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市民環境研究所から
いまなお続く「公害」の歴史
今までもたびたび「猛暑」とか「酷暑」と表現してきたが、今夏ほどピッタリだったことは珍しい。エアコン嫌いの筆者は酷暑とエアコンの両面攻撃で疲れ果てているが、そんな弱音を言えない状況に追い込まれている。
6月末だったか、東京の知人から、8月に京都市で第39回ダイオキシン国際会議が開かれ、それに合わせてカネミ油症事件の写真展をやりたいので、力を貸すようにとのメールが届いた。長年の付き合いもあり、5年前には、放射能に汚染された福島産木材チップが滋賀県の鴨川河川敷に不法投棄された事件で、東京からの情報を送ってくれた知人なので、手伝わないわけにはいかないと動き出した。
写真展の資材・資料は長崎大学の友澤さんたちの力作を拝借させてもらったから、頭を使うことはない。場所と人手を確保すれば仕事の大半は終わってしまうが、それでも宣伝や当番リスト作りなどとやることは多い。
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食用油の生産工程で毒物である塩素系化合物PCBがパイプから漏れ出し、PCB汚染された食用油が大量に売られ、中毒症が多発した。いわゆるカネミ油症の発生地域は山口県から西に広がり、福岡、佐賀、長崎や熊本が中心だったから、京阪神地域では油症事件を取り上げる運動体は当時も少なく、現在ではほとんどないので、団体への応援依頼は諦め、個人的知り合いに助っ人になってもらい、8月18日から「京都写真展 油症事件とPCB/ダイオキシン汚染」が始められた。
カネミ油症事件の発生は1968年だが、それ以外にもPCBを用いた電気製品や工業生産過程でのPCB汚染問題が多発し、筆者も琵琶湖周辺にある工場から流出したPCB汚染を追いかけていた。1970年代半ばから80年半ば、50年も昔のことだ。
富士市の製紙工場から排出され、田子ノ浦に堆積していた製紙カス(ノロ)が燃やされないまま、富士山山麓の樹林帯に掘られた穴に埋められた事件を追いかけていたのは1987年前後。同じ頃、大津市の琵琶湖畔の製紙工場からのノロが堆積していた事件もあった。これらのノロにPCBが含まれていたように、全国いたるところでPCBやダイオキシンを含んだ廃棄物や焼却灰が埋められたままである。
PCB汚染は全国各地で発生し、時折、焼却灰の埋め立て問題が話題になるが、人々からは忘れられている。カネミ油症事件も同様であり、人々から忘れられた事件である。被害者の救済や汚染者の責任問題は解決したのであろうか。
油症患者の現状や会社と国の対応をきっちりと批判した書として、『油症は病気のデパート、カネミ油症患者の救済を求めて』(アットワークス、2010年)というブックレットがある。著者は水俣病患者を支え続けた故原田正純さん。熊本の大学に居られたから、油症患者の治療や運動にも深くかかわられていた。
同書の巻頭文には、50年も前に発生した事件だが、15000人が患者だと名乗っているのに認定されたのは2400人ほどである。患者の闘いは今日も続いている。損害賠償はまだまだ終わらず、製造者責任は追及されず、被害者救済法は制定されず、国の責任は明確にされず、その上に加害企業と国の謝罪はなく、患者への公的支援もないと書かれている。
この50年ほど、国内外の公害・環境破壊現場を歩いてきた筆者にとって、カネミ油症事件は過去の記憶でしかなかったが、今回の企画を担当し、我が国の被害者への対応の劣悪さには怒り再燃である。
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水俣、カネミ、フクシマなどなど、この数十年間に発生した公害問題への加害企業や国の対応を嘆きながら、写真を眺めている。油症患者への支援もほとんどやれていなかった自分を恥じるだけであり、この写真展を担当させてもらってよかったと思う。
これから何をやれるかとパネルを見ていたら、「PCBやダイオキシンの問題を整理でき、これからの活動の中に活かせると思う」と感想を述べてくれた若者がいた。そして、明後日にはカネミ油症の患者さんが会場に来て、現在の問題点を話してくださるという。8月31日に写真展は終わるが、酷暑も一緒に終わってくれて、秋からは新たな心構えの運動が展開できたらと思う。
(石田紀郎:市民環境研究所)