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アソシ研リレーエッセイ

森下雅喜と走ってきた道


 2019年11月26日、森下雅喜が急逝した。人づてに、自宅の椅子に座って冷たくなっていたと聞いた。その一週間ほど前、自分用の座ぶとんを持参して会議に出てきて、議論したことがあったので、にわかには信じられない思いが強かった。けれど、死に様は彼らしいと、ストンと胸に落ちた。享年67才。千里印刷、能勢農場、クリエイト大阪、北大阪商工協同組合、北摂反戦民主政治連盟、高槻農産。20代前半の頃から、同じ道を走り続けて来た同志だった。

 初めて顔を合わせたのがいつだったのかは定かではない。けれど、レンタルしたマイクロバスに乗って、能勢町の山辺地区に売れ残っていた宅地へ連れてこられ、ここで農場づくりを始めると確認した人たちの中に彼が居たことは間違いない。でも定かな記憶はまったくない。思えば、森下雅喜はそんな人だった。能勢農場が国道沿いに初めて借りた4反余りの農地。その長い畝を、背すじをのばして、ひたすらクワで土をあげていく。休まず、急がず、黙々と。森下雅喜はそんな人だった。

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 2~3年前、彼が何度目かのガン再発で入院し、手術を受けて声帯を失った時、入院していた病院を見舞ったことがあった。病院の談話室で、並んで座って筆談で会話した。彼がノートに書く文字は、大学闘争の立て看で、ガリ版刷で鍛えられたアジビラの文字だった。その時、彼が代表を務めていた高槻農産が担ってきた業務を、これからは北摂・高槻生協の活動として引き継いでいく転機だと思うと伝えた。「僕もそう思う」。彼はノートにそう記した。その後、高槻農産の会社清算手続きは、あっという間にみごとに進められた。

 でも、その手術の後は、食べ物がなかなか喉を通らず、味が分からないとコボしていた。スリムだった身体が一層細くなって、眼だけが鋭く大きくなったように思えた。高槻の畑に出て、作業をする体力がなくなって、それでも現場に出て作業の指示を出し、畑をまわっていた。そして、翌朝、森下雅喜は椅子に座って静かに逝った。

 森下雅喜を思うと、もう1つ思い浮かんでくる光景がある。それは、故上田等に厳しく叱責されている姿だ。「おっさん」。僕らは皆、上田のことをそう呼んでいたが、おっさんの怒られ役として、彼は僕らの世代の中で一、二を争う存在だったように思う。何時、こっちにその矢が飛んでくるかとヒヤヒヤしながら身を縮めていたことが多かったけれど、他方で、遠慮のない叱責が、深い信頼の証しでもあることが分かって、ちょっと、うらやましくも感じられた。

 実際、千里印刷から始まって、北大阪商工協同組合の設立、中国事業への展開、コンピュータ時代を見通して創業したクリエイト大阪設立と、森下雅喜は上田等が率いる事業活動の最先端をつくる現場を常に任されて来た人でもあった。その頑なとも言える仕事への取組み方。他人に頼らず、自分で努力し、学習し、未知の領域へと切り込む人柄がその信頼の根拠だった。でも、同時にそれは、周囲の人間には時として冷たい態度と裏腹になりかねない。おっさんの叱責の多くが、そんな森下雅喜の人間関係を危惧しての、おっさんなりの励ましであり、助け舟だったのかもしれない。

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 代表取締役を退任して初めてとなった、今年のクリエイト大阪の株主総会で、これまでは議長席に座って司会をしていた森下雅喜が僕の隣に座っていた。例によって、口うるさく疑問や問題点を指摘する“総会屋”の発言に、議長席の新代表の答弁より早く、熱心に応えてくれたのが隣の森下雅喜だった。時には、僕以上の厳しい口調で、クリエイト大阪の今後に注文をつけていた。「託す」ということはそういうことなのだと思う。厳しい批判は、そろそろ終わりを迎えつつある自分自身のこれまでの生き方へのそれであるに違いない。

 森下雅喜が逝って1ヶ月。彼から託された彼の仕事の成果を、もう少しの間、引き受けて生きたいと思う。「託す」ためにも闘うことを止めるわけにはいかないと思うから。

 元気で居ろよ、森下雅喜。

                                               (津田道夫:当研究所事務局)



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