連載 ネパール・タライ平原の村から(95)
ホームエレクトリカルゼーション①
乳牛を売ってテレビを買った時代
ネパールの農村で暮らす、元よつば農産職員の藤井牧人君の定期報告。その95回目。
生まれた時から、電化製品のあれもこれもあった僕と違い、妻にとって家電とは、憧れの的であります。妻が小学生で電気がまだ普及していなかった頃、グルカ兵のおじがインドから持ち帰った乾電池式ラジオを聴きに、走って会いに行ったそうです。
おじは昼寝しながら、男女のコーラスの音声に耳を傾けていて、妻が「何て綺麗な声でしょう」「この人たちの家はどこ?」と聞くと、「この中に小さな家があってそこに座っているのだよ」と教えてもらったとのことです。
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隣家の妻の実家に白黒テレビが来たのが、33年前の1986年。当時、国道沿いから順に電線を引く工事が始まった段階から、退役グルカ兵の親戚クマールの父親は白黒テレビを購入していて、「いよいよ電線が通るとテレビを観るためクマールの家にみな集まり窓の外からも覗く人だかりができた」と。
当時、ネパール語放送はまだ始まっておらず、初めて観たテレビ番組はインドのヒンディー語放送だったけど、驚き興奮したことを懐かしく語ります。
そのうち放送日程があることを知り、夕食が済むと就寝前まで母とクマールの家へテレビを観に行ったとのことです。クマールの家族が寝静まっても、言葉のわからないウルドゥー語(カシミール地方やパキスタンの公用語)のフィルムを想像しながら、深夜まで観ていたとのこと。
自分の家は簡素で灯は、少しの風で消える灯油ランプだったそうです。そのうち、自分の家にも電気が来るようになり、「電球は2つだけの家だったけど」「父が乳牛を売って14インチの白黒テレビを買いに行った」とのことです。
近隣からクマールの家のようにたくさん来て、空高く竹棒につないだアンテナを見ては、何だか嬉しい気分になったとのこと。
ケータイ電話は2009年、ネパールテレコム社の長蛇の列に深夜2時まで並んで契約手続きを済ませ、SIMカードはバスで4時間かかるバイラワまで買いに行ったそうです。
ちょうど僕がネパールに来た2010年、妻の山岳部の故郷の親戚らもケータイを持つようになり、連絡がありました。その時義母が、「以前は声を聞くのにバス1日徒歩3日かかっていたあの人の声がすぐに聞ける。これは一体どういうこと?」と首をかしげていました。
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■2010年、隣家の白黒テレビが 中古のカラーテレビに |
海外出稼ぎ者が増え、パソコンを数台並べたサイバーカフェというのが大いに流行りだしたのもこの頃でした。インターネットで母子が出稼ぎ先国の夫と、人目を憚らず大声で音声通話サービスを利用していたのですが、10年と経たないうちにスマートフォンが登場。
その後は、自宅でもインターネット(Wi-Fi)が可能となり、サイバーカフェはもう見かけなくなりました。スマートフォンがないといけないような、落ち着かないような時代へと変化しました。
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社会が新しく変われば変わるほど、農家生活の中にもどんどん新しいモノが入って来ます。連綿と続く素朴な「今も昔も変わらない暮らし」「心のふるさと」「私たちが失った暮らし」などと、僕にとって都合の良い言葉は、もう通用しないのです。
(藤井牧人)