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アソシ研リレーエッセイ

家族の変容とコミュニティ


 学校をいよいよ卒業しようというとき、ぼくは就職するのが嫌だった。就職をすることはある意味、個性を失うことだと思っていた。

 父親は高度経済成長期のサラリーマンで、営業職のためお得意さんと毎日のように呑んで遅くに帰宅した。だから父親に子育てをしてもらった覚えはなく、その代わりに日曜日にはキャッチボールなどで相手をしてくれていた。呑んで帰ってばかりいて、どこまでが仕事で、どこまでが遊びかよく分らなかったが、仕事一筋だったと言ってもいいと思う。

そんな父親なので、母は多分、子育ての相談などを父親にすることもなく、ひとりでぼくを育ててきた。もちろん、高度経済成長やバブル景気などのおかげで収入はある程度安定していて、母親はパート程度の仕事をしておけばよかったのだろうし、それは完全な分業だったといえるかもしれない。

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 仕事は分業にした方が効率がいいと言われる。それが家庭内においても言えることなのかどうかは分らないけれども、男は外に出て働く、女は家を守る。ぼくはそのようにして育てられたように思う。

 いまはバブルの頃と違い、共働きの家族がほとんどになった。家族それぞれ異なるとは思うが、そのことによって家事も分担して行うのが当たり前の時代になった。

 ぼくは別にそれを悲観して見ているわけではないし、男にとっても女にとっても、多様な生き方の可能性を拡げたことは大きな意味があると思う。

 しかしながら、一方で〈労働〉というものに対する意義が薄れつつある時代になったと言うことができると思う。家事のことを考えると、仕事なんかさっさと切りあげて家に帰る方がいい。

 能勢農場の農場憲章には「人間解放とは働くことが喜びとなる人間労働の回復をはかること」とある。また書籍『流れに逆らって(能勢農場20年の記録)』の末尾には「設立の目的」という設立当初の資料が付されていて、そこには会社や職場でやっている仕事が仕事全体の一部であって、生活も含め、全面的な仕事、すべての仕事をして人間としての全体性を回復していく。この農場は人間としての全体性を養い、回復し、その力をもって多方面の運動のエネルギーとしたい、というようなことが記されている。

 家事の分担をするようになって、男たちにも少しは仕事の全体性に目を向けられるようになっただろうか。仮にそうだとして、農場との大きな違いは同じ志をもった人たちの集まるコミュニティという面にある気がする。

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 シェアハウスなどコミュニティ文化が拡がりつつある昨今、経済活動を含んだコミュニティというものの意義が改めて問われているようにも思う。

 たとえば〈平等〉ということを突きつめていくなら、コミュニティは目的なんか持たない方がいい。それぞれが様々な方向を向いて、気持ちのいいように関わったらいい。その方が簡単で平和に毎日は過ぎていくだろう。目的をもつと指導者が必要となる。その方がコトがスムーズに進むからだ。そして目的が強ければ強いほど、メンバーの自由さも失われる。

 能勢農場のいう〈全面的な仕事〉とはひとりでできるものではない。たとえ家のなかで〈全体的な仕事〉をこなせたとしても、それでは意味がない。〈多方面の運動〉も、たとえそうした視野はあったとしてもひとりでは活かすこともできないのだろう。

 経済活動を含んだコミュニティというものがどんな目的に重きを置いていくのか、この時代に改めて問われているように思う。

                                                              (矢板進:㈱よつ葉ホームデリバリー京滋)



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