応の規模とやり方で、やり続けているだろうなという確信があります。

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 昨年8月に義母が他界しました。春になると、お舅様から教えられたという苗の温床を藁と米糠でこしらえて、家族に食べさせたい野菜の種を蒔いて育てていました。藁の束を仕込んだ木枠で周囲を囲み、その中に刻んだ藁と米糠を何層にも敷いて水を撒き、発酵させて温度を上げて苗の温室を作るという昔からのやり方です。私も何回か手伝って、義母ができなくなった後に2回ほど自分で試したけど、十分に温度を上げられずに断念しましたが。

 義母は、年をとってあまり動けなくなった後も、家の前の庭の草取りをしたり、隙間に食べたい葉物やかぼちゃを育てたりして過ごしていました。家の南側の桑畑の跡地に、義母が植えたフキが年々広がって、りっぱなフキ畑になっています。一昨年まで、畑に腰を下ろしてフキ採りに夢中になっていた姿が脳裏に残っています。

■まだ耕耘も始まらない田んぼ。遠くの山には残り雪。

 義母に指図されたことは一度もないのに、四季の訪れのままに、百姓の仕事を営々とこなしていた義母の背中を、いま自分は追いかけているんだなと思います。5月初旬には、大きく葉を広げたフキの収穫が始まります。楽しみです。

                      (疋田美津子:山形県白鷹町在住)



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